終章
終章
近隣の百貨店で、ちょうど売り出しをしているというので、杉三とチボーが来訪していた。やっぱりファッション大国らしく、可愛い服や鞄がたくさん売っていた。中年をターゲットにしている、と説明されても、少し派手な印象を与えるものが多かった。まあ、それでもいいや、なんて言いながら杉三は、ルイヴィトンの鞄なんかを買っていった。
近くのカフェに入ると、カフェのでかいテレビで、ニュースをやっていた。内容は、あの、日本で業者が逮捕されたという内容。そうなると、次第に日本も落ち着いてくるだろうな、また文字通り、安全な生活になるんだろう。何て予測ができたのである。
「やれれ、余震もおわったのかな。」
「そうですね。しかし、被災地に送る食料を盗み出すなんて、ひどいことをする企業があるんですね。」
この時、帰国する話はそこまでにしておいた。
二人が、カフェでお昼を食べて、マークの家に帰ってくると、見慣れない靴が置いてあって、居間で話し声がする。
「あれ、誰だろ?」
「ベーカー先生ですよ。水穂さんが心配なので、来ているんです。ほら、航空会社の設備についてとか、いろいろあるじゃないですか。」
「そうなんだ。水穂さんもずいぶん人騒がせな奴だなあ。単にイケメンは得、というか、おせっかい一までさせるのかな。」
チボーの説明に、杉三は大笑いした。
居間では、チボーの言う通り、ベーカー先生と、マークが何かしゃべっていた。
「では、成田空港行きでよろしいですね。お席はですね、来た時と同様、ファーストクラスということにしてもらいましょうね。」
安全性を願えば、それが一番であるのだが、マークはまだ心配そうであった。
「それでは、まだ心配ですか?だったらもっといい手がありますよ。ある航空会社には、ALSみたいな重い病気のひとのために、寝たままでも乗れるようになっている席があるんですよ。それを利用してもよいと思いますよ。問い合わせてみましょうか?」
「あ、そうですか。でもですよ、それは別室みたいになっているんですかね。それは避けたほうがいいでしょう。杉ちゃんと別々にしたら、其れこそかわいそうです。たった一人で特別席にのせられるのは、寂しいのではないかと。」
「だけど、水穂さんのことも心配ですからね、無理に長時間座らせて、かえって体に負担がかかってしまいます。」
「そうですが、独りぼっちで乗っているほうが、もっとつらいのではないかと思います。」
「わかりました。それならそうしましょう。もっと設備のいい、航空会社を探してみますからね。」
と、また持ってきたタブレットで、航空会社を検索し始めるベーカー先生。
それだけ水穂さんも深刻なんだなあと、マークはため息をついた。チボーとトラーは、まだ帰ってもらいたくない、と主張している。自分は、日本へ帰らせてやりたいと思ったが、ベーカー先生がこんな話をしているとなると、やっぱり、彼を帰すのはやめた方がいいのではないかと思ってしまった。本当に、自分って優柔不断である。もっと男らしく、強くならなきゃ。
「仕方ありませんよ。本人の強い意志には、どうしても負けますよ。」
と、ベーカー先生が考え事をしているマークに、そういった。
「やっぱり、故郷には、特別な思い出というのがあるんじゃないですか、一種のシオニズムに近いような。」
そうだよね。ベーカー先生の言う通りだ。複雑な気持ちだけど、本人の意思を尊重して、その通りにしてやろう。今は、水穂さんに、安全に帰ってもらうことを考えよう。マークはそう言いきかせていた。
トラーは、水穂に、食事を与えていた。今日もしっかり完食してくれたのだが、トラーは何か悲しくなってしまう。残してくれたほうが、なんだかいいのになあと思ってしまうのである。
「ごちそうさまです。」
水穂は、彼女に食器を渡した。
「今日も食べてくれてよかったわ。だいぶ咳き込む頻度も減ってきたようだし。よくなってきたのかしらね。」
トラーは、悲しいけれど、それを隠しながら言った。
「ありがとうございます。ちょっとお願いがあるのですが。」
「もう横になりたい?」
水穂は、力なくうなづくと、
「じゃあ、そうしようか。」
トラーは水穂の体を支えて、横にならせてやった。
「日本では、食べてすぐ横になると、牛になるっていう言葉があるんでしょ?それって、もちろん人間だから、牛にはならないけど。」
「確かにありますが、それは迷信です。人間がどう見ても牛になるなんて言葉はないし。それになんで牛になるんだろう。太るよと言いたいのなら、豚になると言えばいいのに。だって、日本でも、こちらでも、太っている人のことを牛とは言わないでしょう。」
「そうね。確かに、こら、この牛!いつまでも寝てないで動きなさい!なんていう言い方はしないわよね。」
トラーは水穂に布団をかけてやり、にこやかに笑った。
「本当は、水穂には、もっと太ってもらいたいわ。そうした方が、もっとご飯も沢山食べてくれて、咳き込まなくなってくれるから。でも、、、。」
「でも何ですか。」
「本当は、してもらいたくないわね。回復したら、水穂、日本に帰ってしまうもの。そうしたら、あたしたちまた寂しくなるわ。それはやっぱり悲しいな。」
「そうですか、、、。」
水穂は複雑な気持ちになったが、
「あ、ああ、気にしないで。あたしが、ばかなこと言っちゃって。」
と、トラーはにこやかに言った。
「ねえ水穂。本当に、日本には、あなたのことをすきになってくれる人っている?ほら、この間、ベーカー先生が言っていた、心から愛してくれる人よ。」
不意にトラーがそう言い出すので、水穂は、また答えに迷う。
「そんなもの、いませんよ。そんなもの、持てるわけないじゃありませんか。こんな身分の人間に。」
とりあえずの答えを出すと、
「そうなのね。あたしがそうなれれば、いいのにな。もしかしたら、一緒に羽田まで行っちゃおうかな。」
トラーは、また悲しそうに言った。
「でも、そんなことしたら、お兄ちゃんがうるさいわね。何馬鹿なこと言っている、お前は、バカロレアの試験だってちゃんと受けてないくせに、日本で暮らしていけるわけないじゃないか、何て怒るだろうな。まあ確かに、中卒のままではいられないか。」
「そうですね。中卒では、奉公口も何もないでしょうしね。確かにそれだけでは生きていけない時代ですよ。もしかしたら、全員大学へ行っていないと、ダメになるかも。どこもかしこも、日本では、大学へ行っていい会社に入ることばかりあおってますもの。すでに、日本もフランスも、全員大学へ行ける時代になっていますでしょ。同じなんじゃないですか?」
「ほんとね。あたしも、大学なんて行く気にならないわ。なんか、囚人服みたいな制服も嫌だし、監獄みたいなところで勉強するのもどうしてもいやで、バカロレアの試験勉強もする気にならないのよ。ベーカー先生も、頑張って勉強しろって、励ましてくれるんだけど、何もやる気にはならないわ。」
「そうですか。でも、学歴はないと、やっぱり生きていかれませんよ。だから、嫌でも頑張って挑戦してみたらどうですか。きっとね、日本でもフランスでも、高校は大学へ行く資格試験取得の場所に過ぎないと思いますから、そのくらいに考えておけばいいんです。もしかしたら、今じゃなくて、遠い将来、大学に行って勉強したくなる時が来るかもしれませんよ。その時に、中卒のままでは、大学へ行く資格はありませんしね。バカロレアに合格して、同格になるのなら、そういうところで役に立つかもしれないし。」
「そうね、そんな時代来るかしら?勉強なんてあたし、本当に嫌いだったのにな。」
「いや、来るかもしれないですよ。生きていると、実に色んなことがありますからね。もしかしたら、やむを得ず、勉強したくなることもありますからね。そういうときは、ただ高校から大学へ進学する、というのとはわけが違うから、より真剣になるのではないですか。」
水穂がそういうと、彼女は苦笑いした。
「まあ、いくら経っても、あたしには来ないと思うけど、水穂がそういうんなら、そうしようかな。」
「そうしてください。僕みたいに、特別な事情があるわけじゃないんですから、きっと、資格さえあれば、すぐに大学へ行けますよ。」
「そうね。」
トラーはため息をついて、苦笑いする。
そのころ、マークたちは、エールフランス航空に問い合わせて、ファーストクラスに座席だけではなく、簡易ベッドも併設されている、航空機に乗せてやることに決定した。行先は、成田空港ではなく、比較的静岡に近いと言われる羽田空港であった。
マークはベーカー先生と話して、空港の中を歩き回らせるのは危ないので、水穂にも車いすに乗ってもらい、搭乗するときだけ歩いてもらうことにした。羽田空港でも、手伝ってくれる人が、いてほしいと思ったが、航空会社に問い合わせると、あいにく日本には、そのようなサービスはないと返ってきたので、がっかりしてしまった。
そういうことは、やっぱり日本は遅れてますね、とベーカー先生も、がっかりして、互いに顔を見わせる。
その翌日も、水穂はよく食欲が出て、ご飯もよく食べた。もちろん杉ちゃんのような大食いというわけではないけれど、ご飯を残すということはしなくなった。文字通りよく食べよく寝るという感じだった。多分日本に帰れるということになって、うれしいのだろう。それなら、体力的にもなんとかなるかもしれない、と、ベーカー先生も保証してくれた。トラーは、もうすぐ、水穂と別れる時が来るのね、何て、だんだんに落ち込んでいた。
いよいよ、水穂と杉三が帰国する日が来た。幸いよく晴れていて、雪は全く降っていないで、落ち着いた青空である。帰国する前日は、久しぶりに大雪で、電車がとまったという報道までされたのに。どうして、今日は晴れているの?何て、トラーはがっかりしてしまうのであった。
簡素な朝食を食べて、マークたちは水穂をベーカー先生が貸してくれた車いすに乗せた。トラーが首周りに、ストールをつけてやる。
「外は寒いわよ。いくら晴れていると言っても、寒いものは寒いから、しっかり防寒してね。」
「はい。」
水穂はまた力なく言った。
「じゃあ、行くか。今回ちょっと、土産を買いすぎちゃってさ、かなり荷物が重くなってしまったけどよ。」
でかい声で杉三が言う。杉三はいつでも黒大島のままであった。チボーが思わず、杉ちゃんそんな恰好で寒くないんですか?と聞くと、杉三は、バカは風邪をひかないからなと言って、でかい声で笑った。
でも、馬鹿は風邪をひかないというのも、実は迷信なんですけどね、と、水穂は訂正しておいた。
チボーが、本当はベーカー先生もお見送りしたかったが、急な患者さんが来たため来られなくなったと伝えると、そうか、準備できたからもう行くか、と言って、タクシー会社に電話する。
タクシーが家の前に到着すると、杉三と水穂がタクシーに乗り込み、今回はタクシー会社にまかせっきりは危ないので、マークもトラーも、そしてチボーまで乗せてもらうことにした。
暫く、タクシーに乗って、パリの凱旋門とか、エッフェル塔などを観察した。そういえば、地震でエッフェル塔のような電波塔が倒れたそうじゃないか、と、マークが聞くと、運転手がええ、確かにテレビでそのニュースはやっていましたが、もう直っているようです、日本は、何でも手早く修理してしまいますからね、と返した。これを聞いて、さすが技術大国だねえと、みんなため息をつく。
「そうね。ものを作る技術というのはあるけれど、もっと人を大切にしてくれないかしらね。もうちょっと、人間を人間らしくあつかってあげてほしいんだけど、そうはいかないのかしら?」
技術大国の発言を聞いて、トラーがちょっと不服そうにいった。
「あー無理無理。それができたときは、日本は壊滅だ。もとはと言えば、その冷たさのせいで、技術大国と言えるまで成長したんだからよ。」
杉三が、そう答えると、もう、杉ちゃんひどいこと言わないでよと、トラーは憤慨したが、マークはそうなのかもしれないな、と思わざるを得なかった。
「まあね、日本は物は作れるが、誰にでも使えるものは作れんな。決して痰取り機にキティちゃんのイラストをつけて、小さな子供さんでも、怖がらないようにっていう発想は思いつかないだろうから。」
確かに、誰でも使えるというのは、一番欠けている意識だろう。
「はい、つきましたよ。」
運転手に言われて、全員、シャルルドゴール空港に着いたことに気が付く。
そのあとは、もう事務的なことだった。まず、杉三たちを外へ出して、持っていた荷物を預かり所へ預け、杉三たちを搭乗口まで連れていくだけである。
「もう、立って歩けますから。」
水穂は搭乗口近くまで来ると、車いすを押してくれていたトラーに言った。
「大丈夫?あたし、支えようか?」
トラーはそう聞いたが、水穂は、いいえ、結構ですよ、とにこやかに断り、立ち上がる。
「じゃあ、本当にお世話になりました。ありがとうございます。あの、今回はいろんな人にご迷惑かけてすみません。ベーカー先生をはじめとして、あのカフェの店長さんにも、ありがとうとお伝えくださいませ。」
水穂は丁寧に頭を下げる。
「そんなことしなくていいのよ。日本人は、誰かに何かしてもらうことを、やってはいけないことのように謝るけど、そうしたら、あたしたちの気持ちがどこかに行ってしまうことを忘れないでね。」
トラーがそう訂正するが、水穂は再度、すみませんでしたと頭を下げた。やっぱり口でいくら言っても、わかってくれないのなら、態度で示してしまいたくなった。できれば抱きしめたいと思ったが、こんなところで、おかしな真似をしたら恥ずかしいとぐっとこらえる。代わりに、水穂の骨っぽい手をぎゅっと握って、
「水穂、体を大事にしてね。日本の変な人たちにいじめられないでよ。それでもし、傷ついたりしたら、いつでもこっちに来て頂戴ね。あたしたち、いつでも歓迎するからね。」
と言った。マークが、そういう熱意があるんだったら、もうちょっと、前向きになってくれ、と言いたげにため息をつく。
「着いたら連絡くださいね。日本もまだまだ寒いと思いますから、体をこわすことのないように気を付けてください。」
チボーも、そうあいさつすると、水穂はわかりましたと頷いた。
「じゃあ、そろそろ飛行機の時間もあるから、行きましょうか。」
「よし、早くしないと乗り遅れちゃうからな。」
マークと杉三もそんなことを言い合って、互いに頭をさげ、搭乗口へ向かう。トラーが、水穂の手を放し、ほら、と一緒に行くように促した。
二人は、のろのろと搭乗口に向かっていく。それが、歩かないで止まってくれればいいのにな、なんてトラーは思ってしまった。でも、二人は確実に歩いて行って、とうとう搭乗口のゲートをくぐってしまった。なんだか、それが、二度と帰ってこられない、天界の門をくぐっていってしまったように、トラーには見えた。
マークもトラーも、その場から離れないで、いつまでもそこに立っていた。チボーはこの様をみて、やっぱりトラーは、水穂さんが一番好きなのかなあとちょっと悲しい思いをした。
「いや、お疲れ様です。ずいぶん長旅でしたけど、今回成田から羽田に変更してもらったようで、ちょっと時間が短縮できたんですかね。」
製鉄所では、ジョチが、羽田空港の時刻表を眺めながら、そういった。だいぶ、羽田空港も国際化してきて、いろんな国へいけるようになっている。
「以前は、海外に行くなら必ず成田空港でしたけど、今はそうでもないですね。」
「おう、結構羽田も広くなったぞ。でもまあ、どこでもたどり着ければそれでいいじゃない。よし、またお土産を買ってきたので、ちょっくら披露しようかなあ。えーとまず、恵子さんにはこれ。」
と言って杉三は恵子さんにルイヴィトンの鞄を渡した。続いて、ブッチャーとジョチにはそれぞれ箱を渡し、運転してくれた小園さんにも、と言ってまた箱を差し出す。
「あら、うれしいわ。でも杉ちゃん、これじゃあ、大きすぎて日常鞄というより、旅行鞄ね。」
確かに、恵子さんの鞄は旅行鞄という感じだった。
「しかも俺にはオペラケーキですか、俺、オペラなんかほとんど聞いたことなかったのに、なんでオペラケーキなんか?」
「僕は、前回ブランデーをもらったのですが、今回はブランデーグラスというものをもらってしまいました。お酒何て、ほとんど縁がないのにね。それに、小園さんに腕時計、、、。」
ブッチャーもジョチも顔を見合わす。ブッチャーがもらったケーキは、食べるのがもったいなさそうなケーキだったし、ジョチのブランデーグラスは、側面に彫刻が施された高級品だった。小園さんの腕時計も、エッフェル塔の彫刻がされた、簡単にくっつけられない感じのものであった。
「まあ、杉ちゃんなりの気遣いなので、もらっておきましょうか。」
「はい。」
ジョチも、ブッチャーも、苦笑いした。
四畳半では、水穂がまた例のせんべい布団に横になって寝ていた。畳はもう、新しい畳に張り替えられていた。
「お疲れさま。長く向こうにいて、大変だったでしょ。」
由紀子が、紅茶を持ってきてくれたので、水穂は、布団の上に座ろうと試みたが、由紀子にそのままでいいからと言われてしまった。
「楽になったらでいいから、お土産話を聞かせてね。」
そっと言われて、答えに困ってしまう水穂だった。でも、彼女こそ、心から愛してくれる女性なのかな、と、何となく思った。
一方そのころ、蘭は、悔しい思いをしながらパソコンに向かっていた。羽田からこっちへ戻ってきた杉三に、水穂はどうだったか聞いてみたかったのだが、その前に、製鉄所に行ってくると言われて、また仲間外れにされてしまったのである。しかも、今回は忘れずに買ってきてくれた土産物の中身を開けてみると、超高級な納豆であった。アリスは、納豆焼にして食べようと喜んだが、こんなありふれた食品をもらっても、何にもうれしくはないのである。
「よし!僕が何とかして、やつを振り向かせてやる!」
そういいながら、送信ボタンをクリックした蘭だった。
本篇17、杉、またパリへ行く。 増田朋美 @masubuchi4996
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