episode17 ふたりでキャラメリゼを割った夜のこと

第33話

 その眼差しと向き合ったとき、果澄の頭から血の気が引いた。

「果澄が、そんなことを言うなんて思わなかった」

 翠子は、淡々と言った。目つきだけでなく声音も、第一声と同様に冷えている。――果澄は、達也たつやの件があったのに。そう暗に責められているのだと、すぐに分かった。間接的な言葉を用いて、他者を糾弾きゅうだんする翠子を、果澄は初めて見たと思う。敵意さえ感じるえた目が、紛れもなく自分を映している現実が、心に重くのし掛かった。

 ――翠子の言い分は、もっともだ。一度は愛した相手に裏切られる悲しみなら、誰よりも果澄が知っている。それなのに、自分の立場なら受け入れられないかもしれないことを、友達には面と向かって要求している果澄は、我ながら最悪だと思う。返す言葉などなかったが、ここで折れるわけにはいかなかった。

「ごめん。ひどいことを言ってるって、分かってる。でも、私は」

「どうして、急にそんなことを言うの?」

 翠子は、皆まで喋らせてくれなかった。デザート用のスプーンを握りしめる手は、力がこもって白くなっている。

「二人で故郷に帰省きせいしてから、東京に戻ってきたばっかりで、まだ日にちが全然たってない。喫茶店のヘルプ要員をなかなか見つけられなくて、果澄を不安にさせてるのは、あたしの落ち度だよ。本当に、ごめん。でも、どうしてあの人なの? 他の選択肢を探す時間を、どうしてあたしにくれないの?」

 矢継ぎ早に放たれた言葉には、先ほどよりも明確な怒気がこもっている。想定よりも遙かに強い拒絶が返ってきたことに、果澄は動揺を深めてから、徐々に悟った。駅前のカフェを出たときに、小海から聞かされていた言葉が、脳裏をさっと過っていく。

 ――『こんな当たり前のことに気づけなかった僕に、翠子は失望しているんでしょうね。僕との間に一線を引いて、自分の側に入れないようにしている……』

 もしかしたら果澄は、どこかで翠子の寛容かんようさに甘えていたのかもしれない。果澄が知る友人は、奔放ほんぽうに見えて温厚で、小海清貴きよたかについて語るときも、声のトーンが今まで穏やかだったから。そんな印象を言い訳にして、己の発言が広げる波紋はもんの大きさを、どこかで軽く見積もっていた。ラインの外側に一度は締め出した人間を、他人の指図を受けて内側に呼び戻すということが、翠子にとってどれほど許し難いことなのか、まだまだ分かっていなかった。だが、思慮の浅さは悔やんでいても、翠子に提案したことは悔やんでいない。苦しさを押し殺した果澄は、返事をした。

「……店主の翠子は妊娠中で、一人だけの従業員の私は、最近やっと作れるフードメニューが増えただけで、まだお店に出せるコーヒーだってれられない。翠子にもしものことがあったら、お店を守れない。分かってるの。力不足だってこと。今日、お店を閉めたときに、今の私じゃ守れないって分かったの」

「力不足なんかじゃない! 果澄がいなかったら、お店を再開できなかった。あたしが、果澄を対等に扱ってないように見えた?」

「違う! 翠子が、私を対等に扱おうとしてくれたことは、分かってる。でも、まだ私に経験が足りてないのは、事実でしょ!」

 果澄は、翠子を睨みつけた。それから、少し涙ぐみそうになった目元を隠すように、視線をクレームブリュレに落としながら、訴える。

「今日みたいなことが、またあったら、どうするの……? 私を、甘やかさないでよ……その所為で、自分の首が締まることくらい、翠子なら分かってるでしょ!」

「分からないよ」

 鋭利えいりな声が、打てば響くように返ってくる。即座に切り返してきた翠子も、顔を上げた果澄を睨みつけていた。

「たとえ果澄がそう言っても、あたしが果澄にたくさん助けられてきたことだって、事実なんだから!」

 そう啖呵たんかを切ってから、翠子は「それに、果澄はまだ、あたしの質問に答えてくれてないよ」と言って、確かないきどおりがこもった双眸そうぼうを、じっと果澄に向け続けた。

「どうして、あの人なの? 清貴さんは、あたしの元旦那なんだよ? 離婚して、一緒にいることをやめた相手。そんな人と、また一緒に喫茶店の仕事をやれって言うの? そんなの、前代未聞だよ? あたしたちが一緒にいても平気って、果澄は本気で思ってるの? 平気じゃないから、別れたのに?」

 果澄は、言葉に詰まってしまった。翠子は、乾いた薄笑いを美貌にのせた。少しだけ怒りのトーンを鎮めた声で、話を滔々とうとうと続けている。

「あの人が、あたしと自分を比べてることは知ってたよ。でも、そのことについて、あの人は何も言わなかったし、あたしも何も言わなかった。あたしが話題にしたら、清貴さんはもっと気にして、みじめな思いをするんだろうなって、簡単に予想できたから。それでも、もしあたしが言ってたら、何かが変わってたのかなって、考えたこともあったけど、きっと破局までの時間が短くなるだけで、何も変わらなかっただろうなって、浮気が分かった日に思ったよ。そんなふうに気づいたら、すごく虚しくなって、涙も出なかった。だから、あたしから切り出したの。離婚しよっか、って。……これが、あたしが清貴さんを受け入れられない理由。それでも果澄は、まだあたしに、あの人を喫茶店のヘルプにって推薦する?」

 穏やかに問う翠子は、ここで果澄が折れると踏んでいるのだろう。果澄も、翠子の逆鱗げきりんに触れたことで、元々抱えていた罪悪感が、いっそう大きくなったのは確かだった。だが、それでも首肯して見せた。翠子は、眉をひそめた。空気が、再び張り詰める。

「どうして?」

「時間が、ないと思ったから」

「あたしの様子を見て、不安になったから? だから、身近な人間の中から、スキルを持ったピンチヒッターを選ぼうってわけ?」

「……そう思ったことは、否定しない。喫茶店の厨房に立てる料理人を、早く見つけなきゃって私が焦ったのは、本当のことだから。でも、それだけの理由で、翠子の離婚相手を頼ろうって考えたわけじゃない」

 翠子から注がれる冷えた視線を、果澄は真っ向から受け止めた。

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