カレーダンス
後輩が帰ってきたのは、予想よりもだいぶ早い時間だった。
「たっだいまー! モモ、いい子にしてたか? 兄ちゃんいなくてさみしくなかったか?」
「うん、してたよ! モモねー、おてつだいとかもしてすごーくいいこだった! ねっ、とおるくん!」
およそ四時間半ぶりに感動の再会を果たし、同じ顔の兄妹たちはひっしと力強く抱き合った。なかなか日本人にあるまじき、オーバーリアクションな兄妹たちである。
しかしそれはそれとして、確かに今日の百瀬はいい子だった。買い物に行っても店の中で迷子になることもなく、道路急に飛び出すこともない。せいぜい、やたらと家の中にあるチョコレートを狙ってきたり、こっそり俺の家のお菓子をポケットに入れようとしたり、塗り絵の最中にうっかり勢い余って床にまで落書きをした程度だが、武士の情けでその辺のことは黙っておいてやろう。
いい男というのは、あえて多くを語らないのである。
「モモね、今日おかいものにいったんだよ。おひるごはんの。とおるくんと一緒におつかいにいって、そのときだれがおかねはらったと思う? じゃーん! なんとモモでしたー!」
「へぇー!すごいな!ちゃんと出来たか?」
「うん!あとねー、そこでねー、とおるくんにおかし買ってもらった!」
「そっかー、よかったなー」
妹思いの兄というより、さながら孫を愛でる好々爺のような眼差しで百瀬の頭を撫でていた後輩は、一頻り妹を補給して満足したのか、俺に向き直ってぺこりと頭を下げた。
「先輩、今日は本当にありがとうございました。おかげさまで助かりました。急なお願いだったのに、モモの面倒見てもらって」
「別にいいけど。お前が愁傷な態度ってのも、なんか珍しいな」
コミュ力が高い割に、滅多なことではその能力を披露しないのが俺の知る後輩である。いや、正確には普段から四方八方に愛想は振りまいているのだが、対俺相手にはすこぶる態度が悪い。
案の定、後輩はひどく心外そうに眉をしかめて言ってきた。
「え、なんでですか。失敬ですねそれ。いくら俺だって、自分のために社会人の貴重な休日を潰させたら、申し訳ないとは思いますよ。たとえそれが、何の予定もない人であっても!」
「前言撤回。やっぱ失礼だわお前」
たとえ本当に俺の予定があろうとなかろうと、こいつのために休日を使ってやる理由はそもそもない。
「ま、今日はお前のためっていうより百瀬のためだったからな。つーか、帰ってくるの早いな。もうちょいのんびりしてきてもよかったのに」
現在、時刻は午後の四時。結婚式の二次会終わるにしては、やや早すぎる時間である。俺の質問に、後輩はあっけらかんと言った。
「ああ、それなら途中でぶっちしていちゃいました」
「オイ」
「ていうか、もともと二次会という名の友人内での飯食う会だと思ったら、それが終わった後にみんなで飲みに行くって話になったもんだから、そっちは退場してきたんです。確実に帰り遅くなるし」
「別に遅くなったって困りゃしねーけど」
どうせ部屋は隣なんだし、ここまで来ればついでに百瀬に夕飯を食べさせてやるくらいなんでもない。せっかく久しぶりに友人に会えたのなら、のんびりしてきてもバチは当たらんのではないか。
しかし、そんな俺の心広い発言に対し、後輩はガンと首を振った。
「いやいやいや。さすがにそこまで先輩に甘えるわけにはいかんでしょ。それに、俺だってモモのいないところでツレと酒飲んでるより、この家でみんなで飯食ってる方が楽しいですし」
爽やかに微笑みながら急にしおらしいことを言い出す後輩だったが、ここで決して忘れてはならないのは、ここが足立兄妹の家ではなく俺の自宅だという事実である。
なんで自分の家みたいに言ってんだこいつ。
お前の自宅は隣だろうが。
「そんなわけで先輩。今日の夕飯は俺も食べます」
「お前に一瞬でも謙虚さというものを期待した俺が馬鹿だった」
「まったまたー。いいんですよ別に、そんな憎まれ口きいて隠さなくても。どうせ先輩のことだから、今日の夕飯だって既に用意してあるんでしょう?」
絶妙に腹の立つしたり顔で、そんなことを言ってくる。よほど追い返してやろうかと思ったが、それより先に百瀬が食い気味に答えた。
「ちーちゃんあたりー! きょうはね、カレーだよカレー」
「マジで⁉︎ ヒャッホーィ! カレーだカレー!」
「そうだー、カレーだー、カレー! かーれーはー、からいけどー、モモはー、子供だからー、本当はー、食べられないけれどー、今日のー、カレーはー、からくーないからー、へいきー」
ついでに謎の歌まで歌いながら踊り始めた。
よほどカレーが嬉しいらしい。
だがしかし、子供が唐突に意味不明な行動をするのには、わりと慣れているので驚かない。子供の言動というものは、一見唐突に見えても彼女たちの中では物事が繋がっていたりするし、大人に比べてまだ語彙も少ないので突然ボディーランゲージが始まるのもやむを得まい。驚かないがしかし、一緒になって後輩が踊り出すのに関しては、素直にどうかと思った。
お前まで一緒に踊るのかよ。
百瀬はともかく、身長一七〇センチ越えの男がドタバタ動き回るの、普通に近所迷惑だからやめて欲しい。
足立兄妹たちは、一通り歌とダンスを披露して落ち着いたのか、最後に二人でジャーンと決めポーズをしてからようやく停止した。
カレー一つでここまでテンション上がる人間を初めて見た。
「……兄妹仲良くテンション上がってるところ悪いんだが、お前が予想より早く帰ってきたんなら今日はもう二人とも帰れ。カレーは分けてやるから」
「え、なんで?」
素っ気なく告げた途端、後輩はこれから公園へ散歩に連れて行ってもらえると思ったのに、着いた先が動物病院だったトイプードルのような表情になった。
あまりの悲壮さに、うっかり意味もなくこちらが罪悪感を抱きそうになるが、あくまでここは俺の自宅であって足立兄妹の家はこの隣なのである。なにも間違ったことは言ってない。はずだ。
しかしそんな大人の理屈は子供には通じなかったらしく、百瀬はわかりやすく拗ねた。ふくふくとした餅のような頬っぺたを、ぷっくりと膨らませる。
「えー、やだー! モモ、もっとここであそぶー!」
「駄目だ。兄貴がいないならともかく、いるなら家に帰れ。俺にもやることがあるんだよ」
「そんな!無理しなくてもいいんですよ!先輩に予定なんて、あるわけないじゃないですか!」
「……いっぺん本当にどつくぞテメェ」
端から端まで丹念に失礼な野郎だ。
「予定っつーか、持ち帰りの仕事があるんだよ。ほれ、お前も知ってるだろ。例の企画。休みのうちに進めておきたくてな」
例の企画というのは言わずもがな、課長から譲り受けた大型案件である。心当たりのある後輩はすぐに事情を察し──ついでに少しだけ真面目な表情を見せた。
まるで──今日、駅前で見かけた時のような。
結婚式に行くと言ったはずなのに、なぜか弁護士バッヂをつけた老人と連れ立っていた時のような。
「例の企画ってあの、ダメ課長から先輩に回ってきたやつですか? 進捗、そんなにヤバいんです?」
声に僅かな懸念の色が混じるのは、そんな時に子守を任せたという罪悪感からだろうか。そんな後輩の気遣いを吹き飛ばすように、俺はあっさりと首を振った。
「いんや? ただ、職場にいるときは他の件もあるし、なかなかまとまった時間取れないからな。じっくり腰据えてやるなら、メールも来ない休日の方が作業がしやすい」
別に、持ち帰りで仕事をしなければならないほどに追い詰められているわけではないが、家で一人で作業をしていた方がまとめて集中できる分、格段に効率がいい。
同じ職場にいるだけあって相手にとっても納得のいく話だったのか、後輩が遠慮がちに言ってくる。
「よかったら俺、手伝いましょうか? モモの面倒見ててもらった御礼に」
それは正直、願ってもない申し出ではあったが。さすがに即座に頷くわけにもいかず、俺は顔をしかめた。
「でもお前、部署違うし」
「部署違うっつっても、別に会社が違うわけじゃないし、そもそもその案件、うちの部との合同企画じゃないですか。俺も概要くらいは知ってますし、資料作りするんだか見積もり作るだか知らないけど、どうせ第三者チェックがあった方がいいでしょ。いつもお世話になりっぱなしだし、そのくらいの役には立ちますよ」
「そうだよとおるくん。なんならモモがかわりにやってあげよっか?」
「いや、それはいい」
お手伝いの延長のつもりか、なぜか上から目線で手を差し伸べてくる四歳児にはきっちりお断りを入れて、代わりに兄の方の助力を得るということで、ひとまずは話がついた。
そして、とりあえず一人で仕事に集中したいという俺の発言によって、足立兄妹たちはカレーと一緒に大人しく自宅へ戻っていった。
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