第3話

更衣室で再びメイド服に袖を通すと、少し前までのそれとは違って見えた。

 大きな湯船に入ったこと、水着を着て人前に立ったこと――どれも「自分にはできない」と思っていたことだった。

 けれど、やってみれば案外どうにかなる。


(……だったら、街だって……セバス様と一緒なら)


 胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


「ありがとう、ペストーニャさん。今日は本当に……助かりました」

「ふふん、役に立てて嬉しいワン。また練習したい時はいつでも言ってね」


 励ましの声にうなずき、ツアレは長い廊下を一人歩き始めた。

 足取りはまだ少しおぼつかない。けれど、心は確かに先ほどより軽い。


「……セバス様が戻ってくるまでに、今度こそ……一緒に出掛けられるようになりたい」


 誰もいない回廊に、小さな決意の声が静かに響いた。

 その響きは、ほんのかすかな灯火のように、ツアレの胸の奥で揺らぎながらも消えることなく残り続けた。




――街角を歩いていたセバスは、つい香ばしい匂いに惹かれてパンを買ってしまった。

(これはナザリックでパンのバリエーションを増やすため……決してツアレにあげたいからではありませんよ、デミウルゴス……)

 誰に言われたわけでもないのに、心の中で必死に言い訳をする。


 周囲を見渡すと、このあたりには食べ物屋ばかりで服屋の姿はない。引き返そうとしたその時、粗末な服を纏った腰の曲がった老女が、道端でしゃがみ込んでいるのに気がついた。


(……ここにベンチはありませんし、何か事情があるのでしょう。一度だけ声を掛けてみますか)


 セバスは老女の前にしゃがみ込み、穏やかに声をかける。

「どうなさいましたか?」


「足を痛めてしまって……この荷物では動けなくてね」


「それはお困りでしょう。私にできることがあればお手伝いいたします」


「いえ……見ず知らずの方にご迷惑は……」

 さらに小さく背を丸める老女。


「どうぞお気になさらず。困っている方に手を差し伸べるのは当然のことです」


 微笑むセバスに、老女はおずおずと手を伸ばした。

「では……恐れ入りますが、自宅まで荷を運ぶのを手伝っていただけませんか」


「喜んで。私がお連れしましょう」


本来なら荷物ごと抱えて移動するのも容易かった。だが目立ちすぎると考え、セバスは人も荷も運べる台車をわざわざ借りてくる。


「旦那様、そこまでなさらなくても……」

「お気になさらず」


 テキパキと荷を積み込み、老女を台車に乗せると、セバスは静かに歩き出した。


 ――ガラガラと木車の音を立てながら、食べ物屋の並ぶ通りを抜け、鬱蒼とした林の方へ。


「今日は暖かく、散歩にはちょうど良い日ですね」

「ええ……散歩には、そうかもしれませんね……」


 緊張で強張った声ながらも、老女は少しずつ言葉を返す。

「私は休暇をいただき、初めてこの街のパン屋に立ち寄ったのですが、どれもとても美味しそうでした。パンはお好きですか?」

「……ええ。若い頃はよく食べたものです」


 ぎこちないながらも会話を重ね、林の奥にぽつりと建つ小さな家へたどり着いた。


「この建物が私の家です」

「承知いたしました。近くまでお運びいたしましょう」


 木材で作られた素朴な小屋の前に立つと、老女が言った。

「旦那様、恐れ入りますが……家の中までお願いできますか」

「かしこまりました」


(しかし……この家の中に何が待つか分かりません。油断は禁物ですね)


 荷を抱え、セバスは周囲に目を配りながら家へ入った。


 内部は外観通りの質素な部屋で、床には布地が散らばり、手芸好きの気配を漂わせていた。

「そこに置いていただけますか」

「承知いたしました」


 荷を下ろすと、老女は少し照れたように言った。

「旦那様……もしよろしければ、お礼にお茶を差し上げたいのですが」


「……それでは、お言葉に甘えさせていただきましょう」

(断ってもよいのですが……この家には微かな違和感を覚えます。しばらく様子を見ましょう)


 案内されたのは木の家具ばかりの小さな部屋だった。

「散らかっていますが、どうぞこの椅子に」


 セバスは腰を下ろす。木椅子が重みに軋んで音を立てた。

「ありがとうございます。では失礼して」

(お茶をいただいたら、すぐに街へ戻らねば……)

 

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オーバーロード セバスのほのぼの日常 きりんじ @kirinjisann888

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