第2話

思い出すのは、少し前の玉座の間。

 アインズがぎこちなく二人に告げた。

「セバス……ツアレと同じ日に休みを取った方が……いいだろう?」


(お二人が親しくなるなら、日にちを合わせるのが普通だと聞いたことがあるが……これで合っているのか?)

 そんな内心が透けて見えるほど、どこか不器用な提案だった。


「アインズ様、ありがとうございます」

 二人並んで跪き、声を揃えて答えた時の胸の高鳴りは、今も忘れられない。


 けれど現実はこうして、ひとり部屋に残っている。


「こんなに後悔するなら、出かければよかった〜!」

 ごろごろと寝返りを打ちながら、ツアレは決意した。

「よし、セバス様が帰ってくるまでに……私も外に出られるようにしよう」


 ベッドを飛び出し、廊下を歩き出す。

(でも……メイド服のままじゃ、仕事を頼まれちゃうかな……)

 まだうじうじと悩む自分に小さくため息をつきながら。


 そんな時、見慣れた影を見つけてほっとする。

「ペストーニャさん!」


「あら、ツアレ。どうしたの、ワン?」


 優しい声に、胸のつかえが少し下りた。

「……あの、もしよろしければご相談が。外の街へ出る練習ができる場所、ナザリックの中にあったりしますか?」


「なるほどねぇ。分かったわ、私についてきてワン!」

 軽やかに笑って答えるペストーニャの背中を、ツアレは小走りで追いかける。


 辿り着いたのは――骸骨を組み合わせたような、禍々しい意匠のエレベーター。


「あ、あの……これに、乗るのですか?」

 思わず怯えた声が漏れる。


「大丈夫ワン!罠なんてないから安心して」

 ペストーニャが笑うと同時に、スピーカーから可愛らしい声が響いた。

「ドアが閉まります。ご注意くださいませ〜!下へ参りま〜す!」


 思わず目を見開くツアレ。だがペストーニャは楽しげに解説を始める。

「この声は至高の四十一人のおひとり、ぶくぶく茶釜様のものよ。……暇さえあればアウラ様が乗りに来てきゃーきゃー騒いで、結局シャルティア様に叱られるのが定番なの、ワン」


 明るく話し続けるペストーニャの横で、ツアレは骸骨の彫刻に睨まれているような錯覚に、心臓を縮こませていた。


 長い時間を経てようやく到着した先――そこには想像を超える光景が広がっていた。


「……すごい」


 視界いっぱいに広がる豪奢な入浴施設。広大な湯船は百人を超えても余裕があるだろう。


「コキュートス様でさえ、のびのびと浸かれるほどよ!」

 誇らしげに語るペストーニャの声を半分も聞かず、ツアレは目を輝かせていた。


 脱衣所へと案内され、水着の話題になると――ペストーニャはどこからともなくリボン付きの可愛らしい水着を取り出して見せた。


「ツアレのために用意しておいたのよ! さあ着てみて!」


「……ありがとうございます!」

 思わず笑顔が零れる。

 袖を通した瞬間、軽やかな布が肌を包み、恐怖よりもわくわくの方が大きくなる。


(……セバス様が見たら、どう思うだろう)


 そんな考えが胸をよぎり、頬が熱を帯びた。


鏡の前に立ち、水着姿の自分を見つめてツアレは息を呑んだ。

 これまで自分が身につけてきたのは、地味なメイド服ばかり。フリルの付いた可愛らしい衣装を着るのは、まるで別人になったような気分だった。


(……恥ずかしい。でも、なんだか少し、楽しい……)


 脱衣所から一歩踏み出すと、そこには広大な浴場が広がっていた。白く磨かれた大理石の床、天井から落ちる光の粒。湯面がゆらゆらと反射して、壁一面を淡い光で染めている。


「どう? すごいでしょ?」

 ペストーニャが胸を張る。


「……はい。本当に……まるで夢みたいです」


 湯気の向こうには大小様々な湯船が並び、香りの違う蒸気がふわりと漂っている。花のような甘い香り、薬草の青々とした匂い。ツアレは思わず目を見張った。


「まずはこっちに入りましょう、ワン!」

 ペストーニャに手を引かれ、ツアレは温かな湯へ足を浸した。


「……あ……」

 足元からじんわりと広がる熱。固まっていた筋肉がほどけていくのが分かる。


「顔、赤いワン? のぼせてるんじゃない?」

「ち、違います……ただ、こんなに気持ちいいのは初めてで……」


 湯に胸まで浸かると、恐怖で強張っていた心まで解けていくようだった。

 頬に当たる湯気はやわらかく、肩を包むお湯は優しい。


「街に出るのも、こんなふうにゆったりできればいいんですけどね……」

 ぽつりと洩らした言葉に、ペストーニャは笑って答える。

「大丈夫ワン。ツアレが怖がっても、隣に誰かがいればきっと平気になる。セバスだって、ずっとそう思ってるはずだワン」


「……そう、でしょうか」

 胸の奥に灯がともる。セバスが隣にいれば、自分は外の世界にも一歩踏み出せるかもしれない――そんな未来を、ほんの少し思い描けた。


 湯から上がれば、フルーツ水や甘いお菓子が用意されていて、ツアレは驚きと嬉しさで胸がいっぱいになった。

 ペストーニャと肩を並べ、冷たい飲み物を口にしながら思わず笑みがこぼれる。


(……外の街も、こんなふうに楽しい場所かもしれない。いつかセバス様と歩けたら……)


 ほんのりと頬を染めながら、ツアレは心の中で小さな決意を育てていた。


湯上がりの体はぽかぽかと温かく、頬には心地よい紅が残っていた。

 ツアレはタオルで髪を拭きながら、まだ胸の奥で弾む鼓動を感じていた。


「どうだった、ワン?」

「……すごく気持ちよかったです。……なんだか、勇気が出るような気がしました」


 自然と口からこぼれた言葉に、自分でも驚く。

 恐怖が消えたわけではない。けれど、確かに先ほどよりも“外に出てみたい”という気持ちが強くなっていた。

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