幕間.ある家族の肖像――あるいは幸福な日々の終わり

 ――いつもありがとうなあ、智生、莉子……。

 玄関口で倒れ込んでうわごとを言う隆のことを、莉子は複雑な思いで見下ろしていた。日に日に増えていく晩酌の量を咎めて、家で呑むなと小言を言って以来、確かに呑まなくなった。家にいない時間の方が多くなって、帰ってきたと思えば顔を赤くして玄関でぶっ倒れるように寝ていることが多くなった。投げ出された手元にはいつも決まってコンビニのケーキが転がっていて、それが夫の良心の呵責を象徴しているように思えて、妻としても責めるような言葉を言えなくなる。

 2008年、米国発の経済危機ベルンハルト・ショックによる未曽有の大不況が国内外の多くの企業を襲った。加えて3年後に発生した東北大震災の影響がじわじわと広がり、隆も勤務先の早期リストラの対象になった。折からの不況では就職先を見つけることが難しかった。一流企業のやり手営業であったことが仇になった。買い手市場の時代、希望する待遇では条件が合わず、足元を見られ、かといって生活レベルを落とすこともできなかった。

 そうしてようやく見つけた職が、どういうものであったとしても、手放すわけにはいかなかった。

 妻の目にも、頼り甲斐のある男としての隆が、日に日に衰弱していくのが見えた。

 その日愚痴をこぼした夫に、莉子はその手を握りながら激励したものだった。

 ――そげんことでどうすると、智生だって来年受験よ、貯金だってもう心もとなか――。

 ――何があったっちゃ、貴方やったら大丈夫よ、うちゃ貴方を信じとう。

 それは心の底から夫を心配する妻としての立場から生み出された言葉であり、選んだ言葉のひとつひとつには何の含みもなかった。

 家族で暮らす長い生活の中で、莉子が夫に対して「言葉を選んだ」ことは幾つもなかった。たまたま機嫌が悪かったとき。考え方が摺り合わず喧嘩になったとき。ささくれだった柱のような棘のある言葉も、意図的に傷つけるために形を整えた残酷な言葉も、隆は大らかに受け止めてきた。

 そのたびにはっとして、莉子は自分のを恥じると共に、夫のに心を揺さぶられたものだった。

 前向きな言葉を受け止められないような、夫ではないことを知っていた。

 莉子は隆を愛していた。隆がそれまでの人生で懸命に育んできた、どんなことにも揺らがない大樹のようなを、愛していたのだ。

 

 朝の準備に駆られる。

 平世30年2月5日。智生はまだ眠っている。中学で始めたサッカー部が忙しいらしく、朝はギリギリまで眠っている。そろそろ朝練の時間だから、起こさなくてはならないのだが。

 いつも見ている情報番組のCMで、家庭でのやり取りが描かれていた。親に結晶樹の実を呑むよう言われ、子どもがそれを嫌がるシーンだ。結晶樹の実の守りによって児童の交通事故死は激減している。過失が歩行者と車のどちらにあるにせよ、理不尽に失われる命の数が減ったことを喜ばしいことだと莉子は思う。

 それを見た隆が、子どもは大変だよなと言うので、莉子は貴方も呑んでおきなよと軽口のつもりで答える。

 実のところ莉子には、その軽口にどういった答えが返ってくるかがあらかじめわかっていた。それは茶番のような、ハッピーエンドが約束された喜劇のような、いつもの我が家のお決まりの、何の変哲もない平和な生活の、象徴のようなやり取りだった。

 そして隆は、いつものように答えるのだ。

 力なく笑って、莉子が結んだネクタイに、指を差し込んで緩めながら。

 

 ――口から吐くの、苦手でさ。

 

 そのやり取りが、ふたりの最後の会話になった。

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