第34話

「今日、翠子抜きで小海さんと話して、自分自身の物差しで、あの人を測って……信頼してもいいんじゃないかって、思ったの。小海さんのしたことは、絶対に肯定できないし、なかったことにもできないけど……それでも、小海さんが翠子を案じる気持ちも、『波打ち際』を手伝いたいって意思も、嘘じゃなくて本当だって、信じられたから。それに、小海さんは『波打ち際』のことも熟知じゅくちしてるから、喫茶店の味を任せられる腕も持ってるし……」

「それだけの理由で、清貴さんを推薦したの?」

 溜息を吐いた翠子は、クレームブリュレの表面を、スプーンでコツコツとつついている。キャラメリゼが硬いのか、なかなか表面が割れなかった。澄んだ音に威圧感を覚えたが、果澄は「それだけじゃない」と言い返して、かぶりを振った。

「小海さんは、翠子の身体のことだけじゃなくて、喫茶店の今後も心配してた。小海さんにとっても『波打ち際』は、これからも大切にしていきたい場所で、居心地のいい場所を作りたい、守っていきたいって、志も……私たちと、同じだったから」

 キャラメリゼを叩く音が、ぴたりと止まる。果澄は、言葉を懸命に継いでいった。

「翠子が、なかなかヘルプ要員を見つけられないのは、見通しが甘いからじゃなくて、ちゃんと『波打ち際』のことを考えてるからでしょ? お店の味をただ作れるだけの人じゃなくて、居心地のいい場所を一緒に作れる人を、慎重に選ぼうとしてるからでしょ? 小海さんは、その条件に当てはまる人だと思う。翠子だって、本当は、分かってるんでしょ……?」

「だから、あたしに我慢しろって言うんだ?」

 翠子が、失望の目で果澄を見た。――小海清貴きよたかに向けた表情と、笑い方が同じだ。勝手に引かれた線の外に、追い出されようとした瞬間に、湧き上がってきた感情は、怒りだった。だが、この激情が別の名前でも呼ばれることを、果澄はもう知っている。

 涼しい顔をしている翠子は、またスプーンでキャラメリゼを叩いている。そして「果澄も、食べたら……」と言いかけて、口を閉ざした。美貌から、諦念ていねんの笑みが消えていく。それから、あどけない子どものような顔で、ぽつりと言った。

「なんで、そんなに悲しそうな顔をするの?」

「分からないの? 心配だからよ! 翠子のことが!」

 ――パキン、と澄んだ音がした。驚きに目を見開く翠子の手元で、キャラメリゼがついに割れている。蜘蛛の巣状のひび割れを、翠子は一顧だにしていない。思いを言葉にした果澄だけを瞳に映して、やがて両目を苦しげに細めた。

「……ずるいよ。今のあたしは、どうしたって、また果澄に心配をかけるのに。いくら大丈夫って自己申告したって、嘘になる日が出てくることは、自分でも分かってる。だから、あたしのことが心配なんて言われたら、何にも反論できないじゃん」

 キャラメリゼをくだいたスプーンを、クレームブリュレの上に残したまま、翠子は腹に手を添えた。緩く波打つ茶髪が、俯く仕草に合わせて、肩から零れる。

「清貴さんが、また喫茶店に戻ってきたら……あたしたちが作ってきた『波打ち際』が、居心地のいい場所じゃなくなる」

 睫毛を伏せる翠子は、怒りと悲しさが入り混じった顔をしている。そんな顔をさせたのは、果澄だ。胸が苦しくなったが、それでも言いたいことが一つできた。

「翠子と小海さんの二人だったときは、そうだったとしても――今は、私がいる。二人じゃなくて、三人なら。私が、翠子と小海さんの間に入れば、これからも居心地のいい場所を、守っていける」

 翠子は、顔を上げた。不意を衝かれた目をしていたが、すぐに首を横に振って「果澄は、分かってないよ」と、苛烈かれつさを取り戻した口調で言い募る。

「仲が悪い他人同士の間に入るのって、想像してる以上に大変だよ。最初のうちは『それくらい大丈夫だから』って言った人でも、どんどん疲弊して、嫌になって、そのうち全員がギスギスして、みんな駄目になって、バラバラになっちゃう。そういう人たちを、あたしはたくさん見てきたよ。中学生の頃も、大人になってからも」

 こちらに身を乗り出した翠子の声が、小さくなる。苛烈な口調も、刹那せつな薄らいだ。

「他の誰かと、そんなふうになったって、あたしは平気だった。これからも、平気だと思う。でも……あたしは、果澄とは、そんなふうにはなりたくない……」

 胸を打たれた果澄は、言葉を詰まらせる。一度は心を許した人のことを、見えない線の外側に追い出す行為が、何の痛みもともなわないわけがなかった。そんな線の内側に、翠子が果澄を立たせてくれている思いの深さを感じながら、やはり腹が立ってきた。その程度のことを疑う翠子も、翠子を不安にさせた自分も、腹立たしくて仕方なかった。

「……他の人がどうかなんて、私は知らない。どうでもいい。翠子が、十三年たっても忘れられなかった乙井果澄は、その程度で潰れるような人間なの?」

 翠子の目が、明らかな動揺で揺らいだ。前のめりになった果澄は、さらに畳みかけた。

「私がどれだけ頑固なのか、翠子なら知ってるでしょ? 私が、翠子と小海さんの間に入るくらいのことで、本当に私が変わると思ってるの? 絶対に、変わるわけがないじゃない! 私のことを、見くびらないでよ!」

「果澄、言ってることがめちゃくちゃだよ……」

 頭を左右に振った翠子の声が、普段のトーンに近づいていく。少しだけ憮然ぶぜんとした果澄が「本気で言ってるんだけど」と続けると、翠子が肩を震わせた。果澄が鮎川あゆかわ家にキッシュを届けた夏のように、笑っているのだ。だが、あの頃の晴れやかさには遠く及ばず、美貌からはまだうれいが消えていない。

「……そうだね。果澄が、いてくれるなら……誰も、駄目にならずに済むのかもね。居心地のいい場所を、これからも守っていけるかもしれないよね。それが実現したら、清々しくて最高の眺めを、厨房から見渡せるんだろうな。……でも、それでも……あたしには抵抗がある、って言ったら……?」

 翠子の声も、微かに震えた。頭上に吊るされたペンダントライトの光が、剥き出しになった不安と悲しみを、明々と照らし出している。

「何かを決断することって、わくわくすることもあるけど、怖いことでもある……って、こないだ故郷で話したよね。あたしが拒絶した清貴さんが、あたしの居場所に戻ってきたら……あたしは、やっぱり傷つくと思う。清貴さんが心を入れ替えても、あたしとお店のことを大事にしたいって気持ちが本当でも、それでもやっぱり傷つくと思う。ねえ、果澄。あたし、怖いよ。どうしたら、怖くなくなるのかなぁ……?」

 最後は幼子のような泣き笑いで、無垢むくな問いかけを投げかける翠子の姿が、ぼんやりと滲んで見えづらい。果澄は、唇をぎゅっと引き結んで、両目から熱が零れないようにこらえた。そして、果澄なりに出した答えを、迷いなく伝えた。

「もし小海さんが、翠子を泣かせたら。そのときは……」

「そのときは?」

「私が、小海さんを殴るから」

 翠子は、呆気に取られた顔をした。「殴る……?」と復唱する声音には、怒りと悲しみの影はない。今にも『そんなこと、できるわけがない』という台詞せりふが飛び出してきそうな目つきだったが、果澄はすでに成し遂げてしまっていることを、すぐに思い出したに違いない。十三年前から大嫌いだった同級生と、偶然の再会を果たした運命の日に、達也たつやを全力で殴り飛ばした瞬間のことが、フラッシュバックでもしたのだろうか。ややあって「あははっ」と明るい笑い声が弾けた。

「そうだよね。果澄なら、できるよね。だって果澄は、嘘なんてつけなくて……ずっと、本当の態度で、あたしに接してたんだから……」

 可笑しそうに肩を揺らした翠子の声に、やがて嗚咽おえつが混じり始める。最初は不思議そうに、次第に安らいだ顔で、頬を伝う涙を指で拭う友達は、まるで夫に別れを切り出したときに泣けなかった分を取り返すように、両手で顔をおおってしまった。

「翠子……」

 席を立った果澄は、翠子の元へ近づいた。震える肩に手を添えようとすると、身体に体温がぶつかってくる。泣き濡れた顔を隠していた両手が、気づけば果澄の背中に回っていた。押し当てられた腹の膨らみから、たった一人で命を抱えてきた重みを感じた。達也と正式に別れた日に、クリームソーダあんみつ風を食べたときと、立場が逆になったようだと感じてから、すぐに違うと思い直した。あのときの翠子は、笑顔で果澄に寄り添ってくれたのに――果澄は、同じようにはできそうになかった。

「ごめん……翠子、ごめんね……」

 一緒になってしゃくりあげながら謝ると、翠子は「謝らないで」と言いながら、果澄にしがみついてくる。憑き物が落ちたように穏やかになった声は、涙の所為で少しこもって聞こえても、普段の張りが戻っているように感じられた。

「謝らないでね。果澄のおかげで、思い出せたんだから」

「何を……?」

「あたしたちは、無敵だってこと」

「……うん。そうだったよね」

「あたしが、また忘れそうになったら……果澄が、思い出させてくれる?」

「そんなの、当たり前でしょ」

 わだかまりごと叩き割ったようなキャラメリゼが、照明をキラキラと反射して、くもった視界の中で万華鏡のように光っている。ゆらゆらと泳ぐ輝きが眩しくて、これ以上目を開けていられなかったから、前屈みになった果澄も、翠子を抱きしめ返して、目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る