終夜

 僕は液体の中に浮いている。

 自分の手を見ると、それは赤子の手だった。手だけでなく体の赤子の物で、へその緒が首に絡まっている。

 液体は黄緑色をしており、円柱状のガラスケースに入っていた。何かの実験道具のようだ。要するにSFとかでよく見る人造人間を作る機械っぽいカプセルに入れられていた。

 成程今回はこのパターンか。

 ガラス越しに一人の白衣を着た女が近づいてきたいてきた。


「おはようお兄ちゃん」


 夢実。

 五木夢実。

 前に会ったのは数字で表せられないほどの昔だが、顔は覚えていた。


「ここまで来たらもうどうでもいいって感じだろうけど、何でこんなことしたのか教えてあげる」


 どうでもよくなかった、無限とほぼ等しいループの中でそのことを考えなかった日はなかった。


「お兄ちゃんが愛されてほしかったからだよ」


 妹ははっきりと言った。


「お兄ちゃんのモデルはお父さんとお母さんの間にできた流産した子なの。お兄ちゃんは愛されなかった。それが悔しくて、夢にまでお兄ちゃんが出てきた。妹として夢の中お兄ちゃんを一杯愛したよ。変な意味じゃないよ。あくまで兄妹として。でも」


 夢実は言った言葉を切った。首を横に振る。


「全然足りなかった。お兄ちゃんはもっと愛されるべき。もっと多くの人の愛を受けるべき。だからライセンスフリーとして公開したの。始めは性的表現とか残酷表現は禁止したけど、でもみんな自分の気持ちを抱え込んでいた。もっとお兄ちゃんを愛したいって思ってた。だから」


 妹の顔は誇らしげだった。一片の迷いもない笑顔だった。


「こうしたの」


 そうか。

 愛だったのか。

 愛なら仕方がない。

 苦しみを受けているとき、僕はずっと頭をよぎることがあった。

 これは罰なのではないかと。この罰に見合うだけの罪を僕は抱え込んでおり、そのための地獄がこの場所なのだと。

 性的虐待などの単語も頭に浮かんだ。記憶がないだけで、僕は取り返しのつかないことをしでかしてしまったのではないかと。

 しかし彼女の言葉でようやく気が晴れた。

 僕は悪くなかったのだ。僕に罪はなく、僕は愛されていただけなのだ。

 一人では決して抱えきれないような愛を。無限の愛を。

 ならばこうして。

 安心して。

 こうして。


「お前を愛せる」



 僕のつぶやきと共に、大量の牙の生えた赤ん坊が、研究室の壁を破り夢実に向かってなだれ込んだ。あらゆる機材を壊しながら進んでくる。


「何事!? どうなっているの!? これは私の夢のはず!?」


妹は戸惑う暇もなく赤子の波にのまれる。逃れようとした手が、塊からはみ出たが、それはちぎれて再度海に沈んだ。くぐもった悲鳴が聞こえたが、数分もたつと静かになった。

 赤子の波は去っていき、後には血だまりだけが残った。

 僕は高校生の大きさまで成長し、カプセルを叩き割って外に出た。

 ガラスが素肌に刺さって血が出たがすぐに再生し、傷を治した。


――夢実。僕は君の夢だと思っていたようだが、君こそが僕の夢だった。

 始めはこれを罰だと思った。

 だから甘んじて受けようと。

 だがお前はこれを愛と言った。ならばもういい。

 もう十分だ。お前の溢れんばかりの愛は受け取った。だから今度は僕の番だ。僕がありったけお前を愛してやろう。僕に愛を注いでくれた他の皆にも。愛して、愛して、愛してあげよう。

 ただ皆が僕にそそぐ愛は、大きすぎた。未熟な僕には同じようにとはいかない。同じ規模とはいかない。

 せいぜい60億分の一程度だろう。

 無限の、

 60億分の一倍愛してる――


「健人……?」


 僕が振り返ると、そこに母と父がいた。柔らかな朝日がカーテンの隙間から差し込み、台所から漂う味噌汁の香りが部屋を満たしていた。父はエプロンを着け、慣れた手つきで朝食の支度を進め、母はテレビを待ちながら、穏やかな笑みを浮かべていた。重苦しい残響が、僕の胸にまだかすかに残っていたが、この光景はそれを溶かすように温かかった。

 春の風が頬を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえた。た

「健人、朝ごはんよ! 遅刻するわよ!」

階段の下から、妹の夢実の声が弾んだ。夢実はテーブルに並んだおかずを指さし、「今日の卵焼き、ちょっと焦げちゃったけど、愛情たっぷりだから!」と笑った。父が「いや、焦げ目がいい味出すんだよ」とフォローした。家族の笑い声が響き合い、悠斗の心に染み入った。

 食事を終えた後母が庭で花に水をやっていた。「健人、今日はいい天気ね。ちょっと散歩でもどう?」と母が言った。健人は頷き、母と並んで歩いた。夕暮れの光が町をオレンジ色に染め、遠くで子供たちの笑い声が聞こえた。「お母さん、最近、なんか落ち着いてる気がするんだ」と健人がぽつりと言った。母は微笑み、「そう? それはよかった。家族が一緒にいるって、そういう安心感をくれるものよね」と答えた。

その夜、健人は再びベッドに横たわった。窓の外では星が瞬き、静かな夜が広がっていた。悠斗は目を閉じ、深い呼吸を繰り返した。明日もまた、こんな朝が来るだろう。母と父がいて、夢実の笑い声が響き、平和な一日。


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夢ゾンビ牧場 五三六P・二四三・渡 @doubutugawa

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