猫と夏の始まり

藍夏

猫と夏の始まり


 空は原色の青で塗りたくられている。その上に油絵の具で重ね塗られた入道雲が昇っている。耳に直接入るアコースティックギターと掠れた男の声を蝉がまばらに掻き消す。電車の座席はまばらで、向かいの窓の外の住宅街が流れていく。リュックで汗ばんでいた背中は冷房に冷やされてむしろ寒さすら感じる。



 七月下旬。午後一時。夏休み前日。私は初めて寄り道をする。ただそういう気分だった。

 悪ぶるようなことに気恥ずかしさを感じてしまうことと寄り道の先に見当が付かないことから、眠って眠って、そして想像つかない終点に降り立とうと思った。


 いつも乗り降りする駅は快速電車が止まる駅ではあるが、人はあまりおらず、平日の昼間ですらも一時間に三本と電車の本数は少ない。

 やはり田舎なのだとため息はつくが、だからといって都会に出たいという意志は特にない。


 閑散とした駅に似つかない鐘を鳴らして、ようやく電車は来た。クーラーが異常なほどに効きすぎている。私は電車のドアに近い席に座った。開く度に湿度を伴う重い夏風に愛おしさを感じる。外を歩いている時は憎んでいたものは今や安心感すらくれる。あぁ、もうこの電車はしばらく乗ることはないなと思う。淋しいと感じたかった。淋しいと感じられなかった。そんなことをわざとのように考える自分に赤面する。

 リュックを抱きしめて顔を埋める。何もわからないままに終点まで行く。ただでさえ街中とされるところも多くて一時間三本の電車しかない田舎なのだから、終点はそれ以上の田舎だろうと思った。

 何も考えたくない。



 寝たふりのつもりが本当に寝てしまっていた。顔を上げたら窓にはのどかな田園風景が広がっていた。次の駅の表示を見ると終点はまだまだ先だったが、私はここで降りることにした。

 私は半端者だ。


 

 彼はは気まぐれに私の目の前に現れる。ある時は私が一人教室にいる時。ある時は私がぼんやりと駅の待合室で座っている時。彼の存在は私の頭をショートさせる。ただ理性が効かない自分に嫌気がさす。こんな状態を簡単な一言にしてみたらきっと楽なのかもしれないけれど、そんな簡単に表したくなかった。そんな一言で表せる単純な存在に私は成り下がりたくないと思った。

 今日、廊下をすれ違ったときにふと目が合った。呼吸が浅くなった。身体中に熱がこもる。

 今年の夏は、近年の謳われ文言の典型例の異常気象だ。早く家に帰って冷房の効いた部屋一人になりたい。

 ずっと頭の中ですれ違った瞬間の彼は笑顔がへばりついている。頭の中も夏の湿度でべとべとしている。



 駅に着いた。駅名標の文字は掠れていた。ドアがゆっくりと開く。車内には数名の人がまだ降りずにスマホや本を眺めている。むわっとした空気に逆らって私は降りた。泥の香りがする。目の前に広がる景色は全体的に光に満ちて白くぼんやりとしている。青い空と緑の田んぼ、白い空、古い木造の家々。絵の中に迷い込んだのかもしれない。本来人間にとって馴染むはずの景色は、今の私を拒絶して原色を鮮やかに発色する。侮るべきものは私の普段住んでいる半端な場所だと思う。こんな田園風景において半端者は異物にしかなれない。そんな半端者はこの田園風景も自分の住む場所も受け入れられない。

 駅の前でぼんやりそんなことを考えていた。その時足下にくすぐったいふわふわしたものを感じた。下に目をやると白い猫が私の足に身体を寄せていた。しゃがみ込み目を覗き込むとターコイズブルーとライトブルーのオッドアイで、私は少し気分が高揚した。私の影が落ちたことに気付いたような猫はその瞬間、私に興味を失せたのかそっぽ向いて歩いて行った。小さく凛とした鈴の音が鳴った。少しもやっとした。

 目の前で猫が振り向いて小さく鳴いた。期待させないでほしい。そう思いつつも猫の後ろ姿に誘われ着いていってしまう。

 線路沿いの小道をさっきとは逆方向に歩いていく。半端な街、私が馴染める街へ向かっていく。何の意味もない時間だった。無駄な寄り道だった。彼の笑顔がこびりついた目で、ただ田園風景を眺めただけだった。もちろんそののどかな風景に愛おしさはあった。ただ心地の良い異物感に溺れていた。



「何してんの?」

彼がヘラヘラと笑いながらきた。綺麗に晴れた、初夏の昼下がりだった。教室にまだ涼しい風と緑の香りと優しい光が流れ込んだ。

「……本読んでる。」

本からは意地でも目を離さなかった。

「そっかぁ。」

そう言って、また笑った。そうして去っていった。

 また静寂が訪れた。初夏の風は暑さを孕んでいたことに気付いた。



 バス停に着いた。色褪せた黄色のベンチが隣に置いてあった。ここでバスに乗ろうと思った。猫はベンチの下に潜り込んだ。

「あのさ、君はなんで私に構うのかなぁ。」

そう話しかける。猫は顔を身体もふもふに埋める。

「私を弄んでるの?」

にゃあ、と澄んだ声が聞こえた。



 砂埃を舞わせながらバスがやってきた。ベンチ下に軽く手を振る。バスのドアが開いて、すぅーっと冷気が押し寄せる。私は階段を登って一番後ろの席の左端に座る。日除けの帽子を被ったおばあさんと上品なワンピースを着た壮年期くらいの女性しか乗っていなかった。急に足下がくすぐったさに気付いた。君はなんで来たのか。駄目じゃないか。私は窓に頭を寄せて目を瞑る。



 彼はたまに好意を寄せられていたが、誰の手にも落ちていなかった。

「今日、隣のクラスのあいつに告られたんだよ。でも、そんな知ってる人じゃなかったから、振っちゃったんだけどよかったのかな?」

そう唐突に無邪気に話しかけられて、私は、

「私に分かるはずがないでしょ?」

と言った。彼は両手をヒラヒラ振って、

「残念だなぁ、俺にもわからないのにな。」

と言って、いつも通りどこか行ってしまった。



 いつの間にかまた寝ていた。気づいたら私の知っているビル、知っている道路が窓の外に流れていく。そしてバスの車内は人で満たされていた。スマホの電源を入れた。スマホはすぐに光を放った。そして一気に通知のバナーが上から降りてくる。彼からだった。

『おーい』

『なぁ、気づいてんの?』

『前!斜め前!』

見ると、へらへらしながら片手で手を振った。

『次降りるだろ?』

『うん』

『寝てたからなぁ笑笑』

『うるさい』

『そっか笑笑』

私が押す前にブザーが鳴った。意地で目線は画面から足元に向けた。寝る前にいた猫はいなくなってしまった。



 バスを降りたら、夕日が酷かった。

「凄い眩しいな。」

彼はそう言った。

「学校帰り?」

彼の言葉を無視して私は聞いた。

「え?違うよ。」

そう笑った。

「そっか。」

適当に頷いた。


「あんたがいたのが、同じバスいたのがおかしくて。」

そう笑ってみせる。彼は吹き出した。

「キャラでもないことを」

そう言って笑った。

「それじゃあ」

そう言って私は彼に手を振った。後ろを向く。背を向ける。


「また、一ヶ月後。」

そう叫んだ。彼の顔は逆光で見えなかった。そしてそのまま彼の影は小さくなっていった。

 そうだねって心の中で呟いた。蝉が喚いていることに気付いた。夕方にも関わらず痛い日差しを腹立たしいなんて思う。



夏が嫌いだ。

それでも愛おしいのだ。

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猫と夏の始まり 藍夏 @NatsuzoraLover

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