嘘つきの約束は信じてはならない
スープをスパイスでねじ伏せる。それが、我が家のカレーのモットーだ。
正確に言えば、俺の料理の師である人物から教わったモットーだ。まずは動物性の出汁をとる。それも、うんと濃いものを。手近なところでは市販のチキンストックなどがあるが、やはりこの季節だったら一番は鶏ガラをどんがらと強火で炊くことだ。ぼこぼこと沸騰したお湯で冷凍の鶏ガラを小一時間も炊き続ければ、骨の良いスープが取れるし、部屋も温まる上に加湿効果まである。まさに一石三鳥だ。
スープが用意できたら、あとはルーを作るだけだ。飴色になるまでしっかり炒めた玉ねぎにクミン・コリアンダー・カルダモンにクローブなど粉末状にしたスパイスを加えて、それを先程のスープで丁寧に伸ばしていく。スパイスの調合はスープの濃さや材料によって変えたりするが、基本はこの手順だ。
もちろん、普通の──いわゆる固形カレーを作るのに比べると手間は段違いだが、その代わりに味は間違いなく美味い。それこそ、段違いどころか桁違いに美味い。おまけにスパイスカレーは日々、時間経過と共に味が変化していく。作り立てだった頃は鮮やかだったスパイスの香りが、翌日になるとどっしりと落ち着き、そこで丹念にとった濃厚な出汁との本格的な力比べが始まるのだ。
「せんぱーい、鍋返しにきましたー……って、うわ。まだ飯食ってねぇのアンタ? 飯バカの先輩にしちゃ珍しいな」
足立兄妹が律儀に空になったカレー鍋を返しにきたのは、夜七時過ぎのことだった。あ小さな子供がいるだけあって、足立家の夕食は早い。いつもであれば我が家でもこの時間は既に夕食を食べ終わっているのだが、生憎と今日は一人だったため、うっかり食べ損ねていた。
勝手知ったるとばかりにズカズカと入ってきた足立兄妹の姿に、俺は何時間かぶりにうん、と大きく伸びをする。
「あー……もうそんな時間か。キリいいところまでいったらやめようと思ってたんだが」
「はいはい、言い訳はやめましょうねー。仕事にキリのいい所なんて都合いいもんはないの。そんなものなくても、時間決めてその時間内に仕上げるか、仕上がらなくても決めた時間で一回終わらせるのができる大人ってもんなの」
「お前、仕事関係になると途端に正論ほざくよな……」
日常生活全般が盛大に間違っている男から正しいことを言われるほど、腹の立つことはない。
俺の文句など気にもせず、後輩は迷いなくキッチンに進むと、勝手に中を漁り始めた。
「あー、やっぱり。先輩のことだから、どうせ米は炊いてあると思ったんだよな。モモ、先輩のごはんの準備するから手伝って」
「おい、俺はまだ食べるとは──」
「だーめーでーす。こういう時はね、変な風に根詰めるより適度にリフレッシュ挟んだ方が結果的に効率も上がるの。どうしても仕事が気になるなら、先輩が飯食ってる間に俺が内容チェックしておいてやるから」
もともとそのつもりで来たんだし、とこちらが止める間もなく、テーブルの上に散らかっていた書類をテキパキと片付けられてしまう。自分の家は掃除しないくせに、こういう時だけ手の早い男である。それだけならまだしも、更に駄目押しで百瀬がカレーとスプーンを運んできたとなれば、もはや抵抗の余地もない。
俺は観念してありがたくスプーンを受け取り、カレーを口に運ぼうとした寸前で──ふと、横から妙に熱烈な視線が注がれていることに気づいた。見ると、既に仕事を終えたはずのカレー配達人が、横であんぐりと口を開けている。
なんとなくだが俺は。
手にしたスプーンを、自分ではなく「あーん」と一生懸命アピールしている四歳児の口の中へと突っ込んだ。
「……美味いか?」
もっきゅもっきゅと口の中のごはんを噛み締める百瀬の顔は、きっと幸せというものを具現化したらこの子の笑顔になるだろうな、と思わせるものだった。見ていて実に食べさせがいがある。
俺がいっとき、仕事のことも忘れて百瀬のつまみ食い風景に和んでいると、兄に見つかってしまった。
「あっ、こらモモ! お前はもう夕飯食べただろうが! なんで先輩の貰ってんだよ」
「ちがうよ。とおるくんが食べなさいって勝手にモモにくれたんだよ」
保護者に怒られた途端、迷いなく責任をこちらに転嫁してくる四歳児だった。
この兄にしてこの妹ありというか、やはり可愛い顔していてもこいつも足立族である。
「とおるくんのカレーねぇ、すごくおいしかったよ。モモいっぱいたべた。でも、ちーちゃんがもっといっぱいたべたから、うちの分ぜんぶなくなっちゃった」
「え、マジで? もう?」
マジか。確かにカレーは食べ物ではなく飲み物とは言うが、それでもかなりたっぷり目に渡したはずなのにマジか。思わず後輩を見ると、相手はさっと視線をそらした。
「うん。ちーちゃん、三回もおかわりしたんだよ。ルーも二杯もかけてたから、なくなっちゃったの」
「……お前、今日は結婚式で飯食ってきたんじゃなかったのか?」
つい半眼になって問いかけると、後輩はバツが悪そうな顔を浮かべた。
「だって、ああいいうお上品なコース料理って、あんま食った気しないじゃないですか……つーか、先輩も悪いんですよ! なんですかあのカレーは! あれ店で一皿千五百円くらい取られるやつじゃん! カレーなのに食べると甘みを感じるとか、俺初めてだったんですけど!」
「ふっ……それが玉ねぎの真の実力ってやつだ」
飴色玉ねぎ。誰しもが耳にはしたことのある名前だろうが、その真の実力を知る者は恐らく殆どいない。みじん切りにした玉ねぎを、限界の向こう側まで炒めると、驚くほどの甘みと旨味が生まれるのだ。玉ねぎというものは本来かなり糖度が高いのだが、それを掻き消すほどの辛味成分をも同時に備えているため、普段はその甘みの恩恵を感じることは少ない。
しかし、この辛味成分は熱に弱いので、じっくりと丁寧に──ざっと三時間くらいかけて丹念にとろ火で炒めていくと、次第に揮発して甘みだけが残るのだ。さすがに手間がかかるので、休日くらいにしかやらないが。
俺が美味さの秘密を解説してやると、後輩はなぜか微妙に慄いた表情で「三時間……」と呟いた。
「……先輩ってあれだよね。前々から思ってたけど、一般的な料理好きとかいうレベルを超えて、わりと頭おかしいよね」
「そういうお前もわりと失礼というか、人様の家で飯をご馳走になった野郎が言う台詞じゃねぇけどな。それ」
「だって俺、料理人でもないのに玉ねぎ半日炒める人類、初めて見たもん。やらないでしょ普通。そういうこと」
「……やらないか?」
「うん。やんない。普通の社会人って、休日に引きこもって半日玉ねぎ炒めるほど時間ないし。あ、あと先輩。ここ誤字発見」
「げっ」
カレーはあっという間に食べ終わってしまった。作るのは長いが食べるのは早い。それがカレーである。食べ終わって片付けをしている間、後輩はソファに寝そべりながら書類をチェックし、百瀬は昼間散々遊んだせいか、そんな兄の上ですやすやと舟を漕いでいた。
「お前、重くないのかその姿勢」
「全然。ちなみに先輩、この資料の提出っていつまで?」
「年明けにブラジルとの会議があるから、そこで使う予定」
「ふーん……ならまだ時間あるか。だったらこれ、ちょっとだけ俺に預からせてもらってもいいですか?」
突然の申し出に、俺は目を丸くした。思わず尋ねる。
「なんでだ?」
後輩は、少し目を伏せて悩むそぶりをしたが、すぐに口を開いた。
「これ、他社との競合企画でしょ? 今のままでも悪くないとは思うけど正直、商品としての魅力がちょっとぼんやりしてるというか、アピール力に欠けてると思うんだよな。俺の知り合いで、企画部でちょうど面白い新商品を担当してるやつがいてさ。それと絡ませれば、もうちょっとコストも抑えられると思う」
「ほぅ……」
うちの会社は物流業だ。そして物流費というのは、どの企業でも真っ先に削られる場所である。なので、コストを抑えられるというのはそれだけで確かに、顧客に対する戦力になる。
しかし本当い顔が広いなこいつは。
入社三年目の、世間的にはまだまだ若手と言われる年齢なのに、既に俺よりずっと知り合いも多いし情報収集力もこいつの方が上だ。
俺が素直に感心していると、その沈黙を誤解したのか後輩が躊躇いがちに付け加えてくる。
「あの……なんか、余計な口出しちゃってすいません。先輩が嫌なら別に……」
「いや、お前の負担にならないならぜひ頼みたい。俺も正直、今のままでは弱いと思ってた」
思っていたが、そこまで手が回らなかったのと、具体的に何をすればいいかの代案が思いつかなかった。同じ社内とはいえ、他の部署の仕事まで把握できるほど俺は器用な人間ではない。なので、そういった自分の至らない部分を指摘し、助けてくれる存在がいるのはすごくありがたい。そう告げると、後輩は「よかった」と安堵したように微笑んだ。
「先輩には普段からお世話になってますからねー。俺も、得意分野で返せる恩は返さないと。ところで、代わりと言ってはなんですが一つ頼みたいことが」
「……俺、お前のそういうところ本当にすごいと思う」
恩返しを語ったその舌の根も乾かないうちに、御礼を要求してくる。並の人類にはなかなか出来ることではない。
しかし次の瞬間、後輩の口から語られた『お願い』は、俺が思いもよらないことだった。
「実は入院中のうちの親が、あまり具合がよくないらしくて。年末の休みに、モモに内緒で様子見に行きたいんですけど、また預かっててもらえませんか?」
それは、ごく普通の口調だった。
努めて、ごく普通に言っているのだと分かった。
「別に、それは構わんが……」
百瀬を預かるのは問題ない。それに、入院中ともなれば小さな子供がいない方がいいことも分かる。それでも黙っていられず、俺はお節介と知りつつもつい口を開いた。
「どうせだったら、百瀬も連れてってやったほうがいいんじゃねぇか? あいつは勿論、親御さんだって久しぶりに百瀬の顔も見たいだろうし」
いくら兄と一緒に暮らしているとはいえ、百瀬はまだ四歳だ。やはり親恋しい気持ちもあるだろう。そういうと、後輩は少しだけ困ったように微笑んだ。
「本当はそうなんですけど……今は会わせてホームシックになっても逆にかわいそうだし、俺一人の方が今後の話とかもしやすいですし」
「今後の話?」
「はい。今は預かってるだけだけど、親の状態によってはこの先、モモを俺が引き取って育てるのもありかなって。ちょいと、その辺の話もしておきたくて」
「なるほど」
見舞いだけでなく込み入った話になるというのなら、確かに百瀬は留守番の方がいいだろう。俺は頷いた。
「了解。ま、年末は大掃除くらいしか予定なかったし、そういうことなら引き受けた」
「マジで!? よかったぁ〜! さすがに年末年始で誰もが忙しい時期にこんなこと頼める人なんて、先輩くらいしか思いつかなくて」
「お前ひょっとして、素直に礼を言うと死ぬ呪いにでもかかってんのか?」
後輩は肩の荷が下りたかのようにふにゃりと安堵の笑みを浮かべるが。そんな時でさえいちいち絶妙に腹の立つ奴である。
「けど、頼んでおいてこんなこと聞くのもあれですけど、本当にいいんすか? 年末年始って、どんな人間でも大抵は予定あったりするもんでしょ。たとえ先輩でも。実家に帰ったりしないんすか?」
たとえ先輩でもとか言っている時点で、完全に喧嘩を売られていることは明白であるが、俺は大人なのでスルーした。
「実家っつってもどうせ都内だしなー。たまーに親と飲みに行ったりもしてるし、正月だからって帰らなければならんということはない」
まだ結婚もしていないし、見せたい孫がいるわけでもない。無理に正月に帰らなくても、どうせちょくちょく会うのだ。
「仲良いんですね。先輩の家」
「仲良いっていうか、普通だよ。あと、この時期に実家に帰るとおせち料理を作らさせるのでめんどい」
「独身の息子に、実家のおせち作らせるパターンはさすがに珍しいな……先輩の飯食ってる身としては、分からなくもないけど」
妙に納得したように頷くが、作る身としては大変なのだ。どうせだし、たまにはのんびり家で過ごすのも悪くない。
とはいえ、公園に遊びに行くのは寒いので、はて今度はどこに連れて行くか、と俺はのんびり計画を立てた。
当日、俺の玄関先では涙目の兄妹たちが、神妙に見つめあっていた。
「じゃあな、モモ。先輩の言うことをちゃんと聞くんだぞ」
「ちーちゃん……モモのこと、おいてっちゃうの……?」
「ううっ……やっぱだめだ! こんな可愛いモモを置いていくなんて俺にはできない! よし、これから一緒に……!」
「いいからお前はさっさと行け」
人の家の玄関先で、抱き合いながら感動の別れを演じる足立兄妹を蹴り飛ばす。毎度のことながら、面倒くさい兄妹だちだ。
後輩は名残惜しそうに何度も何度も振り返っていたが、一方の百瀬といえば、そんな後輩の姿が見えなくなった途端、新しいおもちゃにかじりついていた。今日のために、姉のところから借りてきた四つ子のおもちゃである。小さい頃に使っていたものなので、少し古いが今でも充分遊べるものだ。
今日は天気はいいが風は冷たい。いかにも師走らしい気候で、外遊びには少々難儀だ。しかし、これだけ目新しいおもちゃがあれば、一日くらいは気が紛れるだろう。
昼は少しばかり贅沢だが、気分転換も兼ねて外食にした。ちょっと早いが年越し蕎麦だ。普段は外で食べることは殆どないが、俺だって外食は嫌いじゃない。特に、自分以外の誰かが作った飯を食べるのはやはり美味しい。
「とおるくん! おいしいねー!」
にっこにっこと嬉しそうに百瀬がすすっているのは、蕎麦ではなくうどんだったが、本人が満足そうなのでよしとする。
そして帰り道、三十一日なので三十一パーセントオフになっていたアイスクリームをデザートに買って帰る。本当は二つの予定だったが、百瀬の強い希望により三つテイクアウトすることになった。俺と百瀬と後輩の分だ。
「ちーちゃんまだかなー。なんじ帰ってくる?」
「遅くなるかもとは言ってたぞ。眠かったら布団敷いてやるから先に寝ておけ。兄貴が迎えにきたら起こしてやるから」
そういえば、後輩の実家がどこにあるのか聞いておくのを忘れていた。なんとなく都内か、少し遠くても関東内だと思い込んでいたが、飛行機や新幹線でいくような場所だったら、移動だけで一日がかりである。今はどこの公共機関も混む時期だし、ひょっとして帰宅は深夜になるかもしれない。
俺は念のため、百瀬の布団を敷いておくことにした。待ちきれずに妹が眠りこけたとしても、どうせ家は隣なのだし、抱っこして連れ帰るのは余裕だろう。
しかしその夜、後輩は帰ってこなかった。
その日だけでなく、次の日もそのまた次の日も。
年が明けて新年になっても、後輩はそのままずっと家には帰ってこなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます