第五章:FMラジオ

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 作業場脇で埃を被ったラジオが地元FM局を垂れ流していた。車の下に潜ったナディムは、先ほどからなかなか外れないボルトと格闘中だ。錆びたマフラーを取り外すには、どうしてもこのボルトを回す必要が有る。九州とは言え、まだ肌寒いこの季節。開け放しの作業場には冬の余韻が遠慮無く吹き込み、あらゆる金属類がキンと冷えている。それでもナディムは額に汗を浮かばせながら、意固地なボルトと格闘していた。


 ここで働き始めて、もう一年近くが過ぎていた。どうせなら博多辺りで就職口を探したかったのだが、大した給料も貰えない身ではアパートを借りることもままならない。ここは、悦子との想い出がいっぱい詰まった街だ。だからこそここを離れたかったが、金銭的な問題の他に、実家から通える方が良いとサビーナが強く主張したため、否応も無くこの街に留まっている。悦子が、そして彼自身が思い描いていなかった・・・・・未来像。それがここに有る。

 朝6時に起床し、母の作る朝食を採ると直ぐに出勤した。昼食も母が持たせてくれる弁当だ。たまには職場の仲間たちと外食したいと思うことも有ったが、家計を圧迫するようなことは避けたい。父の稼ぎからすれば、昼の外食ぐらいどうということは無いのだが、それではいつまで経っても親の脛かじりではないか。自分の貰っている給料が、平均的な高卒男子と比べて多いのか少ないのかは知らないが、いずれ自立せねばならないことを考えると、ナディムは無駄な金を使いたくは無かった。無論、仕事帰りに仲間と飲みに行くようなことも無い。未成年であるナディムが飲み屋に行くわけにもいかないのだが、それを都合の良い言い訳として、彼は仕事が終わると直ぐに、仲間の誘いを断って自宅に直行した。

 当然ながらギターはやめたままだ。音楽など、生活に余裕がある者だけに許される道楽・・であることを、社会人となって初めて気付かされた。英一郎は「趣味くらい持て」と、暗に音楽を再開することを勧めたが、ナディムは頑なにそれを拒んでいた。

 何も無い生活だと言えばそうかもしれない。ただ生きているだけ。そう言っても差し支え無いのかもしれない。それでも、必要な物は揃っている。ナディムは自分にそう言い聞かせていた。必要以上のものを持てば、必ずその先にある何かを欲しくなる。それが人間というものだ。そこに終わりなど無いのだ。持たざる者は欲しがらず。ナディムは自分の心の中で何か・・が目を覚ますことを恐れて、ただがむしゃらに目の前のことに集中する生活を、故意に送っていた。


 ラジオの女性パーソナリティが甘い声で語り出した。

 「次は、佐世保のペンネーム、龍ちゃんさんからのお葉書です。

 『パティさん、こんにちは』

 こんにちは。

 『僕は佐世保に住む高校生です。今、僕は大学受験に向けて最後の追い込み中なのですが、滑り止めとして受けた私立大学、全てアウトでした』

 あらあら大変ですね、龍ちゃんさん。大丈夫ですかぁ?

 『最後の望みは、難関の国立大学だけなのですが・・・ やっぱり無理ですよね。だって滑り止めにすら落ちたんですから』

 いやいや、そんなことは無いですよー。私の知り合いに、私立は全部落ちたのに東大にだけ受かったって人が居ますからー。まだまだ諦めてはいけません」


 ナディムは渾身の力を込めてメガネレンチを回した。だがそれは、ほんの少し緩むだけで、決して彼の思惑通りに外れる素振りは見せない。グィ、グィと力を入れる度、ジャッキアップされた車はウマの上でユサユサと揺れた。


 「私も思い出すなぁ・・・ 受験勉強って大変でしたもんねぇ。

 『でも、いいんです』

 あら。いいんですか?

 『だって、大学だけが人生じゃありませんよね。もっと大切な事が有るんじゃないでしょうか?』

 確かに。大学だけが人生じゃありません。そこは、このパティも同意しますよー。

 『大学に行けば人生の選択肢が増えるという話は、僕も理解しています。だけど、本当に大切なものは、大学にさえ行けば見つかるものでしょうか? 今、僕の目の前に有る何かが本当に大切なものならば、それを守るために必要なことを優先すべきではないかと思うんです』

 へぇーっ! 龍ちゃんさん、まだ高校生なのに大切な物が判ってるんですね? それは凄いことですよ! 私なんか、いまだに自分にとって大切な物が何だか判らないんですから。お恥ずかしい次第です」


 「くそっ・・・」

 このボルトは、なんだってこんなに回らないんだ? まるで自分を見ている様じゃないか。全く思い通りにならない。「俺はお前だ」とでも言いたいのか?

 「くそっ、くそっ・・・」

 何もかもが自分にそっぽを向いている。こんなボルトにさえバカにされるのか。

 「くそっ、くそっ、くそっ・・・」

 ナディムの眼から涙が流れ始めた。バカバカしいと思う。たかがボルトが外れないくらいで、それに自分を投影して泣くなんて。でも、どうしてもそれは止まらなかった。

 「くそぉぉぉ・・・ 何で涙が出て来るんだよぉ・・・」

 その時、親方が声を掛けた。

 「おぉーぃ、ナディム。そんなに無理に回したら、ボルトを舐めてまうぞぉ」

 「はーぃ、判りましたぁ」

 ナディムは脇に転がっているオイルが沁みたタオルを取り上げると、それで涙を拭き取った。おかげで彼の顔は、黒く薄汚れてしまった。


 「龍ちゃんさんにとっての大切な物って何なんでしょうね? このお葉書には書いてないですけど、きっと素敵なものなんでしょうね。あるいは素敵なこと、素敵な人・・・ なのかな? 若くしてそれに気付けるって、すっごく幸せなことですよー。

 『そんな僕に大好きな曲をプレゼントしてくれませんか? パティさんが優しい声でこの曲をかけてくれたら、僕はきっと次のステップに踏み出せそうな気がするんです。これを聞くと、うんと勇気が湧いてくるんです。お願いします。それではお風邪などひかない様に』

 有難うございます。龍ちゃんさんもご自愛ください。そうですか、判りました。龍ちゃんさんのリクエストにお応えしましょう。きっと、良い春がやって来ますように。

 それでは佐世保のペンネーム、龍ちゃんさんからのリクエストです。私も昨日、ヤフオクドームのコンサート行ってきましたよぉー。いやー、あの歌声、素敵でした。

 伊藤絵里奈で "The end of the world" お聞きください」


 涙と鼻水でグシャグシャになった顔を、真っ黒になるのも気にせずオイル染みのタオルで拭き上げていると、親方が車の下を覗き込みながら言った。

 「なん、泣きよっとか?」

 「泣いてません。錆びの粉が目に入っちゃって・・・」

 「まぁえぇわ。このハンマーで叩いてん。振動でCRCが浸み込むったい。それから回す時はゆっくりやのぉて一気に回すとぉ。少し回ったらまたCRCを吹き付けて叩いて。それを繰り返すっちゃんねぇ」

 「判りました。やってみます」

 ナディムは自分の嗚咽が周りに聞こえないよう、何度もボルトを叩いた。そして何度も何度も涙を拭った。



 昨夜のヤフオクドームでのコンサートが終わり、博多から東京に戻る新幹線に乗った二人は、九州を出る前に途中下車していた。

 「本当に大丈夫? 私も一緒に行こうか?」

 心配そうに見つめる道代に、絵理奈はキッパリと言った。

 「ううん、一人で行く」

 道代はまだ心配そうだ。

 「そう? じゃぁ、これ。調べておいたから。運転手さんに渡すのよ」

 「うん」

 そのメモ紙には、無理を言って道代に調べて貰った情報が書き記されている。最初、道代はその依頼を受けることに躊躇いを見せていたのだが、おそらく千夏との間に何らかの意見交換がなされたのであろう。千夏から、その意味・・を知らされたのであろう。途中からは親身になって、絵理奈の知りたいこと・・・・・・を調べてくれた結果である。

 「じゃぁ、その辺のお店で時間潰してるから。何か有ったらスマホに電話してね」

 そう言って駅前のロータリーをぐるっと指差した。絵里奈は道代を安心させようと、いつもより強い口調で返事をした。

 「うん」


 タクシー乗り場で後部座席に滑り込むと、運転手が直ぐに声を掛けた。

 「どちらまで?」

 「ここまで」

 絵理奈が道代に貰ったメモを運転手に渡すと、彼はメガネを額の所まで上げてそれを覗き込んだ。老眼で目がショボついているらしい。

 「えぇっと・・・ 城野の方ですね。判りました」

 メモを絵里奈に返すと、運転手はコラムシフトのギアを1速に入れ、直ちに発車した。


 走り出して直ぐ、絵里奈は外の風景に引き込まれて行った。電車の窓から見る風景とはやはり違う。あらゆる物が、手を伸ばせば届きそうに近い。子供の様にワクワクした気分で窓に張り付く絵里奈を、運転手はルームミラーで認めた。一心不乱に風景に見入る絵里奈に、話しかけたくてウズウズしているのだ。

 絵里奈が一つ、大きな深呼吸の様に息を吐くと、それを好機と捉えた運転手がすかさず話し始めた。

 「お客さん・・・ 歌うたう人じゃなかと?」

 何を聞かれているか判らなかった絵里奈は、ただ曖昧に頷いた。それに勢いを得た運転手は、一気にまくしたてた。

 「やっぱ、そうね? いやぁ、昨日はホークスの試合ば無かばってん、ドーム周りにいっぱいひとがおって、どないしよったとやろかぁと思とったですよ。あぁ、そうね? やっぱ、歌うたう人ね?」

 彼の話す九州弁が全く分からない絵里奈は、躊躇いがちだ。元から会話が苦手なのに、遠慮無く喋るその言葉は、彼女にとって見知らぬ国の言葉に等しかった。

 「は、はぁ・・・」

 「こりゃぁ、みんなに自慢せんといけん。芸能人ば、乗せたぁゆうて。わっはっは」

 何だかよく判らないが、相手が笑っているのだ。きっと自分も笑わねばならないのだろう。道代に教わった「愛想笑い」というものを実践する時に違いない。絵里奈は僅かに微笑んだ。それをルームミラーで確認した運転手は嬉しそうだ。こんなに若い女の子と会話が弾むなんて、自分もまだまだ若いなどと妙な勘違いをしている。

 「お客さん、若いのに凄かねぇ。あのドームいっぱいにするっちゃぁ、信じられんばい。ウチの息子にゃ、爪の垢ば飲ませにゃならんとですな。わっはっはっは」

 また「わっはっは」が来た。よし、もう一度、愛想笑いだ。絵里奈は微笑んだ。

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