第十二話
沙耶にとって、警察の発表は目を疑うものだった。
ムワイ・ンゲンギ――二十三歳。ケニア出身の生物学者。ナイロビ大学、生物科学部卒、この春から国立生物遺伝学研究所の研究員として在籍。専門は遺伝子工学。
研究に煮詰まり、気分転換のために外出したまま戻らなかったため、同研究所スタッフで探していたが、夕方になって遺体で発見された。この辺りの土地に明るくなく、山道で迷ったまま遭難したものと見られる。
一体誰のことを言っているのか、理解できるまで数分を要した。ムワイ・ンゲンギ氏の笑顔がアップになって、やっと沙耶は一連の報道を理解した。
ニグだった。紛れもなく、四年前にあった時の面影をそのまま残していた。既に顔つきは大人になっており、十三歳にも関わらず二十三歳と言っても違和感が無かった。
ムワイ・ンゲンギ? 誰? 生物学者? ナイロビ大学卒? 研究員?
出鱈目ばかりで沙耶には笑いさえ出た。ニグはあの建物から一度だって出たことが無いのに。
気分転換に外出して遭難だって。この雪の中、上着も羽織らずに外出するわけがないじゃない。
この辺りの土地に明るくないって、冗談辞めてよ、あの研究所はスキー場の跡地で国道の一番末端の行き止まりなんだよ、迷えるわけがないじゃない。人が住んでいる集落まで一本道で約五キロ、きっと集落まで出たところで力尽きて誰かに見つけられたんだ。
――あたしが中学生だからって騙せるとでも思っているの? お父さんもグルなの?
ニグのことを隠す必要がどこにあるの? 何故彼の経歴を偽装するの?
人々に知られてはいけない秘密があるというの?
疑問に思ったのは沙耶だけではなかった。第一報では確かに身元不明のアフリカ系黒人男性が「上着も羽織らず部屋着のような恰好で」凍死していたと報じられていたはずだ。
それをこの近くの住民が「はいそうですか」と納得するわけがない。
ここ越後湯沢は日本有数の豪雪地区、たくさんのスキー場がひしめき合う事で知られている。
中でもこの研究所は、比較的開けている新幹線の越後湯沢駅の近くとは異なり、ずっと奥に入った苗場スキー場の集落の方だ。さらに言えば、人の住んでいる苗場の辺りから更に更に奥に入って、用が無ければ誰も来ないような国道の終点、三国スキー場の跡地に建設されている。
この辺りの人が真冬の二月上旬に部屋着で外に出るなど、徘徊癖のある認知症の老人でもない限りありえない。
研究所職員でさえも、社員寮のある苗場の辺りから出ているシャトルバスを使うか自分の車で通勤するのが常であり、吹雪の中徒歩で五キロも歩こうという強者など聞いたこともない。
当然のように地元民から疑問の声が上がり、事件性を疑う流れになる。
マスコミはこぞって第一発見者に取材を申し込んだ。お上は警察や病院に対して箝口令を敷いたが、ニグの発見者に関しては『見つけたときには死亡していた』ことから特に問題視していなかったのだ。
それが間違いだった。
『見つけた時には死亡していた』のは救急隊員の証言であり、発見者がニグを見つけた時にはまだ息があったのだ。
マスコミからの質問に対し、彼はとんでもないことをカメラに向かって言ってしまったのである。
「救急車が来るまで何とか持ちこたえて貰わんばと思ってねぇ。『おめさんどっから来なしたね』ってねぇ。こんが黒い人が日本語わかんだろっかと思ったけどねぇ、ちゃんと通じたねぇ。『博士んとこから来た』ってねぇ」
「名前は仰ってましたか?」
「なんだったかのう、ネグだかヌグだか、そんが名前だったねぇ」
「ムワイ・ンゲンギさんではなく?」
「そんが豪儀な名前じゃねえて、もっと簡単な名前だったがんね」
ネグ。恐らくニグを聞き違えたのだろう。間違ってもムワイ・ンゲンギなんて名前じゃないと、その老人は言った。
そして『博士のところ』とは研究所のことだ。だがニグなら研究員じゃない。
そしてその老人の証言にもう一つ興味深いものがあった。『ネグ』は信じがたいほど毛深く、首や手の甲にも動物のようにわさわさと短い毛が生えていたというのだ。
手の甲なら毛深い人なら毛も生えよう、だが首はどう説明する?
沙耶の知っているニグはまだ背も小さく、さほど毛深くもなかった。だが、この四年間で第二次性徴が発現し、それによって身長がグッと伸びて体毛が生えても全く不思議ではない。
SNS上では、「国立遺伝学研究所が、遺伝子組み換えによって未知の生物を創り出そうとしている」と騒ぎ立てる人が出始め、研究所のコメント待ちのような状況に追い込まれていた。
その前に、沙耶はどうしても父の口から説明して欲しかった。あの時父が口走った「彼らが及ぼすであろう危険から、外部の人達を守らなければならない」の意味を。
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