ごはんの時間
陰鬱な年明け
後輩と連絡がつかなくなってから、早二日が過ぎた。
その間、世間は年越しを迎えて無事新年になった。テレビは正月番組一色で、店は軒並み休業中。一年の内で、日本中にもっとものんびりとした空気が漂う中で、我が家だけは未だかつてない緊迫した雰囲気に包まれていた。
例年であればのんびりお節をつまみ、初詣に行ったりしていたが、今は到底そんな空気ではない。目が覚めても兄がいなかったことを知った百瀬の落ち込みようたるや、凄まじかった。あまりにショックが激しすぎて、おもちゃで遊ぶ気力すらない。
ぼんやりと意気消沈した四歳児の姿は、普段の元気いっぱいな様子を知っているだけに、見ているこちらの胸まで痛くなってくる。
それもこれも、全て後輩のせいだ。
深夜どころか翌日になっても後輩が帰ってこなかった時点で、俺はすぐさま奴に連絡を入れた。しかし、いつまで経ってもLINEは未読のまま、電話にさえ一切出る気配はない。業を煮やした俺は、事前に預かっていた合鍵を使い、百瀬と一緒に後輩の部屋へと向かった。しかし、そこで待ち受けていたものは、
初めて訪れた時とは比べものにならないほど『人並み』に片付いた灯りのない部屋と、冷え切った無人の空気。そして、いつぞや後輩がポトフを食べたリビングのローテーブルの上にあった、現金と手紙の入った封筒。
それだけで、すぐに悟った。
後輩に連絡がつかないのは、何かのトラブルでも事故でもなく、純粋にあいつ自身の意思によるものだということが。
そこに書かれていたのは、予想通り百瀬についてだった。
とはいえ、百瀬の親御さんについてだとか、後輩が今どこにいるかとか、そんな都合がいいことが書かれていたわけではない。そんなことは一言も書かれていなかった。
つらつらと綴られていたのは、恐らくあの後輩にとってもっと重要なことだ。
たとえば、百瀬の起きる時間。
たとえば、百瀬の好きなもの。
前歯が少しぐらついているので、虫歯にならなにように歯磨きの時は気をつけてあげて欲しいとか、夜は八時半までに寝かせて欲しいとか、果てはかかりつけの病院から既往歴まで。
普段の生活はだらしないの一言なのに、こんな時ばかりは仕事中の後輩を思わせる、実にあいつらしい有能さと丁寧さで、百瀬の『引き継ぎ書』がまとめられていた。
そう、これは紛れもなく『引き継ぎ書』だ。後輩から俺への。
ぎり、と我知らず奥歯を噛み締める。一体いつから用意していたのだろう。昨日今日に準備したものではあるまい。以前とは違い、片付いた部屋の中では百瀬の私物がどこにあるかがすぐわかる。必要な着替えはパジャマ、あの子のお気に入りの人形やおもちゃなど。
全てを万全に整えてから、あいつは出て行った。
だから多分、そう簡単には帰ってこない。連絡も、恐らくは無駄だろう。見れないとか電池切れとかではなく、本人に応える意思がないのだから。
「とおるくん……おてまみに、ちーちゃんどこにいるよってかいてあった?」
ぎゅっと俺にしがみついている百瀬は、自分の家だというのに不安そうだ。無理もないだろう。いくら顔見知りのご近所さんと一緒にいるからといって、まだ四歳の子供が保護者から離れて不安にならないわけがない。家族から離れて、平気でいられるわけがない。
この時点で俺は決意した。『野郎、今度会ったら絶対にぶっ飛ばす』と。
そして。その怒りを百瀬に悟らせないよう、意識して微笑んだ。周りからは強面だの悪人ヅラだの言われる顔で。
「ああ、書いてあった。急に仕事が入って、ちょっと遠くへ行かないといけないから、百瀬は俺の家で留守番しててくれだとさ」
もちろん嘘だ。後輩の行き先なんてどこにも書いてない。書いてあったのは百瀬について以外は、実に下らないことだ。
『先輩、迷惑をかけてすみません。妹を、頼みます』
普段はおちゃらけて無礼で失礼で、礼の一つもまともにいえない病気にかかっている奴からの、それは初めてのまともな謝罪だった。
馬鹿野郎が。
託すくらい大事なものなら、ちゃんとテメェの手元でしっかり守っておけ馬鹿が。
この場にいない馬鹿な男を、胸の中だけで罵る。
あんな丁寧な書き置きを残すくらい、妹のことが心配でならないくせに。
自分のことなんて何一つ書いてないくせに、置いていく妹が万に一つでも不自由な思いをしないよう、濃やかすぎるくらい気遣ってるくせに。
そんなもん、本人に届いてなきゃなんの意味もねぇだろうが。
こうして、全てがあやふやで曖昧模糊とした状況のまま、百瀬は俺の家で過ごすことになった。
幸い、普段からしょっちゅう食事に来ていたので、家の中に足りないものは殆どなかった。食器もおもちゃも、大抵のものは揃っている。足りないのは着替えくらいなものだが、それも隣に取りに行けば済む話だ。
封筒に入っていた五万円が、俺への迷惑料なのか百瀬の生活費のつもりなのか、あるいはその両方なのかは知らないが、手をつけるつもりは毛頭なかった。今度会った時に殴りにくくなるので。
そんなわけで、生活自体にはさほど問題はなかったが、肝心の百瀬はあれ以来、ずっと塞ぎ込んだままだ。
普段であれば大喜びするはずのチョコのお菓子にもおもちゃにも、なんの関心も示さない。どころか、下手に話しかければ嫌がられるくらいだ。その割にひどく不安定で、俺が少し離れるだけですぐに泣く。いつもはどうだか知らないが夜泣きもひどく、おかげでひどく気鬱な正月となった。
気晴らしにどこかへ連れてってやろうと言えば、どこにも行きたくないという。自分がいない間に、兄が帰ってくるかもしれないと思うと不安なようだ。かといって、気を紛らわせる方法が思いつくわけでもない。妥協案として、マンションの前の道路で少し遊んだくらいだ。
ここならば、後輩が帰ってきても絶対に見落とすことはない。そう言うと、百瀬は涙目で頷いたが、結局すぐ部屋へ戻ってしまった。
あれから、後輩にも連絡を送り続けているが、返事は一向に返ってこない。いい加減、腹も立ってきたので嫌がらせに百瀬の写メだけを延々と送りつけてやった。泣いている百瀬、寝ている百瀬、落ち込んでいる百瀬。シスコンの後輩にとって、悲しんでいる妹の姿は千の刃より有効なはずだ。
「……ま、どこまで効果があるのか知らねーけどな」
送ったところで後輩が目を通さねばなんの意味もない。それに、いつまでも帰ってこない後輩の心配ばかりしているわけにはいかない。
正月も二日を過ぎれば、そろそろ現実的な心配をしなくてはならなくなってくる。具体的にいうと、そろそろ俺も仕事が始まる。まして、今年は年明け早々にでかい企画の会議が待ち受けているため、後輩が帰ってくるまで有給を使うというわけにもいかない。
「くそっ……百瀬にも、そろそろその辺の話もしとかなきゃな……」
後輩からの『引き継ぎ書』にはその辺のことも書いてあった。万一、正月休みが終わるまでに自分が戻らなかった場合、百瀬は保育園に連れて行って欲しいとのこと。送迎はいつものシッターさんにお願いしてあるとのこと。云々。
相変わらず、冷静なくせに人への気遣いというものに欠けるやつである。たとえ準備が整っていたとしても、今の百瀬を保育園に連れて行けるわけがない。
保護者に置いてきぼりにされて泣いている子供を、これ以上どこかに預けられるわけがない。
何が俺は人類に向いてないだ。
お前の方が、よっぽど人の心って奴を分かってねぇじゃねえか。
お前の大事な妹が今、一体誰のせいで泣いてると思ってんだ。
「つっても俺も年始早々に休むわけにもいかねぇし……あの野郎、本当に今度会ったら首の一本や二本は覚悟しとけってんだ」
毒づいて立ち上がる。今日は三ヶ日最後の日だ。明日からはまた平日となる。
どんな問題があろうと悩みを抱えていようとも。人間、生きていれば腹が減るし、飯を食わねば生きていけない。今はふれ腐れ泣き疲れながら過ごしている百瀬だって、飯時になればちゃんと食事はする。だからせめて。
今日は、今日くらいは、泣いているあの子が笑顔になれるような飯を作ろう。
明日から、百瀬がまた頑張れるように。
あいつが一番大好きなカレーを作ってやろう。
俺は決心すると、立ち上がってキッチンへ向かった。
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