9 観測-3-

「来ましたぜ」

 そう言って指差すが、霧の向こうにはまだ何も見えない。

「ダンナ、これを」

 ダージが手渡したのはゴーグルだった。

「ああ――」

 受け取るとかなりの重さである。

 フレームもレンズもその辺りで売っている物よりずっと厚い。

 ネメアも既に同様の物を装着していた。

 音が少しだけ大きくなった。

 まだクジラの姿は見えない。

「見えますかい? あそこ、近づいてきてるでしょ?」

 だがダージにはその姿が見えているようだ。

「いや、まだ……きみはどうだ?」

 いつの間にか横に立っていたネメアに訊いた。

「あたしも見えないね。音だけははっきり聞こえるけど」

 カイロウは双眼鏡を覗き込んだ。

 ゴーグル越しで扱いにくいが、レンズを通して見た中空に、たしかにクジラの姿が映っていた。

「たいした視力だな」

 小声でダージを褒めつつ双眼鏡をネメアに渡す。

「うん、これはよく見える。あんた、あんな遠くにいるのが見えるのかい?」

 その間にカイロウはポケットからクロノグラフを取り出し、つまみを回した。

「オレは目と頭はいいんだ」

 音はさらに大きくなる。

 周囲の空気が張りつめる。

 同業者たちはゆっくりと前に進み出た。

「お、あたしにも見えるようになった」

 霧の中にわずかに動く点がある。

 色も形もはっきりとはしない。

 それが徐々に大きくなる。

 ぼんやりとした輪郭が徐々に鮮明になる。

 音が大きくなる。

 銅褐色の空に溶け込んでいたそれが、白い腹を露わにする。

 近づいてくるにつれ、汽笛に混じって低い、獣の唸り声のような音が迫ってくる。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 濁った空を泳ぐクジラはやがて山の真上まで来ると、その動きを止めた。

「双眼鏡を」

 クロノグラフを操作し、ネメアから双眼鏡を受け取ったカイロウはレンズ越しにクジラを観察した。

 この位置からはほぼ真正面に捉えることができた。

 まず見えたのは下顎だ。

 山を丸呑みしてしまいそうな巨大な口は、しっかりと閉じられている。

(あそこからは……無理か……?)

 動きを完全に止めたクジラは、ひれも尾も動かさない。

 まるで剥製のようにその場に留まり続けた。

 汽笛が鳴りやんだ。

「始まりますぜ。身を低くしてください」

「――こうか?」

「もっとです! いいですかい? くれぐれも身を乗り出したりしないでくだせえよ?」

 クジラの腹部に亀裂が入った。

 左右に割れた腹が、下を向けた巨大な扉のようにゆっくりと開いていく。

 その隙間から木枝が滑り出た。

 次の瞬間、先を争うようにあらゆる物がそこから流れ落ちた。

 砂粒のようなものも、車ほどの大きさの塊も、何もかもが一緒くたになって降り注ぐ。

 地上から見たそれは無秩序な滝だった。

 遠目ではわずかに太陽光を反射してきらきらと輝く落下物は、まるで水中のようにゆっくりと沈んでいくように見えた。

 数人の調達屋が一歩、一歩と山に向かう。

 ダージは手近な丘に身を潜め、ちらちらとカイロウを見やった。

 もし彼が好奇心に負けて無謀な行動に出るようなら、その前に止めなくてはならなかった。

 一番にクジラの腹から抜け出た木枝が地上に達した。

 ――その直後だった。

 後を追うように落ちてきた全てのものが、轟音とともに地上を激しく叩く。

 木枝は真ん中から折れ、落ちてきたガラスに切り刻まれ、鉄の塊に押し潰された。

 凄まじい勢いで叩きつけられた恩恵が、山巓さんてんでせめぎ合う。

 その衝撃で跳ね飛んだガラスの破片がカイロウの頬をかすめた。

「伏せて!」

 ネメアがカイロウの首を掴んで地面に押しつけた。

 さらに拳大ほどの石が飛んでくる。

 やや遅れて砂煙が立ち込め、瞬く間に辺りを覆い尽くした。

 クジラの姿は――。

(よし、まだ開いているな)

 かろうじて見えていた。

 迫る砂嵐に挑むように調達屋たちが駆けだした。

 それとほぼ同時にクジラは恩恵の放出を止めた。

 十数秒の間をおき、開いていた腹部がゆっくりと閉じていく。

 砂煙が晴れ、視界が戻った時には既に調達屋の姿はなかった。

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