4-7
『
悦子の両腕はナディムの首に回され、彼の耳の辺りにもたれかかる様に彼女の頭が添えられている。時折、思い出したように悦子がナディムの唇を求め、彼はその要望を満たしてやった。時には彼の方から悦子の唇を求めることも有った。いつも通り、交わりの後のひと時だ。二人はこうやって、その余韻に浸るのだ。
「もう一年、頑張るって選択肢は無いの?」
そのままの姿勢で悦子が聞いた。ナディムもそのままの姿勢で答えた。
「うん・・・ 浪人してまで大学行くのも、どうかなって思って・・・」
それは彼の本心ではない。
「ナディムは成績良いんだから、来年もう一度受ければ大丈夫だって」
「うん・・・」
高校三年の終わり、ナディムの元には当然の結果がもたらされていた。滑り止めとして受けた同志社、立命館は全滅。本命である京都大学も、彼に春の訪れを告げることは無かった。無論、ナディムにはその理由が判らなかった。これまでに受けてきた全国模試では絶えずA判定を獲得していたし、実際の入試においても、緊張はしたが失敗した感触は無い。むしろ最後の京大では、手応えすら感じていたくらいだったのに。それに本人が気付かないミスが有ったとしても、受験した全ての大学で同じような失敗をしたとは考えられない。そうなると、考えられる理由は一つ。
『この社会は、自分を受け入れるつもりが無い』
大学進学に対するモチベーションを失ったナディムは、早々に地元の自動車修理工場への就職を決めていた。そうと決めてしまえば、それはそれで肩の荷が降りた様な解放感が彼を包む。就職したところで、また同じような思いをするのかもしれないが、大学は高校の延長線上にあるような気がする。苦労して入学しても同じ目に遭うのなら、苦労しないで同じ目に遭う方が良いではないか。そんな負け犬思考に支配されている自分を、悦子の前では素直に表現できない。
悦子は京都女子大への入学が決まっている。彼女にしてみれば、京大に入学したナディムと、これからも一緒に過ごすつもりだったのに。あの成績優秀なナディムが大学受験で躓くなんて。それでも一年浪人して来年再受験し、京都に来てくれればそれで良いと考えていた悦子の期待を裏切り、ナディムは地元での就職を決めてしまったのだ。
「私がナディムを支えようとしたのは、あなたが
「ゴメン・・・ 僕は悦子の期待に応えられなかったみたいだ」
「私の方こそごめんなさい。ナディムを支え切れなかった・・・ そんなあなたを見捨てる私を許して・・・」
「・・・・・・」
「私、もうあなたとは付き合えないと思う。私が思い描いている将来像って、もう少し違うものなの。本当にごめんなさい」
何故か笑いが込み上げてきた。彼の心とは裏腹に、可笑しさが沸々と湧き上がってきた。何だか全てがバカバカしくなって、必死で頑張ってきた自分が愚かな道化のように思えた。滑稽で救いようが無くて、とんだ間抜けではないか。これが笑わずにいられるか。むしろサバサバした気分だ。晴れ晴れしいとすら言えそうだ。しかし、それを押し隠してナディムは言った。
「いいんだよ、気にしなくて・・・ 僕もだよ。僕ももう少し違った将来を思い描いていたんだけどね・・・ でも悦子のお陰で僕は楽しかったよ、この三年間。ありがとう」
悦子は黙ってナディムの言葉を飲み込んだ。そして、また暫くの沈黙の後、労わる様な優し気な口調で悦子は言った。
「もしナディムが、最後にもう一回したいんだったら・・・ いいよ。
「ううん、いいんだ。もう帰るよ」
「うぁぁぁぁぁっ!」
家に着くなり自室に上がったナディムを度し難い憤怒が襲った。三年間使い続けたカバンを壁に叩き付け、飛び出した中身を蹴散らす。
「あぁぁぁぁっっ! ちくしょぉぉぉっ!」
勉強机の上に整頓されていた参考書やら文房具屋らをぶちまけ、机の天板に固定されていた電気スタンドをむしり取った。それを振り回して本棚に打ち付けると、「パンッ」という音と共に蛍光灯が割れて雑誌や文庫本、分厚い辞書やCDが悲鳴を上げて床に散乱した。
「ちくしょーーーっ! ちくしょーーーーっ!」
二階から伝わる只ならぬ物音を聞きつけたサビーナが駆け付けた。ナディムの部屋のドアを開けると、彼女は滅茶苦茶になった部屋の真ん中で仁王立ちする息子の姿を認めた。
「ナディム! ◎△※☆*!」
サビーナはベンガル語で何事かを叫んだが、ナディムにはその意味が判らない。走り寄ってその左腕にすがり付いた母親を突き離すように振り払うと、サビーナは部屋の隅まで飛ばされ、そこでペタンと尻餅をついた。ナディムは一瞬だけサビーナに視線を向けたが、また直ぐに己の破壊衝動の虜となった。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!」
壁に張られたロックミュージシャンのポスターを剥がし取ってビリビリと刻み、紙屑となったそれを床に叩きつけた。そしてお小遣いを貯めて買った ──最近めっきり弾かなくなって埃を被っていた── ギターを掴み上げると、それを頭上に振りかざして、薪を割るかのように机に叩きつける。壮絶な破壊音と共にネックが折れ、切れた弦を伴いながらギターのボディーがクルクルと宙を舞った。
サビーナは床に座り込んだ姿勢のまま、両手で顔を覆い泣き崩れている。ナディムの耳には、彼女の泣き声が滑り込んでいた。だがその声が、更に彼の怒りの焔に勢いを与えた。メソメソと泣く姿が彼を苛立たせた。
手元に残ったネックをギターアンプのスピーカーに突き刺すと、先ほど飛んで足元に転がっているギターのボディーを拾い上げ、それを更に壁に叩きつける。それは大きな音と共に更に二つに割れ、その片方は跳ね返ってナディムの右手を打ち付けた。苦痛に顔を歪めたナディムが自身の右手を見ると、甲がパックリと割れてそこから赤い血が滴り落ちていた。
「肌が黒くても、血は赤いんだな・・・」
目の前にかざした右手から流れ出る血を見ながら、ナディムはそんなことを考えた。そんな当たり前のことが可笑しくて、彼は微かに笑った。
「いっそのこと、自分の血が緑色だったら良かったのに・・・」
そう思うと、ナディムの眼から涙が流れ出た。堰を切ったように流れ出た。それでも彼の身体は、破壊行為をやめようとはしない。喉から溢れ出る嗚咽も止められない。散乱するガラクタを、泣きながら手当たり次第に投げ付けた。涙声の壮絶な絶叫が続いた。
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょーーーっ!」
サビーナは錯乱する息子を見ながら、か細い声で呼び続けた。
「ナディム・・・ ナディム・・・」
その時、ナディムの脚が何かを踏みつけて、「パキッ」と音がした。興奮する彼の耳に微かに聞こえたその音が、ナディムを現実の世界に引き戻す。彼は動きを止めて、自分の足元を見た。
CDであった。ケースの割れたCDであった。それは絵里奈が発売したCDアルバムであった。発売日にショップに行って買い込んだそれは、棚の一番取り出し易い所に鎮座し、勉強する彼をいつも見守ってくれていたものだ。辛いことが有っても、悲しいことが有っても、それを見ればナディムは気持ちを強く持つことが出来た。彼女の歌声を聞けば、いつだって困難に立ち向かう勇気が湧いた。
もの悲し気な表情の絵里奈が、飛び出したジャケットからナディムを見上げている。
「ナディム」絵里奈の声が聞こえた気がした。
ナディムは跪いて、そのアルバムジャケットを拾い上げた。
「ナディム、どうしたの?」心配そうにのぞき込む、彼女の顔が浮かんだ。
ナディムの顔が歪んだ。大声で泣き出す直前の赤子の様に。そしてヒック、ヒックと泣きじゃくり始めた彼は、絵里奈の写真をギュッと握り締め、そのまま両肘を床に着けた。クシャクシャになってしまった絵理奈は、それでも彼を見つめている。そしてナディムは、神に赦しを乞う殉教者の様に、握りしめた絵里奈に額を押し付けて突っ伏した。
「んんんんん・・・」
駄々をこねる子供の様な声を上げると、ナディムは遂に大声で泣き始めた。
「うわぁぁぁぁ・・・ あぁぁぁぁぁ・・・」
ナディムは泣いた。子供の様に泣いた。理性も何もかもをかなぐり捨て、格好を付けることも無く、心がなすがままに己が内包する悲しみの全てを吐き出すように泣き続けた。今まで抑え付けてきたあらゆる物が内側から彼の心を瓦解させ、音を立てて崩れたその破片が彼の心を更に傷つけた。その傷口から赤い血が吹き出し脈を打つ。ナディムの心中に流れる血が一滴残らず涸れ果てるまで、それは続くだろう。自分自身が吹き上げた血潮が雨の如く降り注ぎ、彼の心を塗り固めていた偽りの装飾を奇麗サッパリ洗い流すまで、それは終わらないのだろう。ナディムの号哭の声は物が散乱した四角い空間で行き場を失い、降り積もる雪の様に堆積していった。薄暗い部屋に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます