4-5.狗吠市立総合病院一階ロビー
スマートフォンが2:07を指していた。
7階層に到達したのが0:40くらいだったので、およそ一時間以上を一人で戦い続けていた計算になる。我ながらよく切り抜けられたもんである。
小学校からしばらく歩くと商店街の入り口に出た。救急車を呼んでも不自然ではない場所だ。知らない店の前にベンチが置かれていたので、背負っていた須藤を横たえた。
須藤が意識を取り戻してくれればよかったが、まだ気を失ったままだ。スマートフォンで119に電話をかける。7119にかけるべきだったのかもしれないが、その配慮が招いたわずかな時間で手遅れになるのが恐ろしかった。
いくつかの問答のあと、救急車が来てくれることになった。
救急車は10分弱くらいで到着した。俺も知人ということで同乗させてもらう。ストレッチャーに乗せられた須藤が速やかに車内に運ばれ心電図モニタに繋がれる。テレビドラマでよく見るような、カラフルでデジタルなモニタ画像の数字が何を示しているのかはいまひとつわからなかったが、救命士の皆さんの態度を見ている限り大事ではなさそうだった。
手持ち無沙汰にしていると救命士さんから問診表を渡された。
書こうとして、すぐに筆が止まる。
書けることがない。
既往歴や飲んでる薬の有無は例外としても、住所や家族構成もわからない。
こんな状況になって今更気が付いたのだが、
戦い方のスタイルや、硬結晶の硬度の上限や、会話するときの皮肉めいた言葉遣いの癖なら、いくらでも知っているのに。
ペン先は凍り付いたように紙の上で留まっていた。
結局、名前と直前の状況と、怪我の有無だけを埋めた。
救急車が病院に向かっている間に、楓さんに電話を掛けた。
時間も時間だし、事情も事情なので少し迷ったが、掛けないわけには行かなかった。
『苑麻くん? どうしたの、こんな時間に』
「本当にすみません、こんな夜中に。実は……」
細かいところを省略して、今の状況を説明する。
「ですから、親御さんを呼んでくれると……」
覆い被さるように、楓さんの言葉が続いた。
『私が行くから。どこの病院?』
診察室に担ぎ込まれても須藤は目を覚まさなかったので俺が状況を説明した。医師は頭を打っていることを懸念していたが、須藤が『吐い』たのが倒れた後であることを伝えると、であれば心配ないと思いますが、念のため脳波だけ見ておきましょう、という話になった。
こういうことがあるにつけ《林檎》って――結晶樹の実ってすげえなあと思わされてしまう。世の中の常識として、交通事故の防止のために子供が毎朝親に呑まされるくらいのものであるからして。我が身を振り返ってもデカいポウンに鉄塊でブン殴られて生き延びた実績があるので、その鉄板振りは身を以って知っている。
結局脳波も異常なかった。それどころか、すやすやとよく眠っていますね、と医師に言われたくらいだ。
さすがに肩の力が抜けた。
いやお前。
すやすやとよく眠っていますねて。
取り急ぎ明日、須藤に昼飯かなんかを奢らすことに決めた。
待合室のソファに須藤を横たえてしばらく待っていると楓さんが来てくれた。家の車を飛ばしてきてくれたらしい。状況はあらかじめ伝えておいたのでそこまで心配そうな雰囲気はない。時間が時間だからか、いつぞやの
須藤の頬に楓さんの指先が触れた。俺はまったく気付かなかったが髪の毛か何かがついていて、楓さんはそれを撫でるような、優しい手つきで取り払ったのだ。俺はわけもなくその仕草にどきりとした。
楓さんは須藤の頭に手を置いて、労わるような声音で言った。
「きっと倒れちゃうくらい、毎日疲れ切ってたんだね。学校のあとで、毎日遅くまでアルバイトもして」
「え」
バイト……?
初めて聞く話に驚いた。
こいつ、バイト入れて夜中エデンに来てたのか?
しかも、学校の後? エデンに来るのだってイベントの度に毎回だったはずだ。何もない日はしっかり寝てる俺だって結構キツいっていうのに、今までどんな生活してたんだ?
軽く背筋を寒くしていると、いつの間にか楓さんがまっすぐ俺を見据えていた。
「ねえ、苑麻くん。トモちゃんと何してたの?」
静かに抑えられた声が無人の待合室に響いた。俺は回答に戸惑った。本当のことを言えないから――というのもあったが、それだけではなくて、楓さんの声の響きが少しだけ、普段よりも硬かったからだ。
「あー、その、カラオケ……とか……」
「未成年だよね? こんな時間になるまで引っ張り回して?」
察しの悪い俺でもわかった。
楓さん、本気で怒ってる。
まあ気持ちはわかる。大事な『弟』が得体の知れない馬の骨(無論俺だ)のせいで深夜に病院に担ぎ込まれて、『お姉ちゃん』の立場からすれば怒りも湧くだろう。申し訳程度に上を向いた口角が逆に怖い。実際のところエデンの件は俺も須藤もある種共犯のようなものであり、俺だけに矛先が向くのは理不尽なきらいもあるが、もちろんそんなことは言えなかった。
内心冷汗をかきながら楓さんの視線を受け止めていると、「苑麻は悪かねェよ」と声がした。
須藤が目を覚ましたようだった。
「トモちゃん……!」
楓さんが感極まったような声を上げる。早速抱き着こうとした楓さんを雑に引き剥がすと、須藤は周囲を見回した。
「ここ、どこだ?」
「病院だよ。第一病棟の方」
と楓さんが言う。変わった伝え方だと思ったが、その言い方で須藤は納得したようだった。
「……倒れたのか。悪かったな。楓は、苑麻が呼んでくれたんだな」
「ああ。いきなりだったから驚いたよ」
俺は慎重に言葉を選びながら会話を繋ぐ。須藤の方も機転が利くタイプなのかぼろを出すようなことはしない。当たり障りのないことを言いながら話を続けていると、楓さんの疑いがだんだん逸れてきたので、俺は体裁上申し訳なさそうにした顔の裏で大層安堵していた。
「それにしても、ここかぁ……」
楓さんが言った。
「道を知ってる病院で助かったけど、ちょっと複雑な気持ちだね」
「まあな……」
「……? どういうことです?」
須藤と楓さんの間では意味が伝わっているようだが、俺には話が何も見えない。説明が欲しい雰囲気を態度で示していると、楓さんが複雑な表情を浮かべて説明してくれた。
困ったというか、寂しそうというか、悲しそうというか、そういった類の。
「トモちゃんも私も、ここの第二病棟の方によく行ってるから」
「え、須藤、なんか病気なのか」
「俺じゃねーよ」
ため息をつくように須藤が言った。
「入院してんだよ。おふくろが」
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