道経34 道はあふれ出る 

道はどこに存在しようか。

あらゆる場所に、である。


あらゆる場所にあり、

あらゆるものを生み出す。

しかしそれを主張せぬ。

その偉大さは実感できぬ。


ただそこにあり、そこにあるだけで

万物を育み、それ以上は欲さぬ。

その働きの痕跡は、

非常に微細なものである。


やがて万物は滅び、道のもとに戻る。

さりとて道が主として

振る舞うわけではない。

大いに、すべてを受け入れる。


自らを大きく見せかけようとしない。

ゆえにこそ、

それは大いなるものとなる。




○道経34

大道汎兮 其可左右

 大道は汎じ

 其れ左右たるべきなり


萬物恃之而生而不辭

功成不名有

 萬物は之に恃みて

 生ぜるも辭さず

 功成りたれど名さざる有り


衣養萬物而不為主

常無欲 可名於小

 萬物を衣養せるも主為らず

 常に欲無く

 小と名づくべし


萬物歸焉 而不為主

可名為大

 萬物は歸せるも主為らず

 大と為すべし


以其終不自為大

故能成其大

 其れ終に以て自ら大と為さざる

 故に能く其れ大と成らん



○蜂屋邦夫釈 概要


道はあらゆるところにあり、万物は道より生まれ、道に帰っていく。しかし、だからといって道が万物の主人というわけではない。聖人もまた同じようであるから、偉大なのである。



○0516 おぼえがき


注を見てると、どこの語句を眺めても異論百出なのである。いや正直なとこ、古代中国語って欠陥言語すぎじゃね……? いやまあそのへんの不便からいろいろブラッシュアップされてったのが現代言語たちなのかもだけどさぁ。


先賢らの大いなる知の集積にはため息しかないのだが、一方で、敢えてこのようにも言うべきだとは思ってる。「要するに、よくわかんないんですよね?」と。そう、老子ってやつは、そしてたぶん他の書物もそうだが、いくらがんばってもよくわかんないのだ。だからこそ「こういう意味だ!」って断言しちゃう系のご本はさようなら、なのだ。


「老子下敷きに妄想してまーすwww」みたいなスチャラカな態度を取ってる本作ですが、いやこの接し方ってある意味誠実だと思っているんですよ、ネタ抜きで。


さて当章でございますが、例によって「人間さま基準で」大なるものの話を持ち出してきている。まぁ確かに人間さまの枠をこえた大なるものの話をしたところで認識のしようがないわけだから、卑小化しなきゃ話にならないわけですよね。


けど所詮人間基準の話でしかなく、単純に敷衍するのが道レベルの世界における「大」に本当に合致するのか、はまた別の問題になるんだろう。老子という書は道について語るが、書にある言葉にいくら従ったところで道は見いだせない。だって所詮影について書いてるわけでしかないんだもの。うーんロック。


ほんと、よくこんな頭悪い思考にたどり着くもんだよな……

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