魔幻の紙縒り 9

大きなリュックサックが見える。

人の後ろ姿を覆い隠している。

歩いているのだろうか……、それは、ゆったりとしたリズムで上下に揺れていた。

一歩一歩が重たい。相当な重量があるのだろう。

このリュックを背負っているのは、華奢な女性だ。

バランスを欠いたこの光景には、いささか違和感がある。

灼熱の太陽が全身を照らす。


ここは海に隣接する防波堤の上である。4メートル程の幅があった。

この辺りは殺風景だが、夏の太陽がその寂しさを消していた。

そんな背景に、女性が一人、溶け込んでいた。

砂交じりのコンクリートの上を、一歩、また一歩と、歩を進めている。

見た目の年齢は30歳くらいだろうか……。体型はグラマーで肌は色白、それに、かなりの美人だ。茶色に落としたサラサラの長い髪が、辺りにジャスミンの香りを撒き散らしている。全身が躍動感に満ち溢れていた。

防波堤には、日本海の荒波が容赦なく打ち寄せていた。

大きな衝突音とともに白いしぶきが空中に砕け散っていく。

波の力強さとは裏腹に、風は穏やかに吹いていた。


「真夏の太陽は眩しいなあ。それに暑いよ。太陽は何十億歳?そんなに長生きなら、少しくらい衰えて手加減してよ。このままだと日焼けしちゃうよ。はあ。私、なんでこんな所を歩いているんだろう。歳のせいかしら、記憶が曖昧だわ。専業主婦は毎日に張りがないから、たまにはいいかな、こんな運動も……。ああ、お腹すいた。早く食べたいな。かき氷……。」


まるで、登山をしているかのような重い一歩だった。

海からの突風によって、バランスを失うこともある。

これだけの荷物を背負っているにもかかわらず、壊れた機械のように動きは止まらなかった。一歩一歩に、何か強い信念を感じる。

しばらく歩くと、まるで防波堤に傘をかけるかのように、陸地から海に向かって何かが張り出しているのが見えた。

それは七夕のイベントで使う大きな笹だった。


「ささのは、さあらさら……。」


オルガンの音とともに園児たちの力強い歌声が聞こえてきた。

防波堤に隣接する敷地の中に、開放感あふれる平屋建ての建物があった。

幼稚園だ。

その敷地内には園舎と園庭があった。

園舎は昔ながらの木造建築ではなく、最新の耐震技術が施されたモダンな造りだった。瓦屋根を使うなど、和の趣を取り入れているが、全体的には未来をイメージした斬新なデザインになっていた。

その園舎から見て北側に園庭があり、さらに、その北側に防波堤があった。

園庭は、隣接する防波堤以外の場所には高さ2メートルのフェンスがあり、他の土地と区切られていた。広さはテニスコート1個分くらいだろうか?遊具は園舎の前に鉄棒があるだけだった。

園舎の南側が、この幼稚園の玄関になっていた。狭い道路に面していた。

その道路沿いには、昔ながらの古い民家が軒を連ねていた。

東側と西側にも同様の光景が広がっていた。


この辺りの質素な光景の中で、一番華やかなのが、園庭から防波堤を覆うように伸びる二本の笹の存在だ。この笹は高さ3メートルの防波堤の上を、さらに3メートルも突き出していた。

防波堤の上は近くの住民が散歩コースとして利用していた。

防波堤自体、側面に多少の角度があるため、体力に自信があれば、階段がない場所からでも上がることができた。

今日はいつも以上に静けさが漂っていた。


7月7日、今日は七夕……。


夏の訪れを告げるこの風物詩には、毎年、たくさんの人々の想いが揺れる。

短冊にしたためた願い事を、紙縒りを使って笹に結びつけると、その願い事が叶うというのだ。

もちろん、これは、ただの年中行事の一つでしかない。実際に願い事が叶うことは稀だろう。ただ、五節句の一つとして、古来より国民的な行事となっている。

七夕の伝説で一番有名なのが、やはり、織姫様と彦星様の話だろう。

お互い愛し合う仲だったのだが、神様の言い付けを守らなかったという理由で引き離されてしまい、会うことが許されるのは一年に一度、この七夕の日だけになってしまった……という話だ。

人々は、空に輝く星たちを眺めながら、この伝説に想いを寄せている。

今夜は、美しい星々の輝きを見ることができるだろう。


「はあ。休憩。いったいどこにいるのよ。先に来ているはずなのに……。結婚して5年、娘が生まれて3年。日常の煩わしさから開放されて、少しは気分がいいはずなのに……。こんなに重たいもん持たせて。いったい何を考えているのかしら。それにしても綺麗な海ね。吸い込まれそう。潮風もいい。初めて日本海を見たときのことを思い出すわ。」


潮風は、とても穏やかだ。笹の葉が一斉にこすれ合う。

汚い字ではあるが、一生懸命書かれた七夕の短冊も一斉に揺れた。

女性は立ち止まっていた。

優しい微笑みで辺りを見渡している女性の目に、何かが映った。


「今日は七夕か……。」


そこには、たくさんの短冊があった。


夢が叶いますように……。

オリンピックの選手になれますように……。

夏に雪が降りますように……。

世界を征服したい!

いつも笑っていたい!

100歳まで生きられますように……。

おばあちゃんの病気が治りますように……。


女性は、園児たちが書き上げた躍動感あふれる短冊たちに気持ちが踊った。


「なんか、懐かしいな。」


女性の顔は満面の笑顔だった。

そのときだった。


「ごめん、ごめん、遅れちゃった。」


コンビニ袋を持った一人の男性がやってきた。


「ごめんじゃないでしょ。何を持たせているの、こんな華奢な女性に……。」


女性が笑いながら言った。


「ゆきは?」


男性が言った。


「知らないわよ。まだ帰る時間まで結構あるよ。こんなところにいたら日焼けしちゃうでしょ!」


「わりい、わりい。じゃあ早速、かき氷食べよ。」


男性はそう言うと、女性が背負っていたリュックの中から、重さ20キロもある電動氷削機を取り出した。

コンビニで買ってきたと思われる板氷も取り出した。


「ここでやんの?」


女性が言った。


「うん、そうだよ。」


「アホ。」


女性は、恥ずかしいわ!と言わんばかりの表情だ。

男性は電動氷削機を防波堤の上に置くと、電池を入れて、機械のパワーをオンにした。


「よし、行くぞ!」


男性はそう言うと、早速、板氷を機械にかけて、持参の皿にかき氷を盛っていった。


「ヒャア、おいしそう。」


女性は手を叩いて喜んだ。


「夏は、太陽の下で食べるかき氷に限る!」


男性が言った。

二人は防波堤の上に仲良く座って、園庭を眺めた。

手には、かき氷が盛られたカップとスプーンがあった。


「いっただきます。」


二人とも勢いよく食べ始めた。


「ヒャア、冷たい!」


背中から来る潮風と、聞こえる波の音……、それに、ほぼ真上から照りつける太陽の光もあって、最高の夏日だった。

二人とも美味しそうにかき氷を食べている。


「あの二人、付き合っているのかな?」


女性が言った。


「さあ。幼稚園児だぞ。」


休憩時間なのだろうか……、たくさんの園児たちが園庭に繰り出していた。

その中には、大きなリボンが印象的な女の子と腕にミサンガをつけた男の子がいた。

楽しそうに話し込んでいる。


「さあ、みんな、水浴びしましょうね。」


保育士の女性が園児たちに向かって声をかけた。

美しく輝く指輪が印象的だった。

水は、蛇口からホースを伝い、散水ノズルから勢いよく放出された。

まるで、消防士が燃えさかる火を消火するような感じで、勢いよく園庭に水が撒かれた。時には、園児めがけて水攻めをしている。


「ハハハハハハ、冷たいよ。」


多くの園児が、楽しそうに逃げ回った。

その中には二人の娘である、ゆきの姿もあった。

笑顔が弾けていた。


「ゆき、楽しそうね。」


女性が言った。


「まったく、いつ、おとなしくしているんだろうな、あの子は……。」


男性が笑顔で言った。

防波堤の上では、時折、近所の人たちが犬を連れて散歩に来ていたり、ジョギングをしていたりと、ほのぼのとした日常が見られた。

二人は笑顔を交えながら、園児たちを眺めていた。

潮風は絶えることなく吹いている。

穏やかな風に女性の髪が靡いた。


すると、次の瞬間……、どこからともなく、一枚の羽根がヒラヒラと舞い降りてきた。


「ヒャアア、びっくりした。」


女性が笑いながら叫んだ。

羽根は、女性の膝に着地した。


「何だよ、どうしたんだよ。」


男性が近づく。


「何、これ?カラスの羽根?」


女性が言った。


「いや、違うと思う。カラスの羽根なら黒だろ。多分これ、鶴の羽根だと思うけど……。」


「鶴?」


二人は空を見上げる。

しかし、鳥は一羽も飛んでいなかった。


「でも、なんかこの羽根、おかしくない?光っているように見えるけど……。」


女性が言った。


「太陽に反射しているんだろ。」


「そうかな?」


「自分で勝手に光るわけないだろよ。」


「ワハハハハ、そうだよね。」


女性は満面の笑みを見せていた。


「なんで羽根だけ落ちてくるの?」


女性が言った。


「さあ。どこか高いところを飛んでいるんだろ。」


「ふうん。」


七夕の短冊が風に揺れていた。

躍動感に満ち溢れて揺れていた。

女性はふと、思いつめた表情で一言呟いた。


「この羽根、どこかで見たことあるんだよね。思い出せないけど……。」


「は?何を言っているんだ?美穂里。」

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