第7章 デイフォロスの戦い(上)
1 前準備
翌日から、デイフォロス公爵領における潜入捜査は大きな路線変更を余儀なくされることになった。
言うまでもなく、それは農園落ちした貴族オスヴァルドからもたらされた数々の情報ゆえである。かつては貴族の中でもきわめて高い位であったらしいオスヴァルドは、実に数多くの有益な情報を携えていたのだった。
まずは、魔術師についてである。
貴族にとっても、魔術師というのは謎の多い存在であったらしい。少なくとも、彼の故郷であるグラフィス公爵領には、魔術師の正体を知る人間は皆無であったという話であった。
「魔術師の正体については、公爵家の当主にすら明かされていなかった様子であるのじゃ。それを知るのは、王都の王たちのみであるのじゃろう」
オスヴァルドは、そのように語っていた。
貴族や市民の中に魔術師としての才覚を持つ赤子が産まれた際には、すべて王宮内の聖堂に隔離されて、秘密裡に育てられる。魔術師の育成をするのもまた魔術師であり、すべての秘密は魔術師に握られてしまっているのだ。
ちなみに僕たちが占領したグラフィス城の聖堂は、完膚なきまでに破壊し尽くされていた。コカトリスによると、これは占領時からそうであったという。この地を捨てて逃亡すると決めた際に、魔術師が自分たちの手で証拠や手掛かりの隠滅を図ったのだろう。石の町に築かれていた聖堂においても、それは同じことであった。
魔術師というのは、それだけ徹底して自分たちの正体を秘匿しているのだ。
僕たちが魔力を使えない状態で潜入しても、その秘密を探ることは難しいだろう。もとより、自分たちの目でも聖堂のガードの固さを見届けていた僕たちは、そちら方面の探索を断念せざるを得なかった。
その代わりに、新たな作戦として立案されたのは、農奴たちの懐柔であった。
農奴たちを離反させて、領地の外に連れ出してしまおうという、そういう作戦である。
「農奴たちは、現在の生活に何の未練も持ってはおらぬじゃろう。あやつらは、ただ死の恐怖に心を縛られているだけのことなのじゃ」
その恐怖をもたらしているのは、人間族の支配層、および僕たち魔族である。
よって、魔族の側が生命の安全を保証するならば、彼らを離反させることも容易いのではないか――という話であったのだった。
また、これはもともとルイ=レヴァナントがひそかに立案していた計画でもある。そのために、潜入捜査員は各区域の農奴長の住まいを探るように指令を受けていたのだ。
農奴長か、あるいはそれに近しい立場のある人間を結界の外にまで連れ出して、説得をする。強い魔力の影響下にある領地から連れ出せば、農奴たちも本来の理性や判断力を回復させることができるのだった。
そうして農奴長を中心にして、離反の準備を進めさせる。これがもしも、魔族のために剣を取れ、などという話であったのなら、彼らもとうてい肯んじはしなかっただろうが、そのような真似をする必要はない。彼らはただ、いざというときに結界の外にまで出てくれれば、それで十分であったのだった。
結界の外に出てしまえば、彼らが人魔に化すことはない。かつてハンスからその情報を入手した時点で、ルイ=レヴァナントはこのような策謀を温めていたのだ。
農奴というのはしょせん下級の人魔であるが、それでも10万名という数は馬鹿にできない。彼らの大多数を懐柔できれば、相手側からそれだけの戦力を削ぐことができるのだ。ガルムあたりは渋い顔をしていたが、僕としてはきわめて有効な作戦であるように思えてならなかった。
いっぽう、市民についてであるが――こちらを離反させるのは難しいだろう、ということで話は落ち着いた。
理由は、2点。農園よりも中央に位置する石の町から1万名もの人間を結界の外に連れ出すのは困難である、というのと、あとは、市民たちの人間性であった。
市民たちは、現在の暮らしに満足しているように見受けられる。また、心身ともに力があふれかえっているので、ひそかに結界の外まで連れ出すということ自体が、きわめて困難であるのだった。
結界の外まで連れ出せば、ハンスのように理性を取り戻す人間もいるのかもしれない。しかし、現在の彼らは破壊衝動と性衝動の虜であるのだ。そんな彼らをなだめすかして結界の外に連れ出す方法は、さすがのルイ=レヴァナントでも考案することができなかった。
ということで、次なる作戦である。
僕たちにとってはメインプロジェクトとなる、城への潜入だ。
これに関しても、オスヴァルドが有益な情報をもたらしてくれた。
「グラフィスの領主は、色欲の権化であったのじゃ。あやつは月に数回、町の娼館から娼婦を招き入れておった。そしてあやつはデイフォロスにおいても高い地位を得ることになったので、現在もなお爛れた生活に身を置いておることじゃろう」
潜入捜査員の情報収集によって、それはすぐに真実であることが確認できた。町の娼館では10日ごとに、選りすぐりの娼婦を城に送りつけていたのである。この忌まわしい悪習を利用すれば、僕たちも城に潜入することが可能であるはずだった。
「これでおおよそ、計画は整ったようだね」
僕とナナ=ハーピィとジェンヌ=ラミアの3名が、娼婦としてデイフォロス城に招かれるように、段取りをつける。
首尾よく謁見の間に踏み入ることができるようであれば、農奴たちに合図を送って、結界の外に逃亡させる。
おそらく魔術師たちは、農奴を引き戻すために、市民を人魔として追わせるだろう。そのタイミングで、僕が魔力を解放し、漆黒の円環を顕現させるのだ。
僕が魔力が解放すれば、城の結界も砕かれて、貴族たちも人魔と化す。きわめて危険な状態であろうが、ナナ=ハーピィとジェンヌ=ラミアにその迎撃をお願いして、その間に僕は人魔の術式を破壊する。それで、作戦終了であった。
「もちろん、ハーピィとラミアだけで貴族たちを相手取るのは難しいだろう。だから、ケルベロスとエキドナも城壁のすぐ外で待機してもらうよ」
「ああ。人間に化けられる団員の中で上級の人魔を相手取れるのは、俺たちぐらいだろうからなー。ようやく面白くなってきたぜ」
「さらに、結界の外には魔獣と蛇神の全兵団員に待機してもらう。可能であれば、上級の力を持つ団員は結界が解除されるのと同時にデイフォロス城を目指してほしいところだけど……それが無理なら、中級の人魔を率いる魔術師たちを相手取ってくれるだけでも十分だよ」
「なんのなんの! 中級の人魔だけでは面白みがないですからな! なんとしてでも、城まで駆けつけさせていただきますぞ!」
作戦の内容が具体化するにつれて、団員たちの士気も上昇していった。
ただし、作戦の決行はまだ先である。その前に、まずは僕自身が必要な力を身につけなければならなかったのだった。
僕は桁違いの魔力を有しているが、まだまだその扱い方が覚束ないのだ。ナナ=ハーピィたちは上級の人魔を相手取るだけで精一杯であろうから、円環から出現する『門番』は、僕が退治しなければならないのである。
僕がどれだけ迅速に『門番』を退治して、人魔の術式を解除できるか。その一点によって、被害のほどは左右されるはずであった。
よって、この数日間、僕は潜入捜査に参加していない。それは頼もしい捜査員たちにおまかせして、ずっと修練に励んでいたのである。
その修練につきあってくれたのは、コカトリスを始めとする『三つ首の凶犬と蛇女王の城』の団員たちであった。ケルベロスとエキドナを除く上級の魔物を総動員して、実戦形式のスパーリングに励ませていただいたのだった。
おかげさまで、複数の魔術を同時に発動させるコツもつかめてきた。それに、自分にはどのような能力が備わっているのか、ルイ=レヴァナントやファー・ジャルグに教えを乞うて、それらを再び身につけていくことができた。暗黒神というのがどれほど規格外の存在であるか、僕もそれで再確認させられることになったわけである。
その修練が一段落したのは、『三つ首の凶犬と蛇女王の城』に残存していた人魔の術式を解除してから、10日ほどが過ぎたのちのことであった。
その間に、農園における啓蒙活動もおおよそ完了したようである。ルイ=レヴァナントの報告によると、農奴の過半数はこちらの提案を受諾した様子であった。
「さすがはルイだね。正直なところ、そこまでトントン拍子に話が進むとは思っていなかったよ」
使い魔を通じてそのように賞賛を送ると、ルイ=レヴァナントはにべもなく『いえ』と応じた。
『それだけ農奴の間には、絶望の念が蔓延していたのでしょう。たとえ自分たちが魔物に騙されているのだとしても、今より不幸になることはないだろう、と……誰もが、そのような思いであるように見受けられます』
「あんなひどい暮らしに身を置いていれば、それが当然さ。……で、ケルベロスたちなんかは、いったいどういう心境であるんだろうね?」
『それはわかりかねますが、人間の王や貴族に対していっそうの怒りをつのらせているような気配を感じます』
ならば今は、それで十分であった。
ルイ=レヴァナントとの通信を終えた僕は、自分の寝所を出て厨房に向かう。そちらに近づくにつれて、実に賑やかな喧噪の気配が伝わってきた。
「あー! だから、そんなに荒っぽく扱うなよ! 煮込む前から、菜っ葉がぐずぐずじゃねえか!」
「やかましいわい! きちんと洗わねば、菜っ葉に土が残るではないか! 土だらけの煮汁をすすりたいなら、好きにするがよい!」
僕がこっそり覗き込むと、ハンスとオスヴァルドが菜っ葉の山をはさんで険悪ににらみ合っていた。
ひそかに溜め息をついていたザルティスのひとりが、僕に気づいて飛び上がる。
「あ、あ、暗黒神様! このような場所で、いったいどうされたのでしょうか?」
「うん。捕虜の様子を見にきたんだよ」
こちらに向きなおったオスヴァルドは、灰色の眉をいっそう吊り上げた。
「おぬしは、暗黒神なのか? また、ひときわ珍妙な姿をしおって」
「ええ。間もなく作戦決行の日となりますので、そのための義體に慣れておこうかと思いまして」
僕は亜空間の衣装棚から、とびきり美しい女性の義體を見つくろっていた。最高の娼婦として城内に招かれるための姿である。
「ならば、儂の存在も用済みじゃろう。おぬしたちは、いつになったら儂を処刑するのじゃ?」
「今のところ、その予定はありませんよ。むしろあなたは、僕たちに数多くの有益な情報をもたらしてくれた、功労者ですからね」
「……魔物にとっての功労者とは、人間にとっての背信者に他ならぬわ」
厳しい面持ちで言いながら、オスヴァルドは光の強い目を伏せた。
この10日ほどで、オスヴァルドはずいぶんと健康そうになっている。痩身であることに変わりはないが、げっそりとこけていた頬には肉が戻り、肌艶もいいようだ。
「人間の王や魔術師にとって、あなたは許されざる背信者なのでしょうね。でも、他の人々にとってはどうなのか……それは、人魔の術式を打ち砕いたとき、明らかにされると思いますよ」
「…………」
「あなたには、今後も捕虜として過ごしていただきたく思います。その格好も、だいぶん板についてきたではないですか」
オスヴァルドは粗末の布の服の上から、白い前掛けをつけていたのだ。
オスヴァルドは憤然とした様子で、「ふん!」と鼻を鳴らした。
「男爵であり騎士団長であった儂を、厨番として扱おうというのじゃからな! 笑いたければ笑うがよいわ!」
「笑うというより、微笑ましい限りですね。……こちらの捕虜の働きっぷりはどうだい、ザルティス?」
「ああ、いえ、ええと……大変よろしいのではないかと……」
「言葉を飾る必要はないよ。今後のために、正直な意見を述べてほしいんだ」
「左様でございますか。それでは、つまびらかにご報告させていただきますが……この老人は従僕ハンスよりもぶきっちょで、料理のなんたるかもわきまえていないように存じます。せんにゅーそーさいんとして駆り出された我らの同胞の代わりとしては、はなはだ力不足でございましょうね」
「なんじゃと、この蛇娘め! おぬしまで儂を愚弄しようというのか!」
「うっさいよ。みんな本当のことじゃん」
緑色の鱗をあちこちに生やした女の子のザルティスは、オスヴァルドに向かってべーっと長い舌を出した。
それから、あたふたと僕に向きなおってくる。
「あ、暗黒神様の前で失礼いたしました! わたくしどもの同胞は、きちんと暗黒神様のお役に立てているのでございましょうか?」
「うん。捜査員に選ばれた団員は、みんなしっかり頑張ってくれているよ。あと数日で、こちらに戻ってこられるはずだからね」
この厨房では、5名ほどのザルティスと、3名ほどのリザードマンが忙しそうに晩餐の準備をしていた。もともとグラフィス城の厨房であったので、調理器具などに不足はないようだが、人手が足りていないようだ。
「この人数で200名分の食事を準備するのは、大変だろうね。他の団員は、手伝ってくれないのかな?」
「はあ……他の団員は、そこの老人よりもぶきっちょなぐらいでありますため……助力を願っても、むしろ邪魔になってしまうのでございまする」
「そっか。まあ、人間流の食事を作るのは、人間のほうが向いているんだろうね」
僕は、端麗なる娘の顔で笑ってみせた。
「だったら、もっとたくさんの捕虜を確保できたら、かまど仕事もはかどるのかな?」
「それはもう! 調理はもちろん、畑仕事においても頭数は足りておりませんので……」
「デイフォロス城を制圧できたら、いくらでも人手をまかなえるはずだよ。あと数日の辛抱だね」
僕はこの城を、共存共栄のテストケースの場と見なしているのだった。捕虜であるオスヴァルドを働かせているのも、その一環なのである。
「そのときは、またハンスにも教育係をお願いすることになるだろうからね。大変だと思うけど、よろしく頼むよ」
「へん。せいぜい返り討ちにされないようにな」
ハンスは気安く、肩をすくめていた。
彼の生家の末路を伝えたときには、彼もずいぶん気落ちしていたのだが――その傷も、すっかり癒えた様子である。人間というのも、これでなかなかしぶとい存在であるのだ。
(人魔の術式を破壊してみせたら、デイフォロス公爵領の人々はどんな反応を見せるのか……不安半分、期待半分ってところだな)
そんな思いを胸に、僕は厨房を後にすることにした。
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