第1章 第3話 龍二VS誘拐犯 その5

 薄暗い部屋で目を覚ました龍二は、すぐに既視感を覚える。

 自分が椅子に座らされている事に気づき、両手をひじ掛けに固定されている事にも気づいた。

「また、これか……」

 身体を見下ろしてみると、上半身もあの時同様、背もたれに括りつけられている。

 両足は拘束されていないが、やはり逃げ出せるような状態ではなかった。

 初めて誘拐された時の焼き直しだとぼやき、頼りない明かりの灯る部屋を見回す。

 電気は通っているようだが、強盗にでも荒らされたような惨状は、普段から人が利用している部屋とは思えなかった。

 広さこそそれなりのものだが、どこかの廃墟か、倒産した会社の一室というのが妥当な線だろう。

 あの時との明確な違いは、誘拐犯の姿が見当たらない事と、窓の類が一切ない事だ。

 最初の夜にあったうてなの襲撃を警戒しているのかもしれない。

 妙に落ち着いている自分に多少驚きつつ、龍二は気を失う直前の事を思い出す。

 保健室に投げ込まれた、いかにも爆弾と思しき物体。

 咄嗟にくのりを庇って、ベッドを壁代わりにした。

 くのりに覆い被さった瞬間、強烈な閃光と衝撃に襲われて、そのまま……。

「なんとか生きてる……」

 あれが爆弾だったとしたら、ここまで無傷ではいられなかっただろう。

 となると、あれは龍二が考えるような爆弾ではなかったという事になる。

「無事、だよな……」

 自身の事よりも、くのりの安否が気がかりだった。

 爆弾ではなく、閃光弾の類だったなら、くのりは怪我をせずに済んだだろう。

 希望的観測だが、龍二はその都合の良い解釈に縋りたい気分だった。

「んっ……」

「えっ?」

 聞き間違えるはずのない呻き声に、ハッとして振り返る。

 体勢的に厳しい角度だが、ギリギリその声の主が視界に入った。

「く、くのりっ?」

「うっ、んっ……」

 椅子に縛られている龍二とは違い、くのりは両手と両足を縛られ、地面に寝転がされていた。

 今の今まで気を失っていたのか、苦しげに呻きつつ、ゆっくりと目を開く。

「くのり、くのり!」

「りゅう、じ……?」

 不自由な体勢なのも構わず、龍二は必死にくのりの名を呼ぶ。

 椅子はキャスターがついていないタイプらしく、容易に向きを変える事はできないが、自由が利く足を使い、少しずつくのりの方へと近づけていく。

「くのり、へ、平気っ? 怪我とか、してない?」

「なに……? 怪我……? えっと、私……あれ、どこ、ここ?」

 先走って焦る龍二を訝しげに見て、それから周囲をぐるりと見る。

 首を傾げながら起き上がろうとしたくのりは、そこでようやく自身が手足を縛られている事に気づいた。

「えっ、ちょっ、な、なにこれ? 縛られてる? なんで?」

 当然の反応を見せるくのりは、手足の拘束を外そうとするが、芋虫のようにもがく事しかできなかった。

「って、ちょっとくのり! ダメだって! そんな風にしたらマズいから!」

「はぁ? なに言ってんのよ? よくわかんないけど、これ外さないとどうにもなんないでしょうが」

「そうなんだけど、でも待った! それ以上動くと見える! スカート!」

「は? え? あっ、あぁっ!」

 場違いにも頬を赤らめて叫ぶ龍二の言わんとするところを理解したくのりも、同様に顔を赤らめて叫ぶ。

「ちょっ、み、見るな! あっち向け!」

「無茶言わないでよ! やっとここまで椅子動かしたんだから!」

「こんな時に変な努力するとか、バカなの⁉」

「ちがっ、下着が見たくて動かしてたんじゃないから!」

 とんでもない誤解をされた龍二は、危機感すら忘れて弁明する。

 誘拐された状況でする会話とは、到底思えない。

「と、とにかくそういう事だから、今はジッとしてて」

「わ、わかったわよ……でも、龍二はあっち向く事。いい?」

「うん、そうする」

 どうにかめくれ上がったスカートを戻そうとするくのりに、龍二は背を向ける。

 状況の説明をするには、いささか微妙な空気になってしまった。

「……で、なんなの、これ?」

 龍二の気まずさを察したのか、くのりが話題を振ってくる。

「たぶんだけど、誘拐されたんだと思う」

「龍二ってさ、面白くない冗談は言っても、そういう笑えない冗談言うタイプじゃなかったよね?」

「冗談を言える状況じゃないってわかるだろ?」

「……まぁ、そうだけど。でも誘拐って言われても……なんで私たち?」

「それは……うん」

 自分のせいで巻き込まれたとは言えなかった。

 歯切れの悪い龍二の様子を、くのりは訝しむ。

「って言うか私たち、保健室にいたよね? あの時確か、龍二がいきなり……こう、してきたよね?」

 その瞬間の事を思い出したくのりは、直前まで自分がどんな態度で迫っていたのかも思い出し、再び頬を赤らめる。

 彼女の羞恥心は、龍二にも伝播していた。

 あの時、爆弾らしき物が投げ込まれなければ二人はどうしていたのか。

 またしても場にそぐわない思考が、脳裏をよぎる。

「僕にもよくわからないんだ。何かが投げ込まれて、それが爆弾じゃないかって思って、だから咄嗟にああして……その後は、気絶したみたいで」

「私も、そんな感じ……」

 龍二と同じように、くのりもあの閃光の中で気を失ったという。

 もどかしい沈黙が二人の間に流れる。

「……ごめん」

「なんで謝るの?」

「いや、なんとなく……」

 自分が狙われているのだと伝えようとするが、躊躇してしまう。

 龍二自身、理由がわかっていない事を説明して納得してもらえるのか、どう説明すればいいのかすらわからない。

 護衛をしてくれている深月の事も話すべきなのかどうかも。

 いや、そのどれもが言い訳だ。

 龍二はただ、怖かったのだ。

 自分のせいでくのりは巻き込まれ、一緒に誘拐されてしまったと伝えるのが。

 どう思われるのかが不安で、言えずにいた。

「……ありがと」

「……なんで?」

 唐突にお礼を言われた龍二は困惑する。彼女に対して後ろめたさがあるからこそ、激しく動揺した。

「だってほら、あの時、庇ってくれたんでしょ? 爆弾だと思って」

「あれは……そのつもりだったけど、でも……」

「うだうだ言うのはなし。私は嬉しかったし、だからお礼も言っておかなきゃって思ったの。文句ある?」

「……いや、ない」

 くのりに背を向けたまま、龍二はうな垂れる。

 こんな状況でもいつもと変わらないくのりの言葉に、身体の奥が熱くなるようだった。

 そんな高揚とも言える感覚が、余計後ろめたくなる。

「くのり、あのさ――」

 やはり伝えるのが誠意だと龍二が奮い立った時、唯一の出入り口であるドアが静かに開いた。

 廊下に見張りの男を待たせ、少女は一人で中に入り、後ろ手にドアを閉める。

「君は……」

「また会えて嬉しいわ」

「い、いやー、僕は会いたくなかったかな、うん」

 にこりともせず嬉しいと言ってくる少女に、龍二は引きつった笑みを返す。

 見間違えるはずがない。部屋に入ってきた少女があの時の誘拐犯だと、龍二はすぐに理解して苦い表情を浮かべる。

 十中八九そうだろうと思ってはいたが、いざこうして目の前にすると、あの夜の嫌な記憶と感覚が蘇ってくる。

 額に押し当てられた拳銃の感触は、何度思い出してもゾッとしない。

 夏場にもかかわらず黒いジャケットを着こんでいる少女は、龍二を見下ろしながらぽつんと置いてある机に腰かける。

 ジャケットの内側にちらりと拳銃が見え、龍二は嫌な汗をかく。

「りゅ、龍二……なんなの、この子」

 自分とそう変わらない年頃の少女が纏う剣呑な空気に、くのりは気味の悪さを感じているようだ。

 龍二にかけた声が、僅かに震えていた。

「答えてあげたら?」

 黙り込む龍二の心中を察しているのか、誘拐犯の少女は楽しげに煽る。

 幾度となく襲撃を繰り返しては辛酸を嘗めさせられた腹いせだ。

 無関係なくのりを連れて来た理由も、そこにあるのだろう。

「彼女は、その……」

「え、なに? 知り合いなの?」

「知り合いって言うか、一度だけ会った事があると言うか……」

 萎みそうになる気持ちを絞り出すように、龍二は床を見つめたまま話す。

「彼女は、僕たちを誘拐した犯人だ……」

「この子が誘拐って……え? ちょっと、本気で言ってるの?」

「嘘じゃないんだ。保健室の事も、その前の……久良屋さんが倒れたのも、たぶん、彼女が仕組んだ事だ」

「えっと、なんで久良屋さんが……いやいや、ちょっと待って。全然わかんない」

 突拍子のない話に、転校生が倒れた事まで加えられ、くのりは混乱する。

「だよね。うん、よくわかる。僕も正直、わかんない事だらけなんだ。でも、この人は本気で僕を誘拐しようとしてて、実際今こうして、こうなっちゃってるんだよ……」

 吐き出すように話しながら、くのりの方へ視線を向けようとしては逸らす。

 彼女がどんな表情で聞いているのかを知るのが、龍二は怖かった。

「なにそれ……ねぇ、人違いじゃないの?」

 その問いかけは龍二ではなく、あろうことか誘拐犯である少女へ向けたものだった。

 この状況で自身に話しかけてくるとは思っていなかった少女は、その視線をじろりとくのりに向ける。

 転校してきたばかりの深月にも臆せず問い詰めた性格は、この状況でも健在だった。

 それはくのりの魅力の一つだと思いつつ、龍二は胃が軋むような鈍痛を覚える。

 大人しくしていて欲しいという願いは届かず、寝転がされたまま、くのりは少女を睨み返していた。

「やっぱりそう思うよねぇ。私も最初は疑ったわ、当然ね」

 誘拐犯の少女は低く笑い、腰かけていた机から離れ、くのりの方へと近づいていく。

 制止しようと口を開いた龍二に銃を突きつけ、黙らせる。

 そのままくのりの眼前に屈み、胸元のポケットから取り出した一枚の写真を見せる。

「でも見て? ここに写ってるのは、間違いなく彼でしょ?」

 くのりが見せられた写真には、確かに龍二と同じ顔をした少年が写っていた。

「……やっぱり人違い。よく見比べてみたら? 龍二はね、そんなに凛々しい顔してないし、目つきも悪くないから」

「……面白いわね、あなた」

 銃を持つ相手にも臆する事のないくのりを、少女は興味深そうに眺めて立ち上がる。

 意味深な笑みを浮かべ、今度は龍二の前に移動し、写真とそこにある顔を見比べる。

「確かに、写真の方が凛々しくて、鋭い目つきをしているわね」

 からかうように言いながら、龍二にも写真が見えるようにする。

 そこに写っている顔は、確かに二人が言う通り、龍二とそっくりではあるが、精悍さがあった。

「あなたも人違いだと思う?」

「あ、あぁ、やっぱりそうじゃないかな? そもそもこんな写真撮った覚えがないし」

「構図的に隠し撮りでしょうから、それはそうでしょうね」

「あー、そうか。でもやっぱり違うと思うなぁ? ほら、僕のほうが愛嬌あるしさ! あるでしょ?」

 愚にもつかない事を言って、どうにか少女の興味が自分へ向くようにする。

 くのりは実感が薄いからああして強気な態度を取っているが、龍二は知っている。

 彼女は自分たちとは住んでいる世界が違う、怖い人間なのだと。

 だからこそ、こんな状況でくのりに興味を持たれたくない。

 嫌な想像が、先ほどから頭の中を駆け巡っていた。

 明らかに焦りが見える龍二の反応に、少女は何を思ったのか。小さく鼻を鳴らし、写真を胸のポケットに戻す。

 拳銃を右手に握ったまま、転がっていた椅子を起こし、埃を払うとそこに座った。

 丁度、龍二の正面に位置する。少し視線を横にずらせば、なおも毅然とした視線を逸らさないくのりが見える。

 龍二のこめかみを、一筋の汗が伝い落ちた。

「少し、話しましょうか。あなたが何者なのか、実は私も興味があるのよ」

「話すって何を? 僕は僕だよ。ただの高校生で、誘拐される覚えなんてない」

 声が震えないように唾を飲み、龍二は答えた。

 彼女が話したいというのなら好都合だった。少なくともその間は、くのりに危険が及ぶ事はないはずだ。

 龍二はそう考え、少女の冷たい視線を受け止めていた。

「覚えはない、ね。とぼけているのなら、なかなかの演技力と言ったところかしら」

 値踏みするように、龍二の姿を爪先から顔まで眺める。

「とぼけてなんかないよ。そっちこそ、人違いを疑った方がいいんじゃないかな?」

「もし人違いだったら困るわね。すぐに本当のターゲットを探さないと」

「そ、そうだよ。すぐに探した方がいい」

「でもそうなると、あなたたちを処分しないといけなくなるわね」

 不穏な発言をしながら、少女は拳銃を眺め、トリガーに指をかける。

「ちょ、ちょっと待った。処分ってそんな、手間を掛けなくていいから。普通に解放してくれれば十分だよ」

「そうはいかない。だってほら、顔を見られているから。だから解放するなら、死んだ後じゃないと困るの」

「ふ、覆面をしておくとか、僕たちに目隠ししておくとか、そういう誘拐のセオリーを忘れるのがいけないんじゃないか」

「確かにそうね。でも仕方ないじゃない。あなたがターゲットだって確信していたんだから。人違いだったら困るわよねぇ? お互いに」

 間違っている可能性はないと、からかうような表情が物語っていた。

 そんな事よりも、彼女が口にした処分という言葉に龍二は動揺していた。

 目撃された以上、生かしておくつもりはないという事も同然の発言だ。

 ターゲットである龍二はともかく、ただ巻き込まれただけのくのりが無事に解放される可能性は限りなく低いと言っていい。

 心臓を潰されるような感覚に襲われ、手足に軽い痺れが走る。

 荒くなる呼吸を整えようと、一度顔を下に向ける。

 椅子のひじ掛けに縛り付けられた左腕が視界に入る。

 そこにある腕時計が、今は唯一の拠り所だった。

 目覚めた時から、腕時計をちゃんとしている事は確認していた。

 これがあるなら、必ず深月とうてなが居場所を突き止め、救出に来てくれる。

 盗聴機能もついていると聞かされた時は愕然としたが、今はそれすらありがたい。

 もし近くに彼女たちが来ているのなら、こうして会話をしているだけでも、きっと役に立つはずだ。

 なんでもいい、届いていると信じて、この状況を伝えるなり、目の前の少女の気を引くなり、やれる事をやるのだ。

 今くのりを守れるのは、自分しかいないのだから。

「けどまぁ、無用な心配ね。人違いなんかじゃないんだから」

 確証を得ているのか、少女は肩を竦め、背もたれに身体を預ける。

「久良屋深月。あの女が護衛についているのなら、それだけの価値があなたにあるという事よ。わかる?」

「彼女を、知ってるの?」

「当然でしょ。まさか、あのレベルのエージェントを差し向けてくるとは思ってなかったのよ。おかげで随分と手間をかけさせられたわ」

 ここ数日、突然現れて龍二と行動を共にしていたのだ。ただの転校生だと思う方がおかしい。

 目の前の少女は、ただの一般人とは程遠い。

 属している世界は、どちらかと言えば深月たちと同じ側なのだろう。

 だとすれば、龍二以上に深月の事を知っていてもおかしくはない。

「あの女が出てくると知っていれば、最初からもっと用心したのに。おまけにもっと厄介な異邦人まで一緒だなんて、正直割に合わない仕事よ、こんなの」

 吐き捨てるように言いながら、少女は天井を仰ぐ。

「そうと知っていれば最初から……はぁ」

 大きなため息と共に身体を前に倒し、ジャケットの内側からカプセルを取り出し、口の中に放り込んで水もなし飲み込んだ。

 そのカプセルがどんな効果を持っているのか龍二にはわからないが、顔を上げた少女と目が合った瞬間、背筋が凍るような感覚に身が竦んだ。

 暗く、深い灰色のような表情だった。

 絶望で塗り固められた双眸は、まるで死人のそれだ。

 下手に刺激を与えれば、底なしの沼に引きずり込まれそうな、そんな怖さ。

 くのりもそれを見たのか、息を呑むのが龍二にもわかった。

「ねぇ……あなた、何者?」

 ゆらりと立ち上がった少女が、静かに問いかける。

 問い詰めるような激しさはない。純粋な質問のように聞こえる。

 だが、その言葉を吐き出す表情は危うい。

 答えを間違えれば、即座に殺されてしまうのではないかとすら思える。

 それほどまでに、今の彼女は危険な雰囲気を纏っていた。

「……あなた、誰?」

「……僕は、僕だよ」

 それ以外になんと答えればいいのか、龍二にはわからなかった。

「僕は、僕……?」

 少女は首を傾げ、小さく笑う。

 鼻で小馬鹿にするような嘲笑は次第に大きくなり、決して狭くはない部屋に響く。

 龍二もくのりも、呼吸すら忘れていた。

 僅かでも彼女の興味を引けば殺される。

 そんな気がするほどの狂気を、肌で感じていた。

「僕は僕……そんな答えが返ってくるなんてねぇ」

 ひとしきり笑い終えた少女は、緊張に強張る龍二の顎を持ち上げる。

 先ほどまでの暗い表情とは違い、今は生気が戻っていた。

「あなた、やっぱり面白いわね。生け捕りが条件じゃなかったら、とっくにぶち殺してたところだわ。依頼主に感謝するのね」

 冗談でもなんでもなく、少女が本気で言っているのだとわかる。

 今すぐその手に握った拳銃を突きつけられてもおかしくはないほど、笑みを浮かべる少女の瞳には殺意が宿っていた。

「そ、それ以外に、なんて言えばいいのさ? 君だって、そう言うだろう?」

 間違ってもその殺意がくのりに向けられないよう、龍二は危険を承知で話す。

「私? さぁ、どうなのかしら……ねぇ、どう思う?」

 綱渡りのような問答だ。

 拳銃を持つ少女の手がいつ動くのかと気が気ではない。

 口から出てしまいそうな恐怖心を呑み込み、代わりに言葉を吐き出す。

「僕には、君がその……女の子に、見えるよ。制服を着てたら、どこにでもいそうな女の子に」

 その言葉に偽りはない。最初に誘拐された時の第一印象が、まさにそうだったからだ。

「どこにでもいる女の子? 私が? ハハっ、傑作ね、それ」

 予想外の答えに、少女は笑う。今度は純粋に、それこそ年相応の笑い方だ。

「面白いなぁ。そっか、制服かぁ。そういう手もありだったのかなぁ。潜入任務って考えれば、面白かったかもしれない。学校に通って、授業を受けて、友達と遊んで……あぁ、そういう感じかぁ」

 椅子の周りをゆっくりと歩きながら、少女は普通の学生に思いを馳せる。

 嫌悪や嘲りはなく、想像する事を楽しんでいるように見えた。

「うん、悪くない」

 龍二の前で立ち止まった少女は、そう言って頷く。

「悪くないけど、でも残念。学校なんてものに縁はなかったし、どこにでもいる女の子として扱われた事なんて、生まれてから一度もないの」

 かちり、と銃の安全装置が外される。

「あったのは、訓練と任務だけ。使役される都合のいい道具。与えられる任務をこなしても、ただただ虚しいだけ。達成感もなにもない……本当に、ただの道具」

 自嘲する言葉を乗せた指先が、拳銃のトリガーにかかる。

「でも、結局人は殺せなかった……それだけは、どうしてもできなかった」

 宙をぼんやりと眺めたまま、腕を上げる。

 持ち上げられた拳銃は、龍二の膝から胴体へ移動し、心臓を通過した。

「人を殺した事がない……って言ったら、信じる?」

 ぴたりと銃口が止まる。

 額に押し当てられる冷たい感触に、龍二の視界が歪む。

 気を失いそうな恐怖を前に、それでも龍二は踏み止まった。

 背後で上がった小さな悲鳴が、今にも砕けそうな意思を支えてくれる。

「震えているのは、怖いから? 死にたくは、ない?」

「と、当然だよ……凄く怖いし、死にたくだってない」

「なら安心していいわ。あなたは殺せないって、知ってるでしょ?」

 でも、と少女が銃口を僅かにずらす。

 その先にあるのは、満足に動く事のできないくのりだ。

「や、やめろ! 彼女は関係ない!」

 龍二は椅子をガタガタと揺らし、どうにか銃口の前に身体を出す。

「あなたと親しい人間は、無関係じゃないわ。本当は余計な人間までさらうつもりはなかったのよ。でも、あなたをさらう時に一緒にいたから。だから彼女はここに連れて来られたの。仮にその時、あなたの近くにいるのが安藤奏だったとしても、同じように連れて来たわ。あなたを大人しくさせるのに、役立つかもしれないから」

「そ、そんなの、僕なら言われた通りにする! どこにでも連れていけばいい! 抵抗なんてしないよ! だからやめてくれ!」

 虚ろな少女の目は、龍二を見てはいない。

 不安を煽るその視線は、龍二の背後で怯えているくのりに絡みついていた。

 警鐘を鳴らすように、鼓動が激しくなる。

 どうにか立ち上がろうとするが、縛られた状態では上手くいくはずもない。

「どうせ二度と会う事はないんだから、構わないでしょ?」

「構うよ! 構うに決まってるだろ!」

「面白いわねぇ。こんな状況で、他人の心配をするの? 連れ去られた後、どうなるかもわからないのに?」

「あぁそうだよ! 心配するよ! 逆になんで心配しないと思うのさ⁉」

 死人のような目が、龍二へと向けられる。

 銃口を額から離し、少女は龍二の顔を覗き込むようにして、今度は顎の下から銃口を突きつける。

 銃口に押し上げられた視線が、眼前に迫る少女の視線とぶつかった。

「二度と関わる事のない相手なんて、生きていようが死んでいようが変わらない。そうでしょ?」

「なんでそうなるのさ? 会えなくても、生きてて欲しいに決まってるだろ。君だって、そう思う相手の一人くらい――」

「いない。本当の家族も、偽物の家族も、親しい人間もいない。偽物でも、あるだけマシよねぇ?」

 少女はそう言って、龍二の頬に片手を添える。

 優しい、まるで恋人が愛撫するような手つきで、龍二の瞼を親指で撫でる。

 その親指に力を込めば、容易く龍二の眼球を押し潰せるだろう。

 命までは取らなくても、それくらいならしてもおかしくはない。

 今の少女は、それほどまでに危うい空気を全身に纏っていた。

「どうせすぐ忘れるわ。自分のせいで死んだ女の子がいるなんて」

「やめてくれ……頼むよ。そんな事しても意味なんてないだろ? 言ってたじゃないか、誰も殺した事がないって。それでいいんだよ。人を殺すなんて、絶対にしちゃいけない事なんだから」

「ありきたりで、つまらないわね」

「ありきたりで何が悪いのさ? どう考えたって、そうに決まってる。でしょ?」

「普通なら、ね」

 ふと、少女が穏やかな笑みを浮かべる。

 屈んでいた上体を起こし、銃口も下げる。

 説得が通じたのだと龍二は思い、安堵する。

 が、次の瞬間、少女が腕を振り抜いた。

 拳銃のグリップでこめかみを痛打された龍二は、椅子ごと吹き飛ばされる。

「龍二!」

 くのりの叫ぶ声が、辛うじて龍二の意識を繋ぎ止めた。

 床に転ばされたせいで、くのりの姿も少女の姿も見えない。

「く……のり……」

「龍二、龍二! しっかりして!」

 龍二の名を叫ぶくのりの声が揺れていた。

 くのりは必死にもがき、龍二の側に向かう。

 その眼前に、少女の足が割って入った。

 行く手を阻まれたくのりは、少女をねめつける。

 決して逆らってはいけない相手を前に、僅かな怯えもない。

「あんた……」

 感情の昂りに任せた無謀な視線を、少女は見下ろす。

「今回の依頼を引き受けた時点で、もう引き返せなくなってるの」

 それは誰に聞かせるでもない、少女の独り言のようだった。

「後戻りはできないのよねぇ……こっちはさぁ」

 ゆらりと銃口が動き、くのりを捉える。

「さすがにもう、正体は知られてるだろうし……今後のためにも、箔をつけておいてもいいかなって考えてたのよ、うん」

 少女の指がトリガーに掛かるのを見たくのりは、ただ息を呑む。

 ナイフや包丁の方が、まだ恐怖を感じられただろう。

 銃で撃たれる痛みなど、想像もできない。

 だからこそ、恐怖の実感がないのだ。

 くのりが感じられるのは、どこまでも理不尽な少女の言動に対する怒りだ。

「くっ、や、やめろ! 本当にやめてくれ!」

 ガタガタと椅子を鳴らして龍二はもがく。

 拘束されている腕が擦り剝け、血が染み出すが構わない。

 なんとしてでも今動かなければいけないと、全身で理解していた。

「今ならやれる。私、人を殺せる……えぇ、殺せるわ」

「くそっ、ダメだ! やめてくれ! 頼むからくのりには何もしないで! あぁくそ、ダメだっ、そんなのダメだ!」

 虚しく響く龍二の賢明な叫び声に、少女は嗤う。

「人も殺せないエージェントなんて、求められていないんだから」

 少女はそう吐き捨て、トリガーに掛けた指に力を込める。

 くのりはギュッと目を閉じ、顔を伏せた。

「やめろ……やめろっ! くのりっ……くそっ……やめろーっ!」

 床に顔を擦りつけながら、龍二が悲痛な声で叫ぶ。

 ――そして、大きな音が、寂れた部屋に響いた。

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