第四章 大豆生田
第十三話
「ジェニファー、紹介するよ。こちらが我が研究所の若きホープ、日本の遺伝学会を背負って立つ男、大豆生田司君だ」
「はじめまして、ツカサ。ジェニファー・グリーンよ、よろしく」
そう言って彼女は私の前に右手を出してきた。一瞬、私はその手を握り返すのを躊躇った。それほどに、彼女は美しかった。
色白の肌に豊かに波打つナチュラルブロンドの髪が眩しく輝く彼女は、美の女神アフロディーテの化身のようだった。
それまで「一目惚れ」に対して否定的な考えしか持ち合わせていなかった私が、それを一撃で翻すことになろうとは思いもよらなかった。
彼女は小豆澤博士――のちに国立遺伝学研究所の所長となる――と同い年で四十二歳だった。それを考えると私の好みは所謂『熟女』ということになりそうだが、確かに若い女の子には全く興味を持てなかったので、あながち間違いでもないようだ。
それまで一度も女性を恋愛対象として見たことの無かった私が、その日を境に寝ても覚めても彼女のことばかり考えるようになってしまったのだ。恋は盲目とはよく言ったものだと思う。
私は二十六歳というあまりにも遅すぎるタイミングで初恋をしてしまった。それも十六歳も年上の女性に対して。
もちろん人並みに性欲はあった。だがそれは体の本能的な欲求であり、恋愛とは全く無関係だった。
そしてこの初恋が最後の恋になることを予測できたのは、恐らく神だけだったに違いない。
彼女とは毎日研究所で議論を交わした。出勤から帰宅までとにかくずっと行動を共にした。移動の時も食事の時も休憩時間もずっとずっと研究の話に花を咲かせた。
小豆澤博士は私たちの議論に「毎日よく飽きないねぇ」と笑っていたが、飽きる訳が無かった。当然だ、大好きな人と大好きな話題で日がな一日話し込めるのだから。これでお金を貰っているなんて、どれだけ贅沢なんだろうかと思ったほどだ。
彼女の提案はいつも斬新で、突拍子もなく、夢のようで、そしてそれは常に実現可能と思わせた。その証拠に彼女はそれを次々に実現していった。
彼女の専門はクローン栽培技術だった。私の方は遺伝子組み換え。お互いの得意分野を駆使して何かできないか、十六年の歳の差を超えて、私たちは共同開発に夢中になった。
初恋は尊敬になり、憧れに変わり、愛に変わった。私はジェニファーを愛し、彼女も私を愛してくれた。
家庭を持ちたいと思った。彼女と二人で作る家庭に思いを馳せることが増えた。キュリー夫妻のような夫婦になるのだろうか。そう考えるとなんだかおかしかった。
朝起きて、おはようのハグをして、コーヒーとトーストと目玉焼きの朝食をとる。彼女が「このsunny side upでクローンが作れたのに」と呟いて、私が「ウズラの遺伝子を掛け合わせてみようか」と言う。一つの卵からニワトリとウズラの黄身が出て来たら面白いのに、なんて話をしながらそれを食べる。
彼女は塩コショウ、私は醤油。もっと香りのいいコショウを、醤油に適した大豆を、トーストがもっちりした食感になる小麦を……食卓で交わされる遺伝子議論。
夜になればベッドの中でヒトの遺伝子について話し込む。
彼女は既に羊や牛を使って、オス個体の性染色体を操作してメス個体を作ることに成功している。この技術をヒトに利用すれば、人口問題も解決しそうだなどと言っては、「ダメダメ、法に触れちゃうよ」と言って笑う。
一般的な夫婦の夜の生活とはずいぶんかけ離れた時間になることは間違いなさそうだが、それはそれでかなり魅力的だ。
彼女は子供の産めない体だった。私は彼女に苦しい不妊治療をさせてまで子供が欲しいとは思わなかった。何より彼女に笑顔でいて欲しかった。
それならいっそ、二人で目一杯研究に没頭するのも悪くない。誰にも邪魔されず、心おきなく好きな時に好きなだけ研究できるのだ。それこそ文字通り『朝から晩まで』だ。考えただけでぞくぞくするような生活が約束されている。
私は彼女の誕生日にプロポーズした。四十三歳になった彼女はとても驚いて、「もっと若いお嬢さんがいくらでもいるでしょう?」と言った。もちろん若いお嬢さんなど山ほどいる。だが私が好きになったのは他でもない、四十三歳のジェニファーなのだ。彼女以外には結婚など考えられなかった。彼女と結婚できないなら、このまま独身でいた方がずっといい。
そう伝えると、彼女は何故か大笑いして「素敵だわ、結婚しましょう!」と言ってくれた。「一生あなただけを愛するわ」とも。
私は喜びの余り、当時よく連絡を取り合っていたバカという名のミュージシャンに報告した。彼は一年前、仕事でキンシャサに行ったときに出会ったザイール出身の男で、最初のネグロイド遺伝子の提供者だった。
彼は自分のことのように喜んでくれて、次回日本に来るときには研究所を訪れ、二人の為にサカタ族の結婚式の時に歌われる歌を披露すると約束してくれた。
彼女との結婚生活は、夢のように楽しいものになる筈だった。だが、その生活は実現しなかった。翌日、彼女は出勤途中にハンドル操作を誤って、崖下の川に車ごと転落したのだ。
即死だった。誰にも助けようがなかった。
ショックだった。
いや、そんな安っぽい言葉で表現できるようなものではなかった。私の脳は働くことを拒否し、完全な思考停止状態に入ることで自分の精神を死守した。
そんな中、バカから連絡があった。日本に来るという。私たちのために早速日程を調整してくれたのだろう。彼の心遣いに満ちたお祝いムードのメールに対し、ジェニファーの死を報告しなければならないのは地獄の苦しみだった。
なんとか必死にバカに返信をしたその日の晩に、彼から再び連絡があった。厳密に言えば『返信元アドレスはバカのものだった』というべきだろう。実際に文面を打ったのは、バカと一緒に仕事をしていたンガルラというミュージシャンだった。
ンガルラはジェニファーへのお悔やみの挨拶と共に、自分の相棒の訃報を知らせて来た。
バカは私がジェニファーの死を伝えた後、心臓発作で亡くなったのだ。
私が一体何をした? 遺伝子の組み換えやクローンの作成が、神の領域を犯したとして怒りを買ったのか?
科学は神との戦いだ。神から人間が自立するために科学がある。
ビッグバンがあり、宇宙の晴れ上がりがあり、核融合の後、たくさんの星が誕生する。有機物が発生し、生き物が誕生する。これらは全て神の天地創造に挑戦する理論であり、進化論すらも「神が人を造った」とするものに真正面から対抗するものだろう。
科学が神の怒りを買うならば、私はこの先死ぬまで神の怒りを買い続けよう。倫理などクソくらえだ。
私は科学の力を以ってジェニファーとバカを創り出してやる。
私は神に宣戦布告した。
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