殴りにいこう

 

 

「百瀬、大事な話がある」


 カレーを作り終えた俺が改まって声をかけると、だらりとやる気なさげに床に寝そべっていた百瀬は、ちらりと一瞬こちらに目を向け──ふいっと目を逸らして、クッションにぼふりと顔を埋めた。


「あっ! こいつ」


 ちょっとイラッとした。


 今の状況は、百瀬に責任があるわけではない。兄に置いていかれたこいつが拗ねる気持ちも分かる。分かるがそれはそれとして、後輩と同じ顔でそういうことをされると、こちらとしても腹が立つ。


「い、い、か、ら、す、わ、れ!」


 首根っこを引っ掴んで強引に座らせようとしたが、不貞腐れモードとなった百瀬は全力で床にしがみついている。この小さな体の、一体どこにそんな力があるのかと首を傾げるほどだ。最終的に、体格差と腕力にあかせて抱きかかえて輸送してきたが、クッションだけは最後まで手放さなかった。


 ええい、強情な奴め。

 一体、誰に似たんだか。


 なんとか無理やり椅子には座らせたものの、こうしていると大きなクッションの陰に彼女の小さな体がすっぽりと隠れてしまい、まるでクッションと向かい合っているような気分になる。


「お前な。拗ねるのも分かるが、もう三日だぞ。心配しなくても、兄ちゃんは仕事行ってるだけでちゃんと帰ってくるって言っただろ」

「……うそだもん。だって、とおるくんはおしごといってないもん」


「俺とあいつは同じ会社だけど、担当してる仕事が違うの。だから仕事の日が違うこともある」

「でも、前まではずっとそんなことなかったもん」


 不貞腐れモードの百瀬は、あくまでクッションを抱きかかえたまま、顔も合わせずに反論してくる。


 まあ実際、仕事云々に関しては嘘なので、百瀬が不審がるのも無理はないが。

 俺はため息をついて、本題に入った。


「……あのな百瀬。実は、俺の正月休みは今日で終わりなんだ。明日から、俺も会社に行かなきゃならない」


 それまで。


 クッションに埋もれていた百瀬が、ハッと顔を上げた。今度はクッション越しではなく、しっかりとこちらを見つめて聞いてくる。


「じゃあ……明日になったらちーちゃんかえってくる!?」


 一体どうしてそういう結論にたどり着いたのか、幼児の理論は分からないが、キラキラと嬉しそうに輝く百瀬の顔を見るのは、なんだか久しぶりで。

 その期待を裏切るのは、ひどく後ろ暗い気もしたが、それでも誤魔化すことはできず俺は首を振った。


「……まだ帰ってこない。なので、明日からは百瀬はまた保育園に行くことになる。お迎えはいつものシッターさんがしてくれるそうだ。後輩……お前の兄ちゃんからの手紙に、そう書いてあった。保育園のあとは、またしばらくうちに泊まることになる。まあ、俺もなるべく早く帰ってくるようにするから──」

「やだー!!!!!!!」


 本当は、年始早々で定時帰宅というのはなかなか難しいのだが、この状況ではそうも言っていられまい。俺なりに精一杯の妥協案は、しかし本人に告げた途端、秒で否定された。


 足立族ってやつはこれだから困る。


「やだー!!!そんなのやだー!!モモ、ほいくえんきらい!!!!いかない!!!!」

「唐突に新しい設定を増やすな。お前、保育園行くの大好きっ子だろうが。それに、このまま家にずっと引きこもってるより、友達と遊んだ方が楽しいぞ」


 正直、今の状態は百瀬にとってもよくないと思う。同じマンションの隣部屋なので、俺の家にいると必然的に自宅を思い出してしまうし、そうなると芋づる式に兄のことを考えてしまう。


 なので、一度違う環境に出て気分転換をした方がいい。しかし、百瀬は断固として首を振った。


「やだ!!!やだやだやだぜーったいやだ!!ももいかない!!!ちーちゃんがかえってくるまでお外でない!!!」

「……あのな、百瀬」


「やだやだやだー!!!!モモがいない間にちーちゃんが帰ってきたら、またモモをさがしにいなくなっちゃうかもしれない!!!ぜったいにやだ!!!!」


 そんなことにはならないよ、と説得できればよかったのだが。


 俺自身が信じていないことをこれ以上、説明することはできない。ただでさえ嘘を重ねた状況で、これ以上この子に嘘をつくことはできない。俺は話の継続を諦めて、一旦立ち上がった。


「……とりあえず、この話は後でにして先に飯を食おう。今日はお前の好きなカレーにしたぞ」

「やだ!食べない!モモ、カレー嫌い!!」

「あっそ」


 拗ね拗ねモードになった子供に理屈というものは通じない。まともに付き合ってもこちらが消費するだけである。俺は癇癪を起こす百瀬を適当にあしらい、一人で夕飯の支度を始めた。


 いつもであれば、呼ばなくても勝手に現れて準備を手伝う百瀬だったが、今日はぶすっと不貞腐れたまま参加しようとしない。今日はというか、ここ最近はいつもそうだが。


 俺は構わずカレー鍋に火をつけ、食器を並べ始めた。今日のメニューはカレーと味噌汁。付け合わせはブロッコリーを茹でただけのサラダだ。百瀬もずっと拗ねているが、俺だって別に上機嫌というわけでもないので、品数は少ない。


 あっという間に配膳を終え、いただきますをしても、百瀬は相変わらず拗ねたままだった。スプーンを持つどころか、クッションを置こうとすらしない。


「百瀬。不貞腐れてないでさっさと飯を食え。冷めるだろうが」

「やだ。いらない。おなかすいてない」

「……あんまふざけたこと言ってると、そろそろ俺もキレるぞ」

「モモたべない。たべたくないもん。ごはんいらない」

「いい加減に──っ!」


 相手の態度の悪さに、ついカッとなる。反射的に荒げた声に、百瀬はかえって意固地になったように暴れまわり──偶然その手が、カレーの皿に当たった。


「あっ……」

「……………」


 カシャン、と。


 子供用のプラスチック皿に載せられたカレーが落ちて、そのまま床に飛び散った。


 先程まで、温かな湯気を立てていたはずの夕食が、あっという間に口にできない塵へと変わる。


 ぶちまけられたカレーを見て、さすがにまずいと思ったのか、百瀬が顔面蒼白となる。しかし彼女は、謝るでもなくカレーを拭くのでもなく、そのまま「ふぐぅ……!」と泣き始めた。


「うあー!!!!!あー!!!!!あー!!!!」


 多分、俺はこの時。

 怒ってもよかったんだと思う。


 親戚でもない子供を、知らぬうちに勝手に押し付けられ。

 せめてもと作った心尽くしの料理を、八つ当たりで塵にされ。


 だけど結局、俺がそれを選ばなかったのは、別に心が広いわけではなく、ただ知っていたからだ。


 以前、同じ料理を出した時、この子がどんなに美味しそうに嬉しそうに食べていたのかを。


 兄といる時の百瀬が、どれほどに楽しそうだったのかを。


 だから怒れなかった。


 握り締めた拳を振り上げることも振り下ろすこともできぬまま、さりとて素直に許してやる気にもなれず、自分でもコントロールできない虚しさが、ただ深々と身体の中に降り積もっていく。


 なんだか色々なものが一気に嫌になって、床に飛び散ったカレーを片付ける気も起きず、俺がぼんやりと座り込んでいると、それを誤解したのか百瀬の泣き声に「ごべんなざいいいい……」と謝罪が混じり始めた。


「ご、ごべんざさいい……きっと、モモがわるいごだから、ぢーぢゃんもモモが嫌いになって、いなぐなっぢゃっだんだぁ……!」

「──っ、それは違う!」


 反射的に否定する。まさか、あいつが姿を消してからずっと『そんなこと』を考えてたのかこの子は。


 後輩がいなくなったのはあいつがとてつもない大馬鹿だからであって、百瀬には何一つ責任はない。俺は、泣きすぎて謝りすぎてもはや誰に何を謝ってるのかも分からなくなってしまった子供を、そっと抱き寄せた。


 そのまま少しだけ強く──けれど後輩が妹を慰める時よりは弱く、ぎゅっと腕に力を込めて小さな身体を抱きしめる。


「いいかよく聞け。お前の兄ちゃんがいなくなったのは、単にあいつが自分の価値を勘違いしてる大馬鹿野郎だからだ。自分みたいな人間がいなくてもお前ならきっと大丈夫と思い込んでる間抜けだからであって、お前は何も悪くない」


「でも、でも、だってモモ、夜にねるのがおそくて、ちーちゃんにおこられたりしたし、みどりのおやさいも嫌いだし……」


「そんなことは関係ない。よしんば、もしも本当にお前が自分で言う通りに悪い子だったとしてもだ。そんなものは、


 だからお前は何も悪くない。


 そんなことは言葉にするまでもなく当たり前のことで、だからこそ他ならぬ俺が今、腕の中でわんわん泣いているこの子に、絶対に言ってやらねばならないことだった。


 そうだ。百瀬は悪くない。

 悪いのは全て、この場にいないあの大馬鹿野郎だ。

 俺は久しぶりにふつふつと内側から滾る怒りを抑えながら、腕の中の百瀬に静かに尋ねた。


「……なぁ、百瀬。お前、兄ちゃんに会いたいか?」

「……! あっ、あいだい……! モモ、いい子にするから、ちゃんとみどりのおやさいもたべるから、ちーちゃんにあいだいよっ!」

「……そっか。俺もだ」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れた顔で、必死に訴えてくる百瀬にそっと微笑む。それは、嘘偽りない本音だった。


 俺もあいつに会いたい。

 会って、一刻も早くあの顔面を殴り飛ばしてやりたい。


「百瀬、やっぱり明日の保育園はなしだ。明日は一緒に出かけることにしよう」 


 正月休みは今日までだ。明日からはまた仕事が始まる。だけどもう、そんなことはどうでもよかった。


 百瀬を見ろ。

 今、腕の中で泣いている子供を見ろ。

 この子を放っておいてまで、優先すべきことがこの世にあるものか。


 百瀬が、腕の中からきょとんと聞いてくる。


「おでかけ? どこにいくの?」

「ああ、お出かけだ。お前の兄貴を探しにいく」


 もう待つのはやめだ。考えてみれば、どうして俺があいつの事情を慮ってやらねばならんのだ。あいつは好き勝手やるならば、こちらも自由にやらせてもらう。


 俺はニヤリと──周囲からは悪人面だのなんだのと言われる顔で──久しぶりに清々しい気分で思い切り笑った。




「百瀬、明日になったら一緒にお前の兄貴を殴りにいくぞ」


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