4-6
意外な結果に英一郎は言葉を失っていた。どうしても理解できなかった。あれだけ成績の良かったナディムが、同志社にも立命館にも不合格だったのだ。そこまで本番に弱い人間ではないはずなのに。何かミスをしたのかと問うてみても、ナディム自身にも信じられない結果なのだから、その原因が明らかになることは無い。だが、今更どう言ってみたところで不合格は不合格だし、その事実を変えることは出来ない。こうなれば、本命である京都大学に全力をつぎ込むしか無いのだから。
センター試験の結果は悪くなかった。おそらく、かなり上位の成績で第一次選考を通ったはずだ。だが今は、ナディムに途方もない緊張感が圧し掛かっている。私大の合格通知を携えて、余裕を持った京大受験が出来ると踏んでいた目論見は脆くも崩れ去り、西の最高峰に一発勝負で挑むのだ。プレシャーを感じるなと言う方が無理である。東京の私大卒である直己には、ナディムの今の気持ちは推し量るしかなかったが、息子なら必ずやってくれると信じていた。サビーナも日本に来て長く、大学受験の何たるかは判っていたし、京大の意味するところも理解していた。彼女は息子の顔を両手で挟み込み、じっとその目を見つめて言った。
「ナディムなら大丈夫。きっと大丈夫」
母親の情愛に満ちた視線を受けながら、そのままの姿勢でナディムは頷いた。
「んじゃ、行こうか、電車に間に合わなくなるから」
直己はそう言って二人を引き離すと、車の運転席に座った。助手席に座ったナディムは窓を開け、サビーナに笑顔を向けた。
「じゃぁ、行ってくるよ」
「きっと大丈夫。ナディムなら大丈夫」
二人の会話を見計らって、直己は駅に向かって発車した。春の兆しが僅かに感じられる北九州の街を抜け、銀色のプリウスは静かに走り去って行った。
車中、直己もナディムも多くは語らなかった。薄っぺらな励ましで何かがどうなるわけでもないことは、二人とも痛感している。もし、そんな言葉が何らかの効果を発揮するのであれば、ナディムの元には既に何通かの合格通知が届いているはずだ。直己はあえて受験とは関係の無い話を振った。
「大学に入ったら、またギター始めるんだろ?」
あのライブハウスの一件以来、彼はギターを手に取らなくなってしまっていた。直己としては、それが残念でならなかった。息子が成人したら、酒を飲みながら音楽の話で盛り上がれると思っていたのに。ナディムは強い男だ。その反面、物凄く繊細で脆い一面も持っている。音楽に関しては、何らかの原因によってその弱い一面に押し切られ、ギターを続ける事の意義を見失ってしまったのだろう。
「うん・・・ 受かればね・・・」
彼が自信を喪失していることは明らかだった。
「大学に行ったら、ロック以外も聴いてみるといい」
それまで、ボンヤリと車窓の景色に見入ったまま会話していたナディムは、急に何かに気付いたように直己の顔を見た。
「お父さん、ジャズも聴くんだったよね?」
「まぁね。そんなに深くはないけどね」
「ジャズって・・・ ジャズギターって、どんなミュージシャンが居るの?」
「興味有るのか?」
「ちょっとだけね」
「そうだなぁ・・・ 最初に聞くならジョー・パスあたりがいいかな? ギター一本だけでこれだけの事が出来るのか、って感じだぞ」
「ジョー・パスかぁ・・・」
ナディムはまた窓の外に視線を戻した。大学生となって、ロックだけでなくジャズも弾けるようになった自分を想像してみた。なんとなく上手くいきそうな気がする。少し躓いたけれど、最終的には全てが思う通りになる様な予感がする。また悦子にCDを借りよう。直己が要らなくなったのを送ってもらってもいいかもしれない。いやいや、大学生になればバイトもして、スマホに一杯ダウンロードできるだろう。そんな夢想に耽るナディムを見た直己は、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
「大丈夫。お前なら大丈夫」
駅前のロータリーで車を降り、ナディムは改札へと向かう通路を歩いていた。朝の通勤客も多く、それなりの人ごみだ。そんな人波を避けるように進んでいると、何処かから聞き慣れた声が聞こえた。
「ナディム」
彼はその声の主を探して立ち止まり、辺りを見回した。悦子であった。もう後が無いナディムが、最終決戦に向けて京都へと旅立つのを見送りに来たのだ。悦子は人の流れに逆らうように近付いてきた。ザワザワとした人の流れにポツンと取り残された二人は、まるで川の水に洗われる岩の様だ。シャッタースピードを遅くした写真の如く、行き交う人々は曖昧な色の帯と化し、そこで確かなものはナディムと悦子の二人だけだった。
「頑張ってね。一緒に受かって、二人で京都に行こ」
「うん」
「これ、持って行って」
悦子が取り出したのは、朱色の生地に金糸があつらえられたお守りであった。
「私が女子大受けた時に持って行ったもの。ご利益は実証済みだから」
こんな小さな贈り物が嬉しかった。父は
「ありがとう・・・ じゃ、行ってくるよ」
「うん。信じてるから。私、信じてるから!」
改札を抜けたナディムは、悦子を振り返って手を挙げた。穏やかな表情で笑っていた。そして人混みの向こうに消えて行くナディムの後姿を、悦子はジッと見つめた。その目には、何かの決意が宿っていた。
ナディムの乗る博多発東京行「のぞみ20号」が京都駅の12番線に滑り込んできたのは、丁度お昼休みの終わる直前であった。小倉から乗車して約2時間半の長旅を、ナディムは悦子に借りたビル・エヴァンスなどを聴きながら、ピンクや黄色の蛍光ペンでカラフルになった参考書を広げ、黙々と復習に費やした。昼食はサビーナの手作りのサンドイッチだ。ナディムが嫌いだと判っているのに、あえてトマトを挟み込んでいるあたりがサビーナらしい。それを頬張る際に、思わず吹き出してしまった彼であった。
新幹線が目的地に近付きスピードを落とすと、京都の街並みがどんどん迫って来た。この街が自分の街になる。彼はそんな想いに自分自身を弄ばせながら、窓の外で迫り来る景色を見つめた。もう直ぐ、この街に手が届きそうな、そんな予感だった。あと少し。あと少し。ナディムは何度も、そう呟いた。
車両が停車し、ドアが開くと直ぐに自由席の2号車からホームに降り立ったナディムは、勉強道具を満載したバッグを肩に掛けた。さすがに大きな街だけあって乗降客は多いが、前回、悦子と一緒に来た時に駅の構造は頭に入れてある。ナディムは5号車付近にある階段に向かって、迷うことなく足を進めた。いよいよ京大受験である。彼は力の籠った眼差しで、自分の行く先を見据えていた。その一歩一歩に前進する力強さが
「ふぅ~・・・ ゴメンね、新幹線の時間間違えて。危なく乗り損ねるところだったね」
「ううん」
謝る道代に絵里奈は笑顔を向けた。エスカレーターを駆け上ったので、二人ともまだ息を切らしているが、絵理奈はなんだかそんなことすら楽しそうだ。彼女は道代と二人で、色んな所に行くのが好きなのだ。自分の世界が広がった、などという大層な想いではなく、ただ単に今まで見たことも無い風景に出会うのが楽しいのだ。
「お腹空いたね。お弁当も買えなかったから、車内販売で何か買おうね」
「うん」
その時、道代のスマホが電話の着信を告げた。着メロは先月発売されたばかりの、絵理奈の新曲だ。バッグからスマホを取り出し発信相手を確認した道代は、「ちょっとゴメン」と言い残し、前方のデッキへと消えて行った。
一人残された絵理奈は、車窓を流れ行く京都の街並みをボンヤリと眺めていた。絵里奈は前に進み、街は彼女の後ろに取り残されてゆく。前に進もうと思っていなくても、抗うことを許さない大きな力によって、自分はどんどん先に進んでしまう。絵里奈は過ぎ去る風景に向かって腕を伸ばした。勿論、その手は目に見えない透明な力によって阻まれ、何物にも届くことは無かった。
そこへ道代が興奮した様子で戻ってきた。スマホを握りしめたまま、顔を紅潮させている。
「絵理奈ちゃん! 大変よっ!」
絵里奈は不思議な様子で道代を見上げる。
「決まったよ! ドームツアーが決まったのよ!」
「ドーム?」
隣の席にドシンと座った道代が、半身の態勢で絵理奈に身体を向けた。
「うぅ~んと・・・ いっぱいお客さんが入る大きな会場のことよ。普段は野球とかの試合をやってるんだけどね」
「ふぅ~ん」
「秋に北海道のドームから始まって、どんどん南に下ってゆくの。そうやって年を跨いで、日本中のドームでコンサートをやるのよ! どう? 凄いでしょ!?」
「う、うん・・・」
「千秋楽・・・ 締めくくりのコンサートは、もう一度東京に戻って、春に武道館か東京ドームで調整中! 何だか夢みたいっ!」
子供の様にはしゃぐ道代を見て、絵理奈も嬉しくなった。道代の笑った顔が大好きだ。何か、とても良いことが起きるらしい。絵里奈も道代に笑いかけた。
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