第24幕 偽りが暴かれるとき


 現実空間に戻ってきた零次の目の前に、最初に映ったのはスティナの顔だった。


「起きましたか、零次」

「トラックは……?」

「急に止まりました。もう見えません」


 ワゴンはもう高架道路を降り、夜の平民街を走っていた。

 次々に他の車を追い抜いていく。

 いや、違った。自動運転で動くすべての車が動きを止めている。

 乗っていた人間たちはボンネットを開けできもしない整備ごっこをやってみたり、途方に暮れた表情で周囲を見回したりしていた。


 無理に手動運転で動かそうとして歩道に乗り上げてしまった軽自動車の横を、矢鶴の運転するワゴンはするりと迂回する。


「これは、あなたがやったのですか?」

「……うん。迷惑をかけるつもりはなかったんだけど、多少派手に暴れたから、その影響が出たみたい。すぐに復旧するだろうけど」


 そこでマルヤが零次の耳を引っ張った。


「そんなことよりだ。敵はあの赤い忍者だったのか、やっぱり?」

「うん」

「で、どうした。ったのか?」

「あ――うん――」


 わからない。死体を確認する余裕はなかったから。

 そう答えようとしたはずだった。


 けれども一筋の雷光のように脳裏を走った思いつきが、零次の口に別の言葉を紡がせていた。


「あいつは、殺した。殺すしかなかった」

「そうか……」

「それでね、マルヤ。おりんさんを殺したのは、あの赤い忍者だったみたいだ」

「はあ!?」


 マルヤは零次の襟首をつかんできた。

 苦しい。

 落ち着かせるため、零次は何度もマルヤの腕を叩かなければならなかった。


「ごめん、マルヤの言いたいことはわかるよ。でも、ぼくも手加減なんかしてられなくて……」

「だからって……だからってよぉ……」


 その時、ワゴンが急ブレーキをかけた。

 車体が傾く。前輪が片方パンクしたらしい。

 窓から首を出してタイヤをうかがった零次は、前方に立つ人影に気づいた。

 零次から遅れて首を出したマルヤが、喜びの混じった声で呟く。


「赤い忍者……!」


 進行方向にはボフリーが立ち塞がっていた。

 前輪がパンクしたのも、奴の仕業に相違ない。


「あの野郎、生きてやがった!」


 飛び出していくマルヤを追いかけようとし、だが目眩が零次の足をもつれさせる。

 手を伸ばしたが、その時にはもうマルヤの身体はワゴンになかった。


 マルヤは赤い忍者の前に立つ。


「おまえがりん姉を殺ったのか!?」

「なんの話だね」


 もちろん、ボフリーは零次の嘘につきあってなどくれなかった。


「とぼけんな! 1年と8ヶ月と3週間と3日前! りんって名前の女中を殺したのは、おまえだろうが!」

「知らない」

「おまえらの仲間だった奴だぞ!」

「潜入時の名前なんか言われてもね。もっとこう、なんかないのか?」


 ボフリーが動いた。

 あっという間に、マルヤはボフリーによって拘束される。


「くそぉッ……!」

「マルヤ!」


 ゾンビめいた足取りでようやく車から出た零次に、ボフリーは満足げに頷いた。


「これはこれは袴田君。数分ぶりだね」

「生きてたんですか……」

「焼かれる寸前、ログアウトできたからね。だが全身の皮がただれたような気がしてしかたないよ」


 ボフリーは空いた手で身体を掻いてみせる。

 兜と覆面で直接見えないが、赤い忍者が勝ち誇った笑みを浮かべているのが零次にはわかった。

 ワゴンにもたれるようにして立つ零次には、虚勢を張る余力もない。

 もはや戦闘能力がないのは明白だった。


「――その子を離せ」


 零次の手の中の空間が歪み、そこから小型拳銃が飛び出して零次の手に収まる。

 狙いをつける――が、その銃口は震えていた。

 小さな拳銃が大砲のように重い。目が霞む。もっとも、万全の状態であったとしても零次の技量では当てられるか疑わしい。


「無理はするな。彼に当たるかもしれないぞ?」

「…………!」


 零次は腕を下ろした。

 右腕でマルヤの首を絞めたまま、赤い忍者は懐からなにかを取り出す。

 緻密な金の装飾が施された黒い小箱――マルシャの箱だった。

 それをボフリーは零次に投げて寄越した。


「君、パズルが得意なのだそうじゃないか。是非ともお手並みを拝見したいものだね」

「……つまり、盗んだのはいいが自分では開けられなかった?」


 ボフリーは返事の代わりに腕を強く絞めあげた。

 ぐぎ、とマルヤの食いしばった歯茎から苦悶が漏れる。


「わかった――開ける! だからマルヤに乱暴しないで!」

「今までだって、君の息の根を止めることはできたんだ。そうしなかったのは君の特技を聞いていたからだよ。僕の期待に応えてくれれば、お仲間みんな見逃してやってもいい」


(忍者の口約束ほど、あてにならないものはない)

(だけど他に手はないじゃないですか)

(そうさな)


 一同が見守る中、零次はパズルボックスの開封に取りかかった。

 途中までの手順はまだ記憶に新しい。そこまではすぐに辿り着ける。問題はそこからだ。


(落ち着け――)


 これはパズルボックスだ。中に入った物を守るためではなく、開けてもらうために作られている。

 誰かさんと同じで、ひねくれていてわかりにくいけれど、決してこちらを拒んではいない。

 開けてもらいたいと望んでいるのは、箱自身なのだ。

 ただ、その声を聞くだけでいい。


 零次の指がしなやかに動く。それは複雑な動作をインプットされた機械装置のようで、また一種の芸術のようでもあった。

 知らずと、その場にいた全員が零次の指の動きに心を奪われる。


(零次君。ヒントを1つ、聞いてくれないか)

(すみません。こいつは自分1人の力で解いてみたいんです)

(そこまで入れ込んでもらえて、我が友も満足だろうよ。なに、君のプライドに傷をつけるような内容ではない)

(……伯爵がそこまで言うなら)


 やがて――。


 カチン、と箱から小さな金属音がした。

 蓋がわずかに浮き上がる。


「見せてくれ――」


 喘ぐように、ボフリーが言った。


「箱の中身を、見せてくれ。僕に」

「だ、駄目だ、零次!」


 父が叫ぶ。


「そ、そ、そいつの言うことを信じるな! それを、も、持って逃げろ! な、な、中身を渡してしまったら、世界は終わりだ!」

「世界……?」

「そ、そうだ、世界だ――」


 零源は息子に近寄ろうとしたが、足元に投げられた手裏剣がそれを阻止した。


「命が惜しければ静かにしていたまえ、銀兎会。君たちは負けたのだ。さあ袴田君」

「…………」


 婚約指輪を見せるがごとく、零次はボフリーに箱の中を向けてやる。

 興奮した様子で覗き込む赤い忍者。が、それも一瞬のことだった。

 肩が下がる。覆面の下から這い出た声は、怒りに満ちていた。


「……なんでだ!? 中身は、どうなった!!」


 箱の中身は、空だった。内側にはなにもない。なにも。


「嘘だ、嘘だ、こんなはずは……! 貸せッ!」


 投げ捨てるようにマルヤから手を離し、ボフリーは箱を零次からもぎ取った。

 箱に潜り込まんとするように目を近づけ、または逆さにして乱暴に振る。

 だが埃1つ落ちてきはしなかった。

 赤い忍者は放心したように膝をつく。


「そんな馬鹿な……確かになにか入っていたはず……。それさえも仕掛けだったというのか? 僕のこれまではいったい何だったんだ……!」


 ボフリーは顔を覆い、なんと号泣しはじめた。

 うずくまって肩を震わせるその姿は、敵とわかっていても肩を叩いてやりたくなるほどの哀愁あいしゅうに満ちていた。


「……お姉さん」


 極度の意識集中から解放され、息も絶え絶えの零次が囁く。

 口先数センチで霧散してしまいそうな小さな声を、だが矢鶴は聞き逃さなかった。

 立っていられずに膝をついた少年の背中に身を寄せる。


「……支えていてください」


 拳銃を握った零次の震える手が、ボフリーに狙いを定める。

 この少年を人殺しにしていいのか――矢鶴の意識に良心という言葉がちらりとよぎったが、現実の要請がそれを打ち消した。


 パン。


(ヘタクソ)


 銃弾は、しかし赤い忍者の兜に当たって跳ね返った。

 金色のマスクが割れ、角の先端が散る。

 頭巾がほどけ、その下にある生肌が明らかになった。


「あ……?」


 赤い忍者の覆面の下にあったのは白皙の肌と碧い眼――。

 それは、公儀探偵エルロック・ショルムズの顔だった。


「……どうりで」


 袴田家で再会したとき、ボフリーは言った。「どうして、その娘をかばう? 君は海藤マルヤだけいればよかったのだろう?」と。


 ボフリーの正体がエルロックであると考えれば、赤い忍者が隠し倉庫に来たのも、クナドシステムを我が物のように支配していたのも、納得がいくというものだ。


「…………!」


 もしボフリー、いやエルロックが応戦していれば、零次たちを抹殺することは充分可能だったろう。

 けれど、目当ての宝が空振りだったショックと、顔面への負傷が判断を握らせた。

 赤い忍者は天高く跳躍。そのまま零次たちの前から消えた。


「零次君、行きましょう。……歩ける?」


 移動を再開した零源たちを追いかけようとして、だが零次は倒れそうになる。

 格好つかないが、しかたない。

 矢鶴のさしだした背中に大人しく身を預ける。


「よっこらせっと。幼稚園児のくせに重いわね、キミ」

「小学生ですよ……」


 しかも3年生だ。


「……零次」


 マルヤの冷たい声に、零次はぞくりと背中を震わせた。


「なんで嘘ついた。あいつがりん姉の仇だって」

「…………」


 わからない。どうしてぼくは、あんな後先考えない、その場しのぎのような嘘をついたんだろう。


「おい、なんとか言えよ!」

「わからないの?」


 代わりに答えたのは矢鶴だった。


「あなたに危険なこと、してほしくなかったからに決まってるじゃない!」


 そうなのか?

 零次にはわからない。自分とマルヤは一心同体。マルヤの願いを叶えることが零次の願い。

 マルヤが自らの手で復讐を願っている以上、そうお膳立てするのが零次自身の望み、である、はず、なのに。


「余計なお世話なんだよ!」


 マルヤは肩を怒らせて、ずんずん先へ行ってしまう。

 追いかけようにも、今の零次には矢鶴の歩くスピード以上は出せない。


「大丈夫よ。あの子もきっとわかってくれるわ」

「…………」


 零源たちはどこまでも進んでいく。

 やがて彼らの前には大きな壁が立ち塞がった。

 この街の果てだ。

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