第48話 海の京 四

 六蓬子りくほうし甲兆きっちょうは、美しく聡明な若亀の潮守だった。

 長の紋様を持って生まれた甲兆は、幼い時から水緒ノ杜に仕えていた。

 その流力は当時の長をもしのぎ、賢さではみやこで右に出るものの無かったほどだという。

 日々を杜の仕え事にいそしみ、朋友と切磋琢磨していた甲兆はある日、己の一生を変える出会いを果たす。


「甲兆よわい十の頃。 同い年の学友に先んじて、彼の者はたつの君に目通りを果たしたのだ」


 数千年の眠りにつく、不起の媛君。

 幼い甲兆は、その姿に一瞬で目を奪われた。

 なんと美しく、哀しい御姿であろうか。

 気高く慈しみ深い甲兆の心は、その時から憐れな媛君に捕らわれ離れられなくなってしまった。


「その日からよ。 それまで多くの水緒ノ杜の学者が果たせなかった辰の君の治癒に、甲兆が挑みだしたのは」


 甲兆はありとあらゆる文献・学説を読み漁り、媛君を長きにわたる苦痛から救うための調査と研究に明け暮れた。

 それは長い年月を要した。

 そうして甲兆が壮年に差し掛かる頃、彼は一つの噂を耳にする。

 豊芦原中とよあしはらのなかくに

 その地の海を臨む社に、神位をたまわった元野卑の猿が生まれたと。


「それが、」

「ウチの神社の、神使さん」


 瑚亡は頷き、そしてと続ける。

 噂はそれだけではなかった。

 もと野卑の猿が神位を賜るなどひどく稀な事。

 その上、その猿は生まれ自体が変わっており、体には稀有な妙薬を宿していると。


「(生まれが変わってる? まだ何か、神使さんの知らんことがあるん……?)」


 疑問を抱く直をよそに、話は進む。

 昔、まだ残っていた陸との消息筋からもたらされた話に、甲兆は飛びついた。

 稀有な妙薬とは、神すら癒す、奇跡の薬。

 そしてそれは、新たに生まれた神猿の生きた肝――――『猿の生き胆』であった。


「長らく研究に明け暮れ、あらゆる手立てを失していた甲兆は、わらにもすがる想いで海を出た。 くだんの神猿はすぐに見つかった。 見つけた猿は、陽光に雄々しくきらめく白毛に、紫に澄んだ目をした、それはそれは見事な大猿だったという」


 相手は元野卑とはいえ、神位の猿。

 肝を奪うとなればそれを殺さねばならぬ。

 それは神殺しにも等しい忌事であった。


「けれども辰の君の治癒に囚われていた甲兆は、恐れ多くも神猿殿に戦いを挑んだ」


 甲兆は流力を用い、猿の神使を捕まえようとした。

 しかし、争ったの陸の上。

 場の利を得た神使に、甲兆は敗れてしまった。

 神使は甲兆に問うた。

 『なぜ、己を襲ったのか』と。

 本懐を遂げられなかった甲兆は、大粒の涙を流しながら訳を話した。

 陸に裏切られ、病に倒れた辰の君。

 それを癒さんとする己の目的。

 万能だという肝を求めた事。

 全てを静かに聞いていた神使は、しばし腕を組んで黙していた。

 そうして己の仕える社の神に伺いを立てると、甲兆に向かってこう言った。


『そなたの目的、海に眠られる媛君の事。 全て承知した。 だが、この身はすでにこの山の神に捧げたもの。 肝をくれてやることはできぬ』


 だが、自分も媛君のことは気の毒に思うと言い、神猿は提言した。

 肝をやることはできないが、自分の知る方法で媛のけがれを払う手助けはしよう、と。


「それが、今に繋がるわけですか」


 直の呟きに、瑚亡も「うむ」と小さく応える。


「そうしてまた数百年、話は現在に至る――――わしの知っている話はこれだけだ。 以来、水緒ノ杜は媛様のご回復を宿願としておる。 それも、代々長の位に近い者だけに伝えられる話だがのう」


 話し疲れたのか、瑚亡はやれやれと床に組んだ腕の上に顎を乗せた。


「……ありがとうございます、浪師せんせい。 この話、聞けて良かった」


 八景は、すっきりとした様子で、師に頭を下げる。

 それに瑚亡は鷹揚に頷いた。


「役に立ちそうか」

「はい。 知らずにいるよりは、ずっといい」

「では、戻るか。 娘さんもはよう帰りたかろう」

「は…………」


 出立を促され、八景は一瞬言葉に詰まった。

 その間を読んだ直は、横を見て訊ねる。


「どした? なんかまだ、心残りある?」


 折角来ているのだから、好きにしろ。

 そう暗に含めて言うと、八景はばつが悪げな顔つきをして口籠る。


「何? ええよ、ウチは待っとくし」

「…………実は、嶋と研究の話をしていて、こちらで確認したいことがあるんだ。 完全に私用なんだが、」

「ああ…… 無茶苦茶時間かかる?」

「いや、そんなには、」

「じゃあ待つよ。 気になるんやろ」


 ほら、行ってきない。

 間誤付まごつく八景の背を押し、瑚亡にいいですかと問う。

 休息をとる師は嬉しそうに勿論と首を振って、弟子に一帯の(帰京を催促してきた紙のようなモノと同様な板の)山を目で示した。

 気を使うくらいなら、早く取り掛かってくれたほうがいい。

 そう言うと、八景は切り替えたのか、ガサゴソと紙の山をあさりだした。



 さて、これは外で待っていた方がいいだろうか。

 直が辺りを見回して思案していると、休んでいた瑚亡が「娘さん、娘さん」とコソコソと近寄って来た。


「はい」

「急に失敬かもしれんが、娘さんは今、八景と離れれんのだろう? この半月ほど、八景と過ごしてどうじゃった?」


 どうとは、と首を傾げると、瑚亡はしんみりとしたように弟子の後姿を見る。


「あれはあの性格だ。 一緒に陸に上がっという幼馴染の二人の他に年頃の友もつくらず、仕事と書を読みふけることににばかり打ち込んどる。 海を守ろうという思いの強さ故だというのは分かってはいるが、わしはどうもそれが気がかりでの。 娘さんのような年の近い相手と打ち解けてやっていけとるのかと、心配なんじゃよ」

「それは……」


 八景を案ずる瑚亡の言葉に、直は一瞬口籠った。

 瑚亡の心配する通り、二人のは決して、すんなりと打ち解けたわけではない。

 喧嘩ばかりしていたこともあるし、敵意を持っていた時期もあった。

 けれど。


「そうですね…… 最初は、流石に仲よくとはいきませんでした。 経緯が経緯ですし。 私も、あいつを敵みたいに思ったりしてましたし」


 でも、そればかりではない。

 満月の夜、背中を押された言葉たちを思い返す。

 尋巳へ想いの丈をぶつけるのに、ついてきてくれたことも。


「でも………… でも、強情っぱりで、文句も多い奴ですけど、人の事、ちゃんと見てて気にしてくれたり…… ええとこもあるんですよ、アイツ」


 だから、今はもう、上手くやって行けている。

 少なくとも直自身はそう思っている。

 そう、頬をかきながら答えた。

 するとそれを聞いた瑚亡は満足げに頷き、八景に聞こえないよう、声を低めた。


「学問なら、京でもできる。 じゃが八景は海を守るため、そのために自分にできることをと自ら考え、より学びたいと願っておった。 こんな辺境の老いぼれの元を訪ねるまでにな。 あれは優しい子なんじゃ。 …………この歳になって、あんに出来た弟子を持つとは思わなんだよ」


 あれは自慢の子だ。

 硬い殻をまとった老年の潮守は、慈しむように柔らかく目元を緩めた。

 その笑みにつられ、直もひっそりと口元が緩む。

 紙の山に埋もれ、一心に学ぼうとする若い潮守の姿を、年の離れた二人は静かに見守るのだった。




***




 岩屋の前で見送ってくれる瑚亡に手を振り、二人は戻るために岩の高くなっているところに登った。

 勿論、戻った時に目立たないよう、人の姿になってから。


「悪かったな、随分待たせた」

「待てんほどではなかったし、気にせんでええって」


 手を振って答えると、青年は「そうか」と巻貝の笛を懐から取り出した。

 その横顔をちらりと見て、直はにやりと笑う。


「……なんだ」

「いや? なんか、納得しただけ」

「何に?」

「なんでアンタが陸の人間を毛嫌いしてたんか。 なんで、あんに海を汚されて怒っとったんかゆうことに」


 閉口した八景は、一拍して「…………浪師だな」と、後ろをにらむ。

 それにくくと笑い、直は困ったように眉を下げた。


「ごめんな」


 人が、海を大切にしない生き物で。

 静かにびる言葉に、八景はいやと、首を振る。


「謝るな。 謝罪を求めるような事じゃなかった。 俺も一方的に敵視して…… 料簡りょうけんが狭かったんだ」


 嶋と話をして、海を守ろうと考える陸者もいると知ることが出来たから。

 今は、責める気持ちはいでいると、八景は真摯な声で言った。

 息を吹き込んだ笛から、高い音が海を震わせる。

 近づいてくる海ほたるを見つめる横顔に、目が引き寄せられる。

 なんとなく手を伸ばしたいのをこらえて、直は心から嬉しげに言った。


「うん、じゃあ、ありがと」

「?」

「守ろうとしてくれてること」

「!」


 嶋が言っていた。 


『海自体は誰のものでもないよ。 だから、美しく保つ義務なんてものもない』


 誰のものでもないものを、それでも大切にしようとしてくれていること。 

 それを、ありがとう。



 青い光がどこからともなく巻きあがる。

 まぶしい光に、八景の表情は分からない。

 でもそれは向こうも同じだと思うと、我慢せずほほを緩めることができた。

 

 そして、二人をさら奔流ほんりゅう




***




 ぷはぁ!


 浮かび上がって、頭を振るう。

 海面を抜けると、辺りは赤い夕日に染まっていた。

 見渡せばそこは、行きと同じ家の前の海岸だった。


「あー 帰って来たぁ………… うえ、耳に水入った」


 こぽこぽと頭の中で揺れる水を叩き出しながら、砂浜ヘ上がる。

 濡れそぼって張り付く服を絞りながら、家の方を見遣った。

 夕方ということは、夕飯前の練習がある。

 すぐ戻って服を着替え、髪を乾かせば――――なんとか間に合うだろうか?


「…………間に合うかなぁ」


 つい零れた独り言に、「そう案ずることもないだろう」と、後ろから答えがある。

 振り向くと、海水をかき分けながら、八景が近づいてきた。


「傍目に見ていても、日一日、進歩しているのは明白だ。 だから…… だから今は、余計な心配などせず、舞に打ち込め」


 直の言葉を、舞の弱音と受け取ったのだろう。

 濡れた髪をかき上げた八景は、ふんぞり返って直を見る。


「大丈夫だ。 なんとかやり切れ」


 妙に上からの激励に、直はぱちりと目を瞬かせた。

 それからじわじわと込み上げるものに押され、にっと片頬を歪めて、


「どーも」


 赤く染まる景色の中、挑戦的に八景を見上げるのだった。

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