幕間.ある家族の肖像――あるいは幸福だった日々の欠片

 朝のラッシュが有名な東都急行新軸駅のホーム上には、その日もたくさんの乗客がひしめいていた。平世30年2月5日午前7時46分、気温は氷点下2度。人々は震える身体を分厚いコートやマフラーに押し込んで、少しでも陽の照る場所に身を寄せ合っていた。

 何がきっかけだったのかはわからない。歩きスマホに夢中になっていた誰かが周りへの注意を怠ったのかもしれないし、前日の飲み会の酒がまだ抜けてない誰かがちょっとふらついただけなのかもしれない。何にせよ、背中を押された人が前のめりに倒れ、列車を待っていた人々が次々とバランスを崩していった。

 列の先頭で待っていた男性が線路上に転落した。

 それは電車が今まさに到着しようとしていた瞬間であり、その日彼は、結晶樹の実を呑んでいなかった。


 事実として語れるのはここまでだ。そこから先は憶測になる。

 結晶樹の実を呑むことが常識である時代に、そうしていなかったという事実が、彼の親族に疑惑を呼び起こすのには十分だった。

 そこに意志が介在したのかは分からない。だが例えば、後ろから押され身体が傾いた瞬間に、踏みとどまることはできなかったのか。

 積極的にそのつもりがあったわけではなくても、消極的に、それを願っていたのではないか。

 自分がどうなっても構わないと、そう思っていたのではないか。

 であれば、それが事故であったのだと、本当に言い切れるのか。

 

 ――莉子さん、あんたなんで実を呑まさんかった。

 初七日法要の食事の場で、酔った義父がそんなことを言った。は、と顔を上げた莉子が義父の目を見た瞬間、そこにあった明確な怒りの意思を見て取った。

 ――隆が、おれの息子が、自分で命を絶つような、弱い男であるわけなか。

 ――嫁の務めを果たさんかった、あんたのせいじゃ。

 ――あんたは、人殺しじゃ。

 莉子は嵐が過ぎるのを待つ人のように、すぐに面を伏せて、加齢で筋張った義父の喉仏が上下するのを見つめていた。吐き出された声が硬く震えていたことに気付く余裕はなかったし、強い怒りを湛えたその目にうっすらと涙がにじみ始めたのを、莉子が見ることもなかった。

 投げつけられた言葉がどこまで本音であったか、今となっては確認の取りようもない。立ち上がった智生が義父の顔を思い切り殴りつけて以来、家としての交流は絶えてしまったからだ。

 家族の絆がなんだとか、おまえの家の血がどうだとか、硝子の破片のように吐き散らされた断片的な言葉たちが、今でも時折記憶にちらつく。

 遺骨は故郷の墓に埋められることになったから、莉子たちの手元に残されたのは小さな遺影だけだった。

 東都に向かう新幹線の中で、莉子はいつまでも遺影を見つめていた。

 在りし日の隆の精悍な顔立ちが、最後の日の儚い微笑みと、どうしても重ならない。


 智生が学校で暴力沙汰を起こしたという。

 話を聞くと、父親のことで何か言われたのだそうだ。

 ――ええ、勿論、須藤さんのご家庭の事情は理解しております、しかしながら最近の智生君はいささか、学校での態度というか、素行というかですね、そのう、なんといいますか、ねえ。

 歯切れの悪い言葉の連なりを聞き流しながら、その時莉子は思っていた。

 嘆くでも悲しむでもなく、

 ただ、嬉しいと、そう思った。

 社会的に望ましい振る舞いとは言えない。怪我を負わせた相手の子への申し訳なさも勿論ある。それでも、一人の人間として考えたとき、けして責められるような行いではなかったと思う。

 隆が死んだあの時以来、智生ははっきりと人が変わったようになった。莉子のことを母さんと呼んでいたのが、おふくろ、そう呼ぶようになった。その表層的な荒廃が――本質的にはそう呼ぶべきではない荒廃が、結局のところ何に起因するか、莉子の目には明らかだったから、彼女はそれを何一つ咎めることはしなかった。

 ――智生は何も悪くないからね。

 相手の親子と教師に頭を下げた後の帰り道で、莉子はそう語りかける。智生はちらりと母を見るだけで何も言わない。

 ――ね、久しぶりに、手でも繋ごっか。

 冗談めかして提案したが、返ってくるのは迷惑そうな拒絶だ。

 それはそうだね、恥ずかしいよね――そんな風に思って、莉子は苦笑いする。

 

 ……あの日、無理やりにでも結晶樹の実を飲ませていれば。

 ……もしもあれが、自らの選択によるものだったとしたら。

 ……あのとき、自分が傷つけるようなことを言いさえしなければ。


 義父の糾弾が的外れなものとは、莉子には思えなかった。

 それはむしろ必要な糾弾であり、莉子の心を正常に繋ぎ止める枷のようなものであった。

 引き裂かれそうな自分の心を守るために、誰かを責めなくてはならないとすれば、それは自分以外にあり得なかったから。


 一年後、莉子は原因不明の腹痛に見舞われる。

 ああ――だ。

 病院で胃癌だと診断されたとき、莉子はそう思った。

 投薬治療に伴う激しい吐き気も、体内を蝕む激痛も、むしろ救いに思えた。

 ――きっと罰が当たったのね、お父さんを大事にできなかった私に……。

 そして彼女は、言葉もなく立ち竦む息子に向かって、冗談めかして笑うのだった。


 そしてそのとき智生は決意したのだ。

 例え何を犠牲にしてでも、母を救うことを。

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