一生涯の称号

 世の中には「天才」という称号がある。天才として扱われた者は周囲の期待と称賛を一身に受けるようなイメージがあるのだが、多くの者は知らない。天才には更に上がいるということを。それが奇才と鬼才である。奇才は珍しい才能を持つという意味で、鬼才は人間離れした才能を持つという意味であるが、奇才と言われることはとても嫌だった。というのも、中途半端な気がするのだ。人間の範疇から出ていないということ。ついでにナンバーツーとして扱われることの苦しみ。鬼才には鬼才の苦しみがあるのだろうが、称号まで中途半端というのはどうにも格好悪い気がした。

 昔からやる事なす事不器用だったり飽きてしまったりで、中途半端なことが多かったのだ。最後まで自信を持ってやり切れるものは、小説や絵を描くことくらいである。どちらも自分の世界を創り上げるという点で共通している。出来れば小説の才能ではなくて、絵の才能が欲しかったがカミサマはそんなモノくれなかった(だから潰されずに済んだともいえるが。文章力は世の中に必要とされるらしい)。ちなみに友人曰く、私の文章は個性的らしい(当たり前に書いているから気づかないが)。小説は世間的に「いい」といわれる文章を書くことは出来ないが、リズミカルな文章を書くことは可能だと自負している。知識を得ただけでは辿り着けないような技術を使っているかどうかは分からない。現に私よりいい文章を書く人は沢山いるだろう。

 知識を得ただけでは辿り着けない技術とは、恐らく悟りを開いた先にある世界。感じたもの、見たもの、聞いたもの。その全てを混ぜて落とし込む。先人達の遺産を使って文章を書くのは確かに楽でいいかもしれない。けれど、秘伝のオリジナル文章を書くことが出来るのもまた一つのゴールだと思う。

 ソレを人間離れした方向に持っていけるなら、私は鬼才になれるだろうか。恐らく私は悟れても察しはそこまで良くないから、奇才止まりなのかもしれない。後、努力やら自分を高めるという言葉が嫌いだ。執念という言葉は大好きだが。だから、「努力」はしたくない。いつだって貪欲で執念深くありたいのだ。苦しむのはいつだって、いくらだって出来るからやりたいことや好きなことを今するのだ。それでヘトヘトになって帰ったって、得るものが有ればそれでいい。それを続けても、私は鬼才にはなれないのだけど。

 もしかすると、奇才と鬼才を分けるのは脳みそでは無かろうか。確かな確証はなくても、そんな気がするのだ。あの時「喜びなさい」と言われたのが、このことを指しているとしたら?私には今でも分からない。

 

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