4-6.狗吠市立総合病院第二病棟

 まだ昼過ぎだというのに病棟は暗く、全体的に静かだった。会話らしい会話のない代わりに、俺と須藤と楓さん、それぞれの靴が立てる三つの足音が昨夜のトニトゥルスの洞窟のように反響していた。塩化ビニルの床材のつややかな表面が俺たちの影を照り返し、窓から落ちる光で白く霞んで、光の届かなくなったところで再び影を映した。

 目的の病室は第二病棟と呼ばれる建物の中の、随分奥まったところにあるらしかった。受付で二人に続いて面会簿に記名を済ますと、看護師の人が「503号室です」と伝えてくれた。もちろん須藤や楓さんは教わるまでもなく場所を知っているので、「ありがとうございます」と頭を下げた後で迷いなく歩き出した。俺はその後をついていくだけだ。

 503号室の窓際にはベッドがあり、須藤の母親が半身を起こして外を見ていた。名前を莉子さんというのだと、事前に楓さんから聞いていた。楓さんの呼びかけにこちらを向いた莉子さんは最初ぼんやりした風だったのだが、須藤たちに気が付いてすぐ笑顔になった。

「あら、珍しいわね、二人とも揃って。……そっちの子は?」

 須藤が俺の方をちらりと見た。「初めまして、苑麻そのまです。すど……智生ともき君の友達です」と挨拶をすると、莉子さんは心底驚いた様子で、須藤に向かってこう言った。

「智生、あなたお友達がいたの?」

 あんまりな言い草で俺は吹き出してしまった。須藤が俺の鳩尾を小突いてくる。肘がきれいに入ったので一瞬鋭い吐き気が走る。

「俺だって友達ダチくらいいるよ」

「ふふふ、そうよね、ごめんごめん」

 莉子さんが大きく頷く。その口元には優しい微笑みが浮かんでいる。他意があるはずもなかったが無性に笑えて仕方なかった。だがしかし、いくら俺とてこの場で「やーい、トモちゃんったら母親にぼっちと思われてやーんの」とか口にするほどの非礼は持ち合わせていない。油断するとツッコミを入れそうなお口に必死でチャックをする。

「ご無沙汰してます」

 楓さんが会釈をし、莉子さんも答える。

「莉子さんは、お変わりありませんか?」

「おかげさまで、最近はちょっと落ち着いてるの。薬も上手く効いてるみたいで」

 莉子さんはとても綺麗な女性だった。目元と口元がどことなく須藤に似ている。母親似なのは意外だったな、と思いながら、俺は所在なく病室を眺めていた。入口横に設置された白い洗面台と、対照的に色鮮やかな、窓際に置かれた藤籠のフラワーアレンジメントに目を引かれた。

 しばらく世間話が続いた後、須藤が「洗濯物出してくるよ」と言って大きな洗濯かごを手に取った。入院生活で毎日洗うことができないから、病院内のコインランドリーで数日分をまとめて洗いに出すらしい。俺も立ち上がって須藤についていくことにした。

「手伝いがいるほどの作業じゃねーんだが」

「洗ってる間暇だろ。付き合ってやるよ」

 爽やかに笑って気の利くいい奴アピールをする俺であったが、実際は楓さんと莉子さんに挟まれて間を持たせる自信がないので体よく席を外そうとしているだけである。女性陣はどちらもそのあたりを察してくれたらしく、じゃあお願いね、みたいなことを言ってくれた。

 そういうわけで俺たち二人は病室を後にする。というか最初から須藤の方に気を遣ってほしかった。そういうとこだぞおまえ。


 コインランドリーで洗濯物を回している間、須藤が「ちょっと歩くか」と言ってきた。病院の敷地内にはちょっとした公園があり、カラフルに舗装された地面の上にサッカーボールが転がっていた。

 須藤は慣れた様子でサッカーボールを足先に引っかけ、ポンポンとリフティングを始めた。十回二十回を超えても余裕で安定している。膝や胸や頭を使って、ほとんど立ち位置を変えることなく、たまに遠くに飛んで行きそうになったときは足先で器用に引き戻しながら、見事にボールを繰っている。

「うまいもんだな」

「昔、サッカー部だったからな」

 へえ、と変な声が出た。それは意外だ――と思った後で、そうでもないかと思い直す。須藤の体力オバケ具合からは確かに体育会系の匂いがする。もう数回のリフティングの後、須藤は隅にあった小さなゴールに見事なボレーを叩き込んだ。俺は小さく歓声を送る。

 それから沈黙が下りる。

 切り出すのには勇気が必要だったが、黙って過ごすわけにもいかなかった。

「聞いていいのかわかんねえけど」

「ああ」

「……おふくろさん、結構長いのか?」

 奥まった場所にある第二病棟。時間が止まったように思えるほどの不自然な静けさ。そこに言いようのない不安を感じるのは俺だけではないはずだった。須藤は俺の方ではなく、どこか遠くを見ながら、あるいはどこか明確な一点に定められない視線を曖昧にぼやけさせたまま、静かに答えた。

「長いっちゃ長いな。もう一年近く入退院を繰り返してる」

「なんていうか、その……、悪いのか?」

 須藤はしばらく無言。珍しく、言葉を探しているように見える。

「あるだろ、病気だったら、有名なのが」

 結局出てきたのはそんな、苦し紛れのような、歯切れの悪い言葉だった。

 それが何かと聞き返すほどには、さすがに俺も鈍感ではない。

「入院にも、治療にも、金が要るんだ。あとはまあ、生活費とかな」

 黙って聞いていたが、凡そ高校生の口から出る言葉ではないと思った。

 同時に俺はこれまでの須藤の言動に納得する。こいつ、それで金を欲しがってたのか……。

 ……不意に、その場にいないはずの人の気配がした。

「成程、成程」

「!?」

 いつの間にか俺の隣に男が立っていた。

「詳しいことは存じ上げませんでしたが、そういうことですか。納得です、それで須藤君はエデンに参加してくださっているわけですね。母を想う子の心、美しい家族愛、イヤ、泣ける話じゃありませんか」

 ――ピエトロ氏である。白いハンカチを目頭に当て、大げさに声を震わせている。

 涙なんて一滴も出てやしないのが明白な、あまりにも見え透いた演技。

 過去に例を見ないくらいレベルのイラつきを押さえながら俺は問うた。

「なんでここにいる」

「ワタクシは保険会社の外交員ですので」

 と、ハンカチを胸ポケットに仕舞いながらピエトロ氏が言う。いつぞやの派手な姿ではなく、明るいグレーのスーツに群青のネクタイを締めている。

「エデンの運営代行じゃなかったのかよ?」

「そちらは本業。ま、どちらが副業かなんてわかりはしませんがね。実働時間には大して違いがないもので」

 また差し出された名刺を見る。堂家浩人、株式会社楽園生命。限りなくうさんくさい名前である。

「ところで須藤君、お母様のために必要なお金は溜まりそうですか?」

 須藤がピエトロ氏を睨みつけた。

「テメェにゃ関係ねー話だ」

「まあまあ、そんなに邪険にすることもないでしょう。ワタクシとアナタの付き合いじゃありませんか。それに、苑麻君にしても、のことを放っておけないのでは?」

 お友達、の部分にわざわざ嫌らしいアクセントを置いてくる。言い方がいちいち癪に障る。こいつは人の神経を逆撫ですることなく話すことができないんだろうか。

 そして氏は声を潜めて胡散臭い笑みを浮かべた。

「そんなお二人に耳寄りの情報がありましてねぇ。お金、欲しくありません?」

 勿論――

 最初から嫌な予感はしていた。

 こいつが出張って来た瞬間から、ロクな話にはならないと思っていた。

「実は近いうちに、エデンの方で特別なイベントが予定されていましてね。アップルテイカーの皆様の中でも、厳選した人だけにお声掛けしてるんですがね。ナント驚き、一晩で100万、200万稼ぐのも夢じゃないお話です。《肉入り》っていう名前なんですけどね――どうです? ご興味はありませんか?」

「須藤、ヤバい話だ。聞くな」

「どういうこった」

「どうもこうもねえ!」俺は氏を睨みつけながら捲し立てた。「アップルテイカー同士で殺し合えって話だろうが! 俺は知ってんだよ。腕とか、足とか、切り落としてウン百万って話だろ!? そんなふざけた話に俺らを巻き込むんじゃねえ!!」

「オヤ、どこから話が漏れたのやら。口の固そうな参加者を厳選しているつもりなんですがねぇ」

 氏は特に気にした様子もなく続けた。俺の恫喝など気にもならないということか。

「ま、いいでしょう。どちらにせよ、今この場で大事なことはひとつですから――どうです? 参加、してみません?」

「須藤、聞くな、こんなクソ運営ピエロの言う事なんか……」

 俺は二人の間に立ちはだかろうとして、須藤に真っすぐ身体を向けて、


「苑麻」


 ……その時の須藤は、明らかにおかしかった。

 その声は、まるで無人の伽藍の中で立てられた物音のように、俺の頭で酷く反響した。


「お前さ、親が死んだことあるか? 残された家族が、どんな気持ちになるか、想像できるか?

 死ぬかもしれないって言われた親が、子供に向ける表情かおが、どんな風なのか知ってるか?


 俺が、


 俺があのとき、どんな気持ちでいたのか、お前にわかるのか?」


 ……。

 俺は――

 答えられなかった。

 そんなものは何も知らない。

 須藤の言っていることも、無に近い表情も、何も知らない。

 それなのに、こいつがこれから何を言おうとしているのか、はっきりと理解できてしまう。

「腕? 足? 命と比べりゃじゃねーか。たったそれだけのことだろ? たったそれだけのことで、俺が守らなきゃならねーモンを、ちゃんと守れるってンなら」

 須藤が強い力で俺の肩を押し退けてくる。抗えないほどの異様な強さで。

 そしてピエトロ氏の前に立つ。

 もう俺の位置からは、須藤の表情が見えない。

 ……やめろ。

 ……お前は間違ってる。

 そのとき俺が言うべき言葉は幾つでもあったはずだ。

 だが何も言えなかった。

 須藤の今の境遇も、気持ちも、何一つわからないから。

 地球が自転していることを今思い出したかのように、視界がぐるぐると混濁していた。俺のスニーカーの靴裏が踏みつけている赤と緑のカラーアスファルトの色味が、猫背を真っ直ぐに正した須藤の背の意外な高さが、そのときピエトロ氏の口元に浮かんだ醜いチェシャ猫めいた笑みが、間を埋めるように吹き抜けた午後一時過ぎの生温い風が、病院の白亜の外壁を斜めに灼いた八月の光が広場に落とすあおぐろい陰が、何もかもが陽炎のように、ゆらゆらと、揺らぎ、傾いでいく中で。

 俺の思う正しさが、本当に正しいのか、疑ってしまったから。


 ――参加してやるよ。


 須藤の静かな声だけが、その場に確かに響いていた。

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