反撃開始
兄貴に会いにいくと告げた瞬間から、百瀬の変貌っぷりはめざましかった。具体的には態度が物凄くよくなった。抱え込んでいたクッションをおろし、急いで夕飯を食べようとする。が、さすがに床に落ちたカレーを元気よく手掴みで食べようとするのだけは、全力で阻止した。
「いや、それは食わなくていい。新しいの用意するから」
二人で協力して落ちたカレーを片付けて、新しいものを用意する。キッチンペーパーで拭いたカレーをゴミ箱に捨てる時、百瀬はもう一度だけ、今度は心から申し訳なさそうに「ごめんなさい」と言った。
しょんぼりと俯く小さな頭に、俺はぽんと手を乗せる。
「気にすんな。お前にかからなくてよかったよ。次からは気をつけろよな」
熱いカレーが肌にでもかかったら、下手すると火傷しかねない。落ちたのが床だけでよかった、というのは紛れもない本音だ。
俺がそう言うと、百瀬はようやく安堵したように微笑んだ。
活気を取り戻した百瀬の食欲は凄まじかった。もともと、この兄妹たちは見た目と裏腹に健啖家だが、この日の百瀬はいつにも増して凄い。ここ最近、あまり食べていなかった分を取り戻すかのようにもりもりと食べる。
あっという間に一皿目を空にし、元気よくおかわりを所望する。二杯目も手品かよ、と思うほどの勢いで食べ終わり、三杯目を差し出してきた。
「とおるくん! おかわり!」
「マジかよ……お前その身体の一体どこにそんな飯が入るんだ……!?」
子供用の皿とはいえ、三杯目ともなれば一般的な大人用の茶碗の二膳分くらいにはなる。俺は信じがたいものを見る眼差しで、百瀬のぽこんとした腹を見た。おかしい。絶対にあの腹に収まりきる量ではない気がする。
慄く俺の表情を誤解したのか、百瀬はしょんぼりと肩を落とした。
「とおるくん……ひょっとして……ごはん、足りなくなっちゃった……?」
「いや、ある。あるにはあるがお前……本当にそんなに食べ切れるのか?」
「うん! きょう、おひるあんまし食べてないからおなかすいた!」
昼飯ほとんど食べてない代わりに、今日は全く身体を動かしてないはずなんだけどな、とは思ったものの、本人が食べれると言っている以上、それを止めるのも無粋である。
これが後輩だったらテメェちょっとは遠慮ってものを弁えろや、としばき倒すところだが、子供に食欲があるのはいいことだ。ついでに言うと、百瀬が嬉しそうに飯を食べている姿は見ているだけで癒やされる。俺は気持ち少なめに三杯目のカレーをよそった。
「それ食べ終わったら、さすがに終わりにしておけよ。明日は朝から出かけるからな」
「うん! あした、どこいくの? とおるくん、ちーちゃんのいるところ知ってるの?」
「知らん。だが、心当たりは一応ある。多分、お前が前に住んでた家だ。そういや百瀬は、ここに来る前にどこに住んでたか覚えてるか?」
後輩は『実家の親に会いにいく』と言って姿を消した。ならばまずは、足立兄妹の実家とやらに行ってみるべきだろう。
無論、俺は足立家の実家の住所など知らされていないが、ここで百瀬が覚えていてくれればしめたものだ。彼女は自信満々に答えてきた。
「ちきゅう」
「……うん。いや、そうだな。間違ってはいない」
まあ、四歳児に自分の住所を言えというのも難しい話だろう。
幸いなことに今回、留守番のために俺は足立家鍵を託されている。ことこの場面に至って、家探しを躊躇うほどに俺は品行方正な人間ではない。
多少は片付いたとはいえ、もともとゴミ溜めのようだった部屋だ。
俺が少しばかり荒らしても、さして問題はあるまい。
いや、あるかもしれないが、気にしてなんぞやるものか。俺だって、今回の件は結構腹に据えかねているのだ。
足立家を漁って、実家の住所を探し出す。そう分の悪い賭けではない。家中を探し回れば、どこかに必ず実家の住所が書かれた書類の一つくらいは見つかるはずだ。そして万一。なかったとしても、だ。
俺はつい先日、偶然に入手したとある人物の名刺を思い出した。あの時、百瀬の七五三の写真を持っていた自称探偵女史は『この子の親御さんから捜索願が出されている』と言った。
それが本当か嘘かはこの際、どうでもいい。しかし、もしも彼女に百瀬を探すように依頼した人物がいるとすれば、それは十中八九、百瀬の親にあたる人物だろう。
ならば最悪、そちらのルートを当たれば足立兄妹の実家にはたどり着く。
リスクが高いので、あまり使いたくはないが。
いい子モードになった百瀬は、食べ終わった後も食器の片付けを自分から手伝い、なんとパジャマに着替えることすら一人でやってみせた。絵本を読み聞かせ、やがて彼女がすやすやと寝入ったのを確認した俺は、気配を忍ばせこっそり後輩の家へと向かう。
いくら隣とはいえ、子供を一人で寝かせておくのは不安だし、なにより百瀬が一人で起きたらきっと不安がって大泣きするだろう。なので、なるべく早くことを済まさねばならない。
「……つっても、どこに何があるのか検討がつかんな。こいつの部屋」
いつぞやのように、足の踏み場もないほどに床がゴミで埋め尽くされているわけではないが、例えば重要な書類がしまってありそうな戸棚、とか、この引き出しには貴重品がまとめてありそうだな、とか、そういう『分かりやすい』ものがなにもないのだ。この部屋は。うっかりすると、その辺に積んである段ボールの中に、平気で契約書とかが突っ込んでありそうなカオス感がある。
俺は意を決して、まずは手始めに備え付けのキッチンの戸棚を開けてみた。
なぜか靴下が片方だけ、ころんと転がり出てきた。
……長い夜になりそうだ。
俺は覚悟を決めた。
◆ ◆ ◆
翌日、ガタンゴトンと揺れる電車のボックス席に腰掛けた百瀬が、不思議そうに聞いてきた。
「とおるくん、めの下が黒くていつもよりこわい顔になってるよ。どしたの」
「昨日ちょっと夜更かししててな……」
結局、探し物は無事見つかった。見つけるまでの道のりは大変な艱難辛苦に満ちたものだったが、それは割愛しておこう。大切なことは、俺が無事目的のものを見つけたという事実である。ついでに『それ以外』のものも見つかった。
住所が書かれていたのは、百瀬の医療証と保険証だ。それを探し出すまでに、俺がどれほどの時間を要したかは、別にどうでもいい。だが、そこに記載されていた内容を見た途端、俺の中で燻っていた全ての謎が一気に瓦解した。
『──なるほど』
親子ほどに歳の離れた兄妹。近くにいない親。妹を実家に連れて帰るのを嫌がっていた後輩。百瀬を探しているという探偵。そういった諸々の事情の裏に潜んでた背景が、なんとなく分かった。
だけど、無事目的を達成したからといってそれでおしまい、ではない。本来ならば、今日から仕事始めなのだ。
俺は昨夜のうちに訳あって仕事を休む旨、及び会議に必要となる引き継ぎ書を必死でまとめ、夜のうちに上司に送っておいた。
そうこうしているうちに夜が明け、なんやかんやで結局、昨夜はほぼ徹夜となったのである。
くあ、と大欠伸をする俺に、窓の外を流れていく景色に夢中になっていた百瀬はプンスカと怒った。
「もう! 夜は大人でもちゃんとねないと、鬼がくるんだからね!」
「鬼が」
唐突によく分からない脅迫を受けた。
子供の発想は前後の脈絡がないので、たまにびっくりする。
「来るよ。保育園にはくるもん。二月になったら」
「マジかよ。ヤベェな保育園」
「鬼がきたらわるい人は誘拐されちゃうんだからね! とおるくんも大人だけど気をつけて!」
「善処します……」
電車の穏やかな振動に心地よい眠気を感じつつ、俺はぼんやりと呟いた。百瀬に聞こえていたかどうかは分からないが、本人はすぐ楽しげに窓ガラスにペタンとおでこをくっつけていたので、問題はないだろう。
目的地に到着するまで束の間、俺の意識はすとんと微睡の世界に落ちていった。
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