5 絶体絶命

 数百体もの上級人魔にのしかかられて、僕は虫の息であった。

 この世に暗黒神として生まれ落ちてから――いや、それ以前の人間であった時代を含めても、これほどまでの苦痛に見舞われたことはなかっただろう。それは、この身で味わわなければ想像することもできないような、苦痛の嵐であった。


 全身の骨を砕かれるような圧力をかけられながら、意識を失うこともできずにのたうち回っているような感覚である。それでいて、全身の表皮をグラインダーか何かで削られているかのような、鋭い痛みも知覚できる。人魔たちは僕を瞬殺することができるほどの力を持っていない代わりに、僕を少しずつ圧死させようと試みているようだった。


 ナナ=ハーピィたちの声や魔力も、もはや感知できなくなってしまっている。人魔たちの繰り出す魔力があまりに膨大であるために、それ自体が障壁のようになってしまっているのだ。


 きっとナナ=ハーピィたちは、僕に群がった人魔たちの背中に攻撃し続けていることだろう。それで薄皮を剥がされるように1体ずつの同胞が朽ちていっても、彼らは僕を抹殺することのみを遂行しようとしているのだ。


 僕ひとりに、これだけの上級人魔を退ける力はない。そんな力があったならば、とっくの昔に魔族の軍勢は人間族との戦いに勝利していたことだろう。

 では――僕はこの場で、朽ち果てるのだろうか?

 ない知恵を絞って組み上げた計略は水泡と化し、魔族と人間族の共存共栄を成し遂げるどころか、1000年の間を君臨し続けてきた暗黒神の存在をも、破滅させてしまうのだろうか?


(僕なんかが暗黒神になってしまったために……魔物たちから、大事な君主を奪ってしまうことになるのか?)


 だったら、僕は――自分らしく生きたいなどという望みは持たずに、暗黒城の暗がりでのんべんだらりと過ごしているべきであったのだろうか?


 いや。

 それが正しい道であったなどとは、どうしても思いたくなかった。

 僕はようやく、暗黒神として生きることに楽しさや充足感を見出しかけていたところであったのだ。

 それに僕は、僕を慕ってくれる魔物たちに、僕なりの情愛を抱きかけていたところでもあった。


 いつでも陽気な、ファー・ジャルグ。

 いつでも冷徹な、ルイ=レヴァナント。

 妖艶な美貌の下に、深い悲哀を隠したコカトリス。

 そして、いつでも無邪気な、ナナ=ハーピィ――


 彼女の笑顔が虚ろになった脳裏に浮かんだ瞬間、激烈な痛みが身体の芯を通りすぎていった。

 これは、肉体を破壊されている痛みではない。大事な存在を失いたくないという、精神の痛みであった。


(僕は、いつの間に……彼女のことを、こんなに大事に思っていたんだろう)


 僕がそんな風に考えた瞬間――

「ベルゼ様!」という悲痛な声が、耳をつんざいた。


「こんなやつらに、負けちゃ駄目だよ! ベルゼ様は、暗黒神様でしょ!」


 僕の肉体をどろどろと腐蝕させていく魔力の向こう側から、漆黒の炎ともいうべきエネルギーの塊が飛来してきた。

 ナナ=ハーピィが、1本の剣のように鋭い姿に変じて、人魔どもの織り成す魔力の障壁を突き破ってきたのだ。


 ナナ=ハーピィは、そのまま僕の胸に突き刺さった。

 普通であれば、それは相手の肉体を損傷させる行いであっただろう。

 しかし、現在の彼女は僕の譲渡した魔力で構築されている。中身が空っぽである暗黒神の甲冑は、そのままするりとナナ=ハーピィの存在を呑み込んでしまった。


 瞬間、ナナ=ハーピィに譲渡していた魔力が、僕に蘇る。

 そして、全身を苛む痛みが、嘘のように消失した。

 その代わりに、ナナ=ハーピィの苦悶の絶叫が、僕の中に響きわたる。

 彼女は僕と一体化することで、すべての苦痛を引き受けてくれたのだった。


(ナナ! なんて無茶なことを!)


 明瞭になった意識の中で、僕は無茶苦茶に魔力を振り絞った。

 一刻も早く、彼女を苦痛から解放しなければならなかったのだ。

 すべての人魔をはね返すことはできない。それでも僕は感覚を研ぎ澄まし、十重二十重に張り巡らされた魔力の壁の薄そうな場所を選んで、突き破り、外の世界に逃げおおせてみせた。


 僕の肉体が、再び変貌している。

 山羊の頭骨めいた顔貌はそのままに、首から下が巨大な鷲の形状をした漆黒の鎧となり、僕は大広間の天井近くまで舞い上がっていた。


 足もとには、人魔の山ができている。

 いや、彼らはすでに、僕を目掛けて飛びかかってきているさなかであった。

 しかしそちらには目もくれず、僕は探知の魔力を蜘蛛の巣のように大広間へと張り巡らせる。


 魔術師は――遠く離れた、大広間の片隅だ。

 隠形の術式で身を隠し、そこで人魔に命令を下している。


「ケルベロス! 魔術師は、そこだ!」


 ケルベロスは三つの首で咆哮をあげるや、僕の指し示した方向に漆黒の火炎を吐いた。

 炎に包まれた魔術師は、あわれげな悲鳴をあげながら、床をのたうち回る。


 それと同時に、人魔たちから統率は失われた。

 もともと僕のほうに向かっていた者たち以外は、手近なエキドナやジェンヌ=ラミアに襲いかかっていく。


 僕は足もとに迫った人魔たちを大鷲の鉤爪で蹴散らしながら、自分の内部を探査した。

 ナナ=ハーピィは、本来の姿に戻って、僕の体内で昏睡していた。

 痛みのあまりに、気を失ってしまったのだ。その身には、生存するのにぎりぎりの魔力しか残されていなかった。


 僕はナナ=ハーピィに癒やしの術式を施しつつ、壇上の中央に舞い降りる。

 ナナ=ハーピィに感謝の言葉を伝える前に、僕は自分の使命を果たさなければならなかったのだ。


「アニデャ・イフ・ドゥラーラ・ルィファソゥ・ミダキュラ・ダェリーリ・ナーキュフィア・マラザラ・ニム・キュアムハグ・タキュハァ」


 僕が開門の呪文を唱えると、漆黒の円環が出現した。

 それと同時に、壇の下から聞き苦しい笑い声が響きわたる。


「うつけ者めが! それに触れることが許されるのは、魔術師のみであるのだ!」


 笑っているのは、グラフィス子爵であった。

 その手には、さきほど僕の腹部を貫いた鉄の槍が握られている。


 そして――円環から、漆黒の暴風雨が現出した。

 円環を守る、『門番』である。


「たった1匹の魔物が、そやつを退けることはできん! ましてや、余を同時に相手取るとあってはな!」


『門番』とグラフィス子爵が、同時に僕へと襲いかかってくる。

 しかし僕は、この任務のために鍛錬を重ねていたのだ。

 僕は背中の側にのみ障壁を張って、『門番』のほうへと飛びかかった。


 障壁を砕いた鉄の槍が、僕の右腕の翼に突き刺さる。

 その痛みを黙殺して、僕は渾身の魔力を『門番』に叩き込んだ。

『門番』は、その一撃で消滅した。

 コカトリスたちは3名がかりでも、多少の苦戦を強いられていたが――僕はそれよりも遥かに強大な力を持つ、暗黒神であるのだ。これが、当然の帰結であった。


「おのれっ!」と、今度はグラフィス子爵本人が突撃してくる。

 僕は残存する魔力を振り絞って、そのぶくぶくと膨れあがった腹を正面から蹴りつけた。

 グラフィス子爵は青黒い体液を撒き散らしながら、壁のほうまで吹っ飛んでいく。


 どれだけの魔力を使っても、僕が完全に枯渇しきることはない。大地の魔力をすみやかに自分の内に取り込むことのできる、この規格外の回復力こそが、暗黒神の特性であった。暗黒神を滅ぼすには、この回復力をも上回る魔力の攻撃が必要となる。さきほどの、数百体の上級人魔による波状攻撃こそが、まさしくそれだけの力を持っていたわけであるが、グラフィス子爵たったひとりに後れを取る理由はなかった。


 他の人魔たちは、ジェンヌ=ラミアたちが食い止めてくれている。

 僕は魔力が回復するのを待って、円環の内部へと探知の触覚をのばした。


 この内部にも、実は数々のトラップが隠されている。

 しかしそれは、ちょっとした迷路を進むていどのものだ。石の壁にめり込んでいたグラフィス子爵が起きあがり、憤怒の雄叫びをあげると同時に、僕は人魔の術式の触媒のもとまで辿り着いていた。


 グラフィス子爵が、再び後方から躍りかかってくる。

 それは無視して、僕は術式の触媒に崩壊のプログラムを送りつけた。


 瞬間――世界が、細かく震動した。


 僕の背中に、どすんと何かがぶつかってくる。

 それは、卑小なる人間の姿に戻ったグラフィス子爵であった。


「こ、これはどういう……?」


 そんな間の抜けた言葉を残して、グラフィス子爵はくにゃくにゃとくずおれた。体内の魔力が一気に消失したので、その負荷によって昏倒したのだろう。


 世界には、芳醇なる魔力があふれかえっている。

 人魔の術式に費やされていた魔力が、解放されたのだ。

 それを胸いっぱいに吸い込むと、くたびれ果てた肉体に力がみなぎっていくかのようだった。


 そうして下界に視線を巡らせると、大広間は昏倒した貴族たちによって埋め尽くされていた。


「なんだ、せっかく面白くなってきたところだったのによ」


 そんな憎まれ口を叩きつつ、ケルベロスはぐったりとうずくまった。

 ジェンヌ=ラミアは大蛇の異形を失い、高い場所から落下する。その身体は、なんとかエキドナが受け止めてくれた。


『ベルゼビュート様。すべての人魔が人間に戻り、意識を失った模様です』


 ルイ=レヴァナントの報告を皮切りに、頭の中でさまざまな念話が爆発した。誰もが同じ光景を前にして、快哉をあげているのである。


「……なんとか、ミッション達成か」


 僕は胸甲をひっぺがして、体内のナナ=ハーピィを取り出した。

 甲冑の肉体は通常フォームに戻して、ナナ=ハーピィの小さな身体を大事に抱え込む。ナナ=ハーピィは、実に無邪気な面持ちで寝息をたてていた。


「ひと息ついてるところ、悪いんだけどね。まだ後始末が残されてるみたいだよ、暗黒神様!」


 と、影の中からファー・ジャルグの顔が覗いた。

 その顔には、ずいぶん神妙な表情が浮かべられている。


「やあ、お疲れ様。後始末って、なんの話かな?」


「アレだよ、アレ。なーんか、剣呑な雰囲気だろ?」


 今度はにゅうっと右腕がのびて、壇上の一画を指し示した。

 見れば、最初に吹き飛ばした3名の魔術師たちがよろよろと起き上がっている。彼らの生命力は倒れ伏している貴族たちと同じぐらい微弱であったので、僕の触覚を刺激しなかったのだ。


「人魔の術式は破壊させてもらったよ。悪あがきはせずに、君たちも投降してもらいたい」


 ナナ=ハーピィを抱いたまま、僕はそのように呼びかけてみせた。

 魔術師のひとりが、力なく首を横に振る。


「暗黒神よ……貴様はついに、人魔の術式の解除方法を体得してしまったのだな……この上は、我が身と引き換えにしてでも、貴様を滅ぼす他ない……」


「それは、不可能だよ。君たちは、もう虫の息じゃないか」


「否……貴様は、この地で滅びるのだ……」


 杖を打ち捨てた魔術師たちは、懐から銀色の短剣を抜き放った。

 しかし彼らは、か弱き人間だ。もはや人魔に化すこともできないし、現在の衰弱しきった身体では、まともな魔術を発動できるとも思えなかった。


「そんなに死に急ぐことはないよ。投降するなら、生命の保証をすると約束しよう」


「魔をもって、魔を滅する……滅びよ、暗黒神!」


 魔術師たちは、短剣を振り上げた。

 その切っ先が貫いたのは――いずれも、自身の心臓であった。


 赤い血の塊を吐いて、魔術師たちは床にへたり込む。

 その勢いで、真ん中に立っていた魔術師のフードが、背中のほうにずれた。


 魔術師は、頭に1本の毛髪もなかった。

 その代わりに、手の甲と同じ意匠の紋様が、漆黒でびっしりと刻みつけられている。


 そして――絶命したはずの肉体に、新たな生命力が爆発した。

 それは純然たる、魔力の波動であった。

 呆然とする僕の頭に、コカトリスの念話が響きわたる。


『魔術師どもが、魔物に化けたわよ! これはいったい、どういう手妻なの!?』


 その問いかけには、僕も答えることができなかった。

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