第32話

 ごはん茶碗に置きかけていた木のさじが、手からすり抜けそうになる。とっさに声が出ない果澄に、翠子は明るい態度を崩さないまま、「寝てるときに、なんとなくインターホンが鳴った気がして、あとで履歴を見たんだ」と言って、眉を下げた。

「果澄が、対応してくれたんだよね。ごめんね、事前に話してなかったから、驚いたでしょ。元旦那、あたしとまた話したくて、ここに来るって言ってたんだ」

「……うん」

 木の匙を置いた果澄は、頷いた。小海こうみという翠子の元夫が関わることで、翠子に隠し事はしたくない。だが、果澄がこれから話そうとしている内容は、翠子を確実に傷つける。少し前までは、大嫌いと伝えたかった相手なのに、再会して、一緒に働いて、いつしか傷ついてほしくない相手になるなんて――本当に、遠い所へ来てしまったと思う。

「元旦那……清貴きよたかさんに、情が湧いた?」

 不意打ちの言葉に、びっくりした。翠子は、何でもない様子で笑いかけてくる。

「そうなっちゃうかなって、実は思ってたんだよね。果澄は優しいし、だからって他人を色眼鏡で見ないから。清貴さんがカツサンドを持ってうちに来た日から、果澄もなんとなく分かってたんじゃない? 清貴さんって、確かにあたしを裏切ったけど、子どもに会わせられないような悪人じゃないから。この子が生まれたら、たまには会わせてもいいって思ってるよ。この子が父親と暮らせないのは、あたしの選択の所為だしね」

「翠子……」

 翠子が小海を突き放さないのは、人柄が理由だと思っていた。だが、それだけではなかったのだ。離婚が成立しても、小海とは子どもを通じて繋がりが残る。だから、どこか物悲しくも綺麗な笑みに、達観たっかんが薄く溶けていたのだろうか。

「お店のことも、果澄に負担を掛けないように、お客様にも迷惑を掛けないように、もっと考えていくから。ヘルプ要員が見つかるまでは、今まで通りの二人体制で、一緒に頑張ってくれる?」

 翠子は、いつもと変わらない笑顔で、果澄の返事を待っている。ここでイエスということは、簡単だ。今の果澄は、喫茶店の仕事が大切で、翠子の力になりたいと思っている。ノーと伝える理由になり得た十三年前の感情は、もう胸の内には残っていない。だが、それでも、果澄には、簡単にはイエスと言えない理由ができてしまった。

 ――『果澄は、誰かと本音でぶつかり合う力を持ってる、無敵の主役だよ』

 果澄が、本当に『無敵の主役』なら、目の前の友達に、何ができる? ――答えなら、帰り道で出している。躊躇ためらいを断ち切った果澄は、口を開いた。

「……翠子。さっき出掛けたときのお土産で、冷蔵庫にクレームブリュレがあるんだけど、その話の続きは、よかったら食べながらにしない? もちろん、翠子がまだ食べられそうなら、だけど……」

「本当? 嬉しい、食べる!」

 今から大切な話が始まることを、翠子は察しているのだろうか。声音ははなやいでいるものの、サプライズのデザートに驚いているようではなかった。席を立った果澄は、キッチンの冷蔵庫からケーキボックスを取り出すと、お盆にクレームブリュレとスプーンを載せて、翠子の元に戻った。

 翠子は、「ありがとう、果澄……」と言ったところで、目を見開く。思い出のカフェの土産だと気づいたのだ。果澄は、翠子の対面に座り直してから、口火を切った。

「私、翠子が寝てる間に、小海さんと話してきたの。場所を変えて、外のカフェで。このクレームブリュレも、小海さんが持たせてくれたお土産。……すぐに言えなくて、ごめん。食べたくなかったら、下げるから」

「ううん。そういうのは気にしないから、遠慮なくいただくよ。でも……そっか。あの人、お土産は果澄からってことにして、なんて言ったんじゃない?」

「どうして分かったの? それは、私が断ったけど……」

「やっぱり。器用なんだか、不器用なんだか。どっちにも振り切れてない人なんだよね。たぶん清貴さんも、果澄に断られることを、予想してたんじゃないかな。人のことをよく見る目を、ちゃんと持ってる人だから。妻だったあたしのことは、直視してくれなかったみたいだけどね」

 翠子は、遠い眼差しで苦笑している。小海が翠子のことを分かっているように、翠子も小海のことを分かっているのだ。俯いた果澄に、翠子が心配そうに言った。

「果澄? もしかして、清貴さんと出掛けたことを気にしてるの? あたし、そんなの何とも思わないよ? あたしのために行ってくれたって、ちゃんと分かってるし」

「違うの。ううん、違わないかも……でも、そうじゃないの。私は、小海さんに、情が湧いたわけじゃない……でも、こないだ初めて会って、今日しっかり話して……頼ってもいいんじゃないかって、思ったの」

 翠子が、息を止めた気配がした。顔を上げた果澄は、確かな戸惑いで揺れた翠子の瞳を、真っ向から見つめる。そして、後戻りできない言葉を口にした。

「私は、小海さんを頼ってもいいんじゃないかって、思ってる。翠子が、出産の前後で『波打ち際』に立てない間の、ヘルプ要員として」

 とうとう、言ってしまった。勇気を使い果たした果澄は、ぎゅっと目をつむって、息を吐く。そして、目を開けたとき――笑みを消し去った翠子が、果澄をじっと見つめ返していた。閉ざされていた唇が、端的な答えを紡いでいく。

「それは、できないよ」

 耳朶じだを打った拒絶の言葉は、しくも故郷の『大衆食堂たまき』で、一人娘の依頼を断った母親と、同じ台詞せりふであると同時に――翠子を案じていた珠季たまきとは、似ても似つかないほどに、声音が冷たくとがっていた。

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