第九章
第九章
翌日。
「今日は、食べられるのね。じゃあ、いい結果出せるかな。ベーカー先生にも、ちゃんと話せるといいね。」
トラーは、おいしそうに納豆パスタを食べている水穂の顔を見て、にこやかに言った。
今日、ベーカー先生が、本人と話をしたいからと言って、来訪してくることになっていたのである。
「じゃあ、ベーカー先生が、またうるさく聞いてくると思うけど、しっかりと話すのよ。必要なことは、ちゃんと飾らずに話してね。」
「わかりました。話します。」
水穂は念を押すトラーにしっかりと頷いた。
「じゃあ、もうちょっとしたら、ベーカー先生が来るから。頭と体の準備をしっかりしておいて。」
「はい。」
「よかった水穂。最近は笑顔になってくれて。体のほうも、少し回復してくれたのかな。」
順調にパスタを食べてくれている水穂に、トラーは布団を整えながら、にこやかに言った。
「ごちそうさま。」
とりあえず、食べ終わって、食器をベッド横のテーブルの上に置く。
「じゃあ、これね。」
トラーは、水穂にベーカー先生の用意した薬とマグカップを手渡した。水穂はそれを受け取って、マグカップで薬を飲み込んだ。
「だいぶ、咳き込まなくなったようね。ベーカー先生の出してくれた薬が、効いてくれたみたい。よかった。一時より、落ち着いてくれて。」
「おーい、何をやっているんだ。早くあいさつしなさい。先生がお見えになったぞ。」
寝室のドアがガチャンと開いて、マークがベーカー先生と一緒にやってきた。ついでにチボーまで入って来て、
「本来は部外者ですが、心配ですから、来させてもらいました。血縁者でもないし、職場関係とかそういうわけでもないのですが、どうしても心配でしょうがなかったので。」
と言った。
「杉ちゃんは?」
と、トラーが聞くと、
「台所で、お皿の片づけをするそうです。」
と、チボーは答える。まあ、いないならかえってそれでもいいだろうと、マークは言った。
「で、どうですか。具合はいかがですかな。」
と、フランス語で聞くベーカー先生。もちろん、チボーが通訳係として、ベーカー先生の言葉を通訳した。
「変わりありません。いつも通りに過ごしております。いつも変わらず、こうして寝ております。」
水穂もフランス語で返答した。ベーカー先生は、そんな水穂を観察する。以前、診察した時より、少し容体が回復してくれたのかな、と思われるような雰囲気もあった。よし、これならしっかり発言しても、良いのではないかと確信したベーカー先生は、ひとつ頷いて、こう切り出した。
「水穂さん。まずはですね、こちらをご覧ください。この病院なんですが。」
と言って、鞄の中から一枚のパンフレットを取り出した。表紙も中身もすべてフランス語ではあるけれど、大規模な病院の紹介パンフレットだとすぐにわかった。
「ここでしたらね、基本的に民族的に誰でも関係なく入院することもできますし、お医者さんも看護師も、決して人権侵害をするような発言はしないと言うことで、患者さんからも評判です。よほどの急患が出たときでない限り、検査技師や看護師に、患者さんに対する道徳教育などを毎日行っているそうです。」
「そうですか、、、。」
水穂は、ベーカー先生の説明にため息をついた。
「あんまり嬉しそうじゃないな。」
チボーとトラーは顔を見合わせた。
「ここであれば、しっかりと医療を受けることも可能ではないでしょうか。少なくとも、先日お話いたしました、症状についても、緩和することはできると思います。そして、毎日毎日咳き込んで苦しいという事からも、解放されるのではないかと思います。」
ベーカー先生は、しっかりと話を続ける。
「ですが、僕はそれが許される立場ではありません。僕たちはいつでもどこでも、バカにされたり、いじめられたりしてきた身分です。僕らの先祖は、牛の革などで小物を作ったりしていて、そのような職種を、汚い人たちだと言って、徹底的に差別されてきました。ですから、災害などに巻き込まれても、救助されることはなく、そのまま放置されたままだったということもざらにありました。多くの人がそのような逝き方しかできなかった身分なのに、僕だけ一人が、手厚い介護を受けて、穏やかな最期を、ということは、基本的に許される身分ではないのです。それでは、無残な逝き方をしていった、ほかの皆さんに申し訳ないからです。」
水穂は、ベーカー先生の話を打ち切るように言った。
「だけど、水穂、それは、日本に居ればの話でしょ。ここでは少なくとも、あなたのことを汚い身分と言ってバカにする人はどこにもいないわよ。だって、誰もそういうことは知らないんだもの。」
トラーの発言を援護するかのようにベーカー先生もこういう。
「そうですよ。それにですね。散々、差別的に扱われて、つらい思いをすることを強いられた人生であるのなら、あなたは浮かばれません。人間は誰でも、平等に幸せになる権利が保障されています。それを求めて、いろいろな良い場所を探してもよいことになっています。もしですね、水穂さん、それが日本で得られないのなら、こちらで見つけてもよいのではないでしょうか。事実、あなたが、春まで持たないということは、医者であればだれでもはっきりわかるわけですからね。せめて、最期には、幸福になってもいいのではないかと思うんですよ。あなたは確かに、日本ではつらい思いをすることを、強制的にさせられてきたんでしたら、せめて、そのご褒美として、最期には、贅沢をしてもいいんじゃないでしょうか。それは、決して間違っているということはないと思います。神様は、それを求めることは、間違いではないとおっしゃっておられます。」
またベーカー先生、宗教的な話を始めた。いつも嫌だいやだと言っているトラーも、この時ばかりは宗教の話をしてほしいくらいだった。日本では、そのような教えというものはないのであれば、こっちで、伝授してやってもいいのではないかと思った。
「いえ、無理なんです。仮に、そのような幸せな最期を迎えることができたとしても、僕の頭の中では、ほかの皆さんに対して、なぜ自分だけ贅沢をという罪悪感が常に占めているということになりますし。それでは、周りの人たちがいくら良かったねと言ったとしても、僕だけは、誰にも言えない罪悪感で、常に苦しむことになる。それよりも、最期まで、バカにされ続けて終わったほうが、かえって楽だと思うんです。それに、日本はもうじき新しい王に引き継がれる。その瞬間を、やっぱり日本国民の一人として、見届けたいというか、そういう気持ちもありますので、、、。」
「水穂、王家が変わるというのは、王室重視の国家ならまだわかるけど、前にいった、罪悪感というのは、持つ必要は無いと思うわ。だって、ほかの人たちはほかの人たちでしょ。水穂は水穂よ。それは一人ひとり違うのよ。それぞれ切り離されているのよ。」
トラーが、一生懸命話をそらそうとするが、水穂はその線に固まったままである。
「いいえ、僕たちは、個人的に切り離すなんていうほどの経済力もありませんでした。生きていくには、個人の家庭ですべて賄えるということはできなかったんです。何をするにも複数の家庭でお金を出し合って、共同で納品するのが当たり前だったんです。修学旅行に行くにしても、隣の家や、裏の家からお金を借りないと、行くことはできなかったんですよ。持っていくものをそろえることだってできないし、旅行自体の費用も払いきれなかったし。時には、売春とか、違法薬物の販売でお金を稼いだりすることもあって。だから、常に、誰かの支えの元に生きてきました。その人たちができなかったことを僕だけが実現するなんて、とても、できやしません。だから、もう、こちらではなく、日本に帰らせてください。」
「水穂どうして?あなたは、悪い人ではないのに、どうしてそういう哀れな生き方を自分で選んでいるの?それは、少なくとも、あなたにとって、良いものではないと思うわよ。」
トラーは思わず、水穂の手を握った。
「水穂さん、自身のことだけではなく、僕たちのことも考えてもらえないでしょうか。僕たちは、水穂さんが、そういう哀れな生き方をしてほしくないから、こっちにいてくれと望んでいるんですよ。その、僕たちの気持ちも、全部跳ねのけて、わざわざ危ないところへ帰りたいだなんて。無視をするにもほどがある。そこもちゃんと考えてくれませんか?」
チボーが心を込めてそういっても、水穂は何の返答もしなかった。でも、明らかに、何か感じ取ってくれたのだろう。顔にぽろんと涙が出る。
「ほら、この二人もこういってくれているじゃありませんか。すでにあなたは、人を二人動かしているんです。人間を動かすのは鉄の塊を動かすより大変なことですよ。それを、ちゃんと成し遂げているんですから、ご自身だって、それくらいの力があると考えなおしてくれませんか。」
まあ確かに、ベーカー先生が言う通り、人間の心は鉄の塊より重い。それを動かすのは、相撲取りであっても難しい。
「水穂、王朝が変わるのはあたしたちも知ってる。それに、うちにもテレビを設置したんだし、いつでも中継されて見られるわ。こちらの報道番組でも、特集が組まれるって、この前雑誌に書いてあったのよ。だから、見届けることはちゃんとできるじゃない。直接見るだけではなく、そういう媒体を通せば、遠く離れた国家の事だって、ちゃんとわかるわ。」
「それにですね、医学的に言ったら、こんなにげっそりとやせた体で、飛行機に乗って日本に帰るなんて、ちょっと無茶のしすぎですよ。ねえ、お兄さん。日本は本当に遠いでしょう?」
ベーカー先生は、それまで黙っていたマークに言った。
「はい確かに。僕は刺青の師匠と一緒に、日本へ行ったことが一度あるのですが、その時も一日がかりだったと思います。」
マークが事実を述べると、
「そういう訳ですから、あなたはできる限りこっちへいたほうが、安全が確保できるのです。すでに、こうして、沢山の人が、あなたを心配してくれているわけですから、少し、この人たちの意向に従って、安全で暖かい最期を迎えるということも、悪いことではないですよ。」
ベーカー先生は、みんなの意見をまとめるように言った。
「でも、僕は、、、。」
水穂は、涙を流して、静かに泣き始めた。
鼻水がずるっと垂れる音が聞こえる。トラーが急いでチリ紙で拭いてやった。
「やっぱり、日本に帰ります。日本が恋しいです。」
「ですけれどね、水穂さん。あなたご自身のためでもあり、日本で惨めな人生を終えるより、こっちで幸せに暮らしてもよいのでは?」
ベーカー先生はもう一度同じことを言ったが、水穂の決断は変わらなかった。どうしてそういうことを言うんだろう、と、チボーもトラーもがっかりするが、
「いや、なんとなくわかるような気もするよ。いまでもさあ、ボヘミアンの人が定住しないで生活していて、時々問題になるじゃない。」
ボヘミアンとは、フランス語でロマ族のこと。基本的にロマ族は、定住せず馬車に乗って移動して生活している。現在彼らを定住させるため、家を作って村として生活させているが、それは、自分達を閉じ込める檻のように感じられ、脱走してしまう、ロマ族も少なくない。
「まあいつも、移動して暮らしているボヘミアンとはちょっとちがうけどさ、でも似たような気持ちになるんじゃないのかな。やっぱり異国は異国だよ。最期は日本人らしく、もわかるよ。」
「お兄ちゃん、それはそうかも知れないけれど、水穂の体のことも、考えてやってよ。」
医学的に言えば彼女の方が正しいのだろうが、マークは、水穂がこちらの暮らしに馴染んで来るときは、多分きっと彼が力尽きる時なんだろうなと予測した。
「わかりましたよ、水穂さん。やっぱりいくら被差別民であっても、帰属意識だけはしっかりあるんですな。ヨーロッパにもバスク人のように孤立しているけど、民族意識はしっかりある人たちは少なからずいますから、まあ似たようなものですかね。ただですね、日本に帰るにあたって、ひとつ条件があります。心から、愛してくれる女性を一人探してください。たった一人で寂しく、という逝き方は、なんにも美しいことではありませんから。でないと、私たちは何も治療を施さなかったことになってしまいます。それでは、先日も言った通り、人権侵害ということになってしまう。」
ベーカー先生は西洋人らしいことを言った。西洋人というのは、どうしても愛するとか、愛されるとか、そういう言葉を軽々しく口にする。そして孤独は決してよろしいことではない、という言葉も必ずくっついてくる。
「よろしくお願いしますよ。そしてあなたも、愛されているということに気がついてください。そうして、自身の存在意義を見つけ、自分を大切にしてください。」
「はい。」
水穂は、細い声でそう返答した。ベーカー先生の話したこと、わかってくれたのかなあ。と、チボーとトラーは、心配そうな顔をして互いの顔を見た。
一方そのころ。
「えー、臨時ニュースです。政府の支援として被災地に送っていた米を横領して横流しにし、自身の利益のために諸外国に販売していた業者が、今日、逮捕されました。逮捕されたのは、東京都港区の食品運搬会社経営、、、。」
日本では、それまでやっていた地震の被災地中継番組が突然中断し、一斉にこのニュースが報道された。テレビは、この会社について、はなはだしく騒ぎ立てた。
「なに!逮捕されたって!」
思わずテレビに向かって大声で言ってしまう蘭。隣でアリスが、お客さんの電話番号を、スマートフォンに登録する作業をしていた。
「もう、うるさいわよ。電話しようと思っているところだったのに、でかい声でどならないでよ!」
そう言って、お客さんに電話をかけ始めたアリスだが、それでも蘭の興奮は止まらない。
「やった!やったぞ!万歳、ばんざい!ばんざーい!」
テレビに向かって、大声で万歳の三唱をして、
「ついに政府も本領発揮したか!そうやって悪人をつかまえてくれたんだから!ま、これ以上反政府デモが起きてしまうのも嫌だもんな。これで、あちらこちらでデモ隊が出動するのはおしまいになって、やっとうちの近所も落ち着くし、静かになるよ。そうすれば水穂だってヨーロッパからこっちへ帰ってこれるよ!」
と、涙を流して大喜びする蘭だったが、
「落ち着いてほしいのは蘭の方よ。そうやって隣でワーワー騒ぎ立てられちゃ、お客さんに電話できないでしょうが!」
と、アリスに現実的な注意をされて、
「すまん!でも、やっと落ち着いた生活ができるから、嬉しくてさ。この喜びを誰かと共有できたら、いいのになあ!」
それでも興奮したままでかい声で言う蘭だった。
「バカねえ。喜んでないで、はやく製鉄所に電話しなさいよ。恵子さんたちに、水穂さんにもう帰ってきてよいと、電話してもらわなきゃ。あっちでは報道されてないかもしれないでしょ。」
「あ、そうだったな。向こうのテレビは呑気で、直ちに報道しないからな。まだ知らないかもしれない。よし、すぐかけよう。」
蘭はここでやっと冷静になり、スマートフォンをとった。
「はい、もしもし。」
ある男性が出たのは間違いない。
「ああ、もしもし、ブッチャー?テレビみたか?いま支援米を横領していた運搬屋が逮捕されたと、報道されたよ。これでやっと、デモ隊も出ることはないし、変な演説者が車で演説することもなくなるだろう。よかったなあ。静かな日本が戻ってくるよ。すぐにさ、青柳教授にたのんで、水穂にこっちへ帰るように電話してくれ。よかったあ、これでやっと水穂も故郷へ帰れるよ!」
ところが、電話の声は、ブッチャーの声ではなくて、また別の男だった。
「はい、わかりました。ありがとうございます。うちの店のテレビは既に撤去してしまいましたので、蘭さんが、はやく情報をよこしてくれて助かりました。じゃあ、すぐに、国際電話で連絡をして、日程が決定したら、小園さんと僕で成田空港まで迎えに行きますから。幸い、国際電話なら、青柳先生の電話機を借りる必要は無いですよ。うちの店の電話で繋がりますので。」
「おい、波布じゃないか!何でお前が出るんだよ!そこで何してるんだ!」
蘭は相手の人物が誰だかわかったので、すっとんきょうに言ったが、
「そこじゃありません。ここですよ。蘭さんが、また間違った番号を回したんですよ。もう、どちらにかけているのか、しっかり確かめてから、電話をかけるようにしてくださいね。」
ジョチも、半分あきれた声で、蘭にそう言ったのであった。せめて波布には、知らせたくなかったなあ、と思っていた蘭であったが、一気にそれも崩れてしまって、またがっかり。蘭は水穂を迎えに、成田空港まで行きたかったのだった。
「わかった。お前に電話すると、ろくなことにはならないからな。お前って、いつでもなんでも台無しにしてしまうんだな。」
蘭は、半分力が抜けた声で電話を切った。
結局、大事な役は、みんな波布が持っていってしまう。盗人猛々しいとはこの事だ、なんて蘭は考えていた。誰でも、この状況なら、蘭が間違った番号を回したのが悪い、と考えて当たり前だが、蘭はどうしてもそうは思えなくて、みんな波布が台無しにしてしまったと考えるしかできなかった。
もう、何とかして水穂を長く持たせるには誰かに頼るのではなく、自身で動くしかない!と決断した。それを実行する手段を入手するために、蘭はパソコンの電源スイッチを、乱暴に押した。
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