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絵理奈の告白を世間は驚きを持って迎えた。発達障害というハンデを抱える彼女に、新たに性犯罪被害者としての側面も付与されたのだ。これにより彼女の知名度は一気に上昇し、その活動範囲が全国区へと広がった。
芸能人のゴシップネタが大好物の主婦層からは、彼女が被った悲劇に対する同情的な意見が舞い起こったが、一部の人間は、彼女に辛辣な言葉を投げかけた。絵里奈の件を元に、深夜から早朝まで続く討論番組なども企画される程で、一種の社会現象の様に『性犯罪と被害者』の在り方が話題となっていた。
「性犯罪被害者という立場を使った話題作りは、自分の性を売る行為に他ならないと私は思います」
「そういった話を持ち出すのは、性犯罪の被害に逢った他の女性たちへの冒涜です」
「彼女はそういった卑劣な売名行為を、今すぐにやめるべきです」
中には、彼女の発達障害を疑うものや、性犯罪に巻き込まれたという経歴すら作り話ではないかと言ってはばからない者さえ現れた。こういった意見を述べる者は、主に女性の知識人、評論家、文化人などであったが、彼女らにそう言わしめるものは、彼女らの意見をそのまま裏返して当人たちに向ければ判り易い。つまりそれは、彼女ら自身の売名行為であったり、虚栄心であったり、金もうけの為であったりしたのだ。
世論が一方向に流れ始めると、必ずと言っていいほど逆の意見を述べる者たちが現れる。それは絵理奈の件に限らず、あらゆる案件に関して観察される事象であることから察するに、人間の根源的な欲求に根差した行動なのかもしれない。彼女ら、或いは彼らにとって大切なのは、その他大勢と異なる意見を披露することであり、そうすることで己の価値や地位が上昇すると誤解しているに過ぎない。人と違う考え方が出来るという
一方で、各テレビ局や週刊誌が
そんな世間の騒ぎの及ばぬ職員室に小島は一人で残り、A4版の用紙を前に何やら考え込んでいた。そこに何と書き込めばよいのか思案している様子だ。万年筆のキャップを弄りながら、どのように書くべきか、どうしたら自分たちの正義が満たされるのかを考えた。今日の午前中、理事長に呼び出されて話した会話を思い出していた。
「いよいよ大詰めですね」
「はい。今年は優秀な生徒が多く、国立大学への進学者数が過去最高になる見込みです。私立も早慶上あたりは確実です」
鼻高々な様子で小島は報告した。
「それは素晴らしい。さすが小島先生、恐れ入ります」
「いえいえ、そのようなお言葉は恐縮の至りです、理事長」
小島はかしこまって頭を下げたが、理事長は何やら不満げだ。と言うより、もっと大事なことが有るとでも言いたげに見えた。
「ところで、例の生徒はどうなっていますか?」
「例の・・・ と言いますと?」
尋美は「ふぅ」と溜息のような物をつくと、大袈裟な机の向こうから小島の顔を見上げた。今時、大統領でもこのような机で仕事などしないだろう。
「嫌ですよ、先生。あの混血児に決まっているじゃありませんか」
「あぁ、彼ですか。彼は元々成績優秀ですので、おそらく名古屋大学あたりに。ひょっとしたら京都大学もあるかもしれませんが・・・」
「それは困りますね」
彼女の顔が曇ったが、小島にはその理由が解せない。
「と申しますと?」
「我が校から進学する生徒の中で、最も優秀な大学に行くのが混血児でも良いとお考えですか? 日出る国、日本の誇り高き民族としての誉を、貶す行為だとお気付きになられないとは全く以って残念です。父母会には何と説明するおつもりなのでしょう?」
「そ、それは・・・」
真正面から両の目を覗き込まれた小島が言い淀んだ。
「いいですか、先生」
出来の悪い生徒に噛んで含める様な言いざまだ。尋美は犬好きだが、それは利口な犬に限る。頭の悪い犬は嫌いだった。
「今までの我々の
「も、申し訳ありませんでした! 私、小島はそこまで考えが及びませんでした!」
小島は叱られる生徒の様に直立不動の姿勢を取った。頭の悪い犬は、少なくとも飼い主に忠実でなければならない。そうでなければ
「判って頂ければそれでいいのです。それも全ては、峰稜館高校の輝ける伝統を守るためです。くれぐれも、よろしくお願いしますよ」
「かしこまりました!」
この件を
小島は深々と頭を下げ、うやうやしい様子で理事長室を後にした。
確かに理事長の言う通りだ。三年間ずっと
『当該生徒は中学生の頃、知的障害を持つ女生徒に肉体関係を迫り、妊娠、中絶させた経緯有り』
既に学校院が押印されたナディムの内申書の備考欄にそう書き込むと、小島はそれを封筒に入れて糊付けをした。そして封印を押した後、肩の凝りをほぐす様に首を回した。
彼は今、充足感に浸っていた。成すべきことを成した達成感で満たされていた。どの大学を受けようが、或いはいくつ大学を受けようが、全ての内申書に同じ一文を書き加えてやる。だって、問題のある生徒を黙って大学に押し付けることなど、良識的に有り得ないではないか。確かに奴の卒業した東京の中学校からは、
そして問題そのものを包み隠さず大学側に伝え、それでもなおその生徒を合格させるというのであれば、そこから先は大学の問題である。大学によっては、内申書の内容は全く考慮されないとも言われているし、東京のとある医科大学や、米国の有名大学では、性別や人種を基準に合格者数が
つまり自分が行おうとしている行為は、誰にも後ろ指をさされるようなことではなく、正々堂々と胸を張って宣言できることなのだ。いやむしろ、称賛されて然るべきなのだ。
小島は、今自分が書き上げた内申書を前にし、懐からタバコを取り出した。職員室は禁煙だが、この遅い時間帯にはもう誰も居ない。こんな晴れ晴れとした瞬間に一服するくらい、お咎めは無いだろう。その茶色く味気ない封筒を見つめながら、小島は美味そうにタバコを吹かした。そして、自分の行いの劇的な結果を想像し、一人ニヤニヤと笑うのだった。
「今日のビールは格別に違いない」
そうつぶやくと、缶コーヒーの空き缶に吸い殻を放り込み、書き上げた内申書を机の引き出しに仕舞った。ついでそれに鍵をかけると、そのキーをお手玉のように弄びながら職員室を後にした。下手くそな鼻歌が暗い廊下に木霊していた。
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