4-3
ナディムは自宅に向かって自転車を漕いでいた。いつものように『
その途上、信号待ちをしているナディムに声を掛ける影が有った。既に日も暮れ、声の主を判別することも難しかったが、道路を過ぎ去る車のヘッドライトに照らし出されたその顔は、クラスメイトである蔭山知子のものだ。知子はまだ制服姿で、自転車にも乗っていない。自宅がこの近所なのだろうか? ナディムはふと、そんなことを考えた。
「河島君、今帰り?」
「あ・・・ う、うん」
「随分と遅いのね。こんな時間まで何やってたの?」
「いや、別に・・・ 何ってわけじゃ」
歩行者用信号が青に変わた。ナディムは彼女に合わせ、自転車に乗らずに押して渡る。知子がどの方向に向かっているのかは判らなかったが、何だか会話を続ける雰囲気だからだ。知子は自分と自転車の間にナディムを挟むような位置を取る。二人は共に無言で歩く。しかしその沈黙の中身は全く異なるものだった。ナディムは知子が話し出すのを待っていた。彼には取り立てて話すことも無いのだから。しかし知子は、どう切り出すべきか迷っていた。彼女にはどうしても聞きたいこと、話したいことが有るのだ。
「悦子と付き合ってるの、河島君?」
「えっ?」
いきなり質問から始まった会話に、ナディムがまごつく。
「いっつも二人で、悦子んちのお店に行ってるよね?」
「・・・・・・」
彼女は疑うような、或いはナディムを試すような視線を寄越す。ナディムはその目を直視しないよう、気付かない振りで前を見ながら黙々と歩いた。
「そこで何やってるの? こんなに遅くなるまで、二人だけで何やってるの?」
あまりに強引な尋問に、ナディムは少し声のトーンを上げる。
「か、蔭山さんには関係無いだろ?」
「セックスしてるの? 毎日毎日、あの店でセックスしてるんでしょ?」
知子の遠慮の無い言いぶりにナディムはたじろいだ。そんな話が出来るほど、彼女とは親しい訳じゃない。というか、誰ともそんな話はしたことが無い。
「もうやめてくれないか。君には関係無いだろ? 僕、行かなきゃ・・・」
「それってズルくない?」
「ズルい?」
ナディムは息を飲んで知子を正面から見た。その視線に立ち向かうように、彼女はキッとした表情になる。
「だってそうじゃん! 前に私が河島君に告った時、河島君言ったじゃん! 『東京に残してきた彼女が忘れられないんだ』って! あれ嘘だったの? もう東京の彼女のことは忘れたの? もうその人とは別れたの?」
「別にそういうわけじゃ・・・ ていうか、僕たちのことずっと張ってたの? 僕が悦子と店に入って出てくるまで、ずっと」
だが知子は、質問には答えない。
「知ってる? あのお店、窓に耳を付けると中の音が丸聞こえなんだよ。悦子が何回
ナディムは蒼ざめた。驚きのあまり、一瞬言葉を失った。しかし、直ぐに気を取り直し、自分の行いを悪びれもせずに口にする知子に、それが常軌を逸した行動であることを知らしめる必要が有ると感じた。
「蔭山さん、自分が言ってること判ってる? 自分がしてること判ってる? それ異常だよ。そういうのストーカーって言うんだよ」
ナディムは、知子のクリクリした愛らしい瞳の奥で、嫉妬の炎が燻りながら潜んでいることに、この時に初めで気が付いた。彼女の整った、それでいて幼さの残る丸い童顔に騙されていた。その目は既に少女のそれではない。
「だって・・・ 河島君のことが好きなんだもん・・・」
「蔭山さん、ライブハウスにも来てくれてたし、もう僕に対して特別な感情なんて持ってないのかと思ってたよ。仲の良い友達として・・・」
彼女をあまり刺激するのも良くないと感じたナディムが、柔らかな口振りで話し始めた途端、自分の中に何か引っ掛かるものを感じて口が止まった。まさか・・・
「???」
知子はポカンとした表情だ。だがそれは、幾分わざとらしくもあった。ナディムは心の中のモヤモヤを、思い切って言葉にしてみた。
「まさか・・・ 蔭山さんがやったの?」
「何? 何のこと言ってるの?」
本当に判らないのだろうか?
「ライブハウスに来たメンツを小島にチクったの・・・ 蔭山さんじゃないよね?」
知子は一瞬だけ息を止め、それから「ふぅ―っ」と息を吐いて俯いた。そこにはもう少女らしさの欠片も見当たらない。やっぱり気付くか・・・。そんな風な諦めの表情のようにも見えた。だがナディムは直ぐに、彼女の目にありありと力が漲るのを感じた。知子の頭の中で何かが目まぐるしく駆け回り、次から次へとその表情が変化し、そして遂に大声を出した。
「だってズルいんだもん! 河島君と悦子は毎日隠れてイチャイチャしてて、そのくせ学校では、『私たち付き合ってなんかいません』みたいな感じでさ! そんなに悦子が良いの? 私が悦子より、そんなに劣ってるって言うの? 私だって悦子に負けないくらい・・・」
唖然とするナディムの口から、微かな言葉が零れ出た。
「何だよ、それ・・・ ふざけんなよ・・・」
「えっ・・・?」
普段のナディムからは想像もつかない言葉に、今度は知子は息を飲んだ。
「勝手なこと言ってんじゃねぇよ。僕がどんな思いでバンドやってたか・・・」
「か、河島君・・・?」
「どいつもこいつも邪魔ばっかしやがって! 僕が何したってんだよ!?」
ナディムの声に力が籠る。こんなに激しい怒りに満ちたナディムなど、きっと誰も見たことが無いだろう。あの優しくて寡黙で、人当たりの良い彼はもう何処にもいない。純粋な恐怖に駆られ、知子は謝罪の言葉を口にした。
「ごめん・・・ ごめんなさい・・・」
だがその言葉をもってしても、彼の憤怒の波をせき止めることは叶わなかった。
「僕にどうしろっつてんだよ、何でもかんでも奪いやがって! 僕がそんなに悪いことしたかっ!? 僕がそんな目に遭わなきゃいけない理由は何だっ! 言ってみろよ! なぁっ! 言ってみろっつってんだろっ!」
ナディムは彼女の手首を掴み、凄まじい力で締め上げた。
「ひぃ・・・ 許して、河島君・・・ 許して・・・」
「ふざけんじゃねぇっ、この野郎っ! 僕なんか居なきゃいいんだろっ!? 生まれてきたのが間違いなんだろっ! 生きてく価値なんて無いクズだもんな! 死ねば良いのか!? 僕が死ねば嬉しいのか!? そうすれば
「助けて・・・ お願い・・・ 許して・・・」
知子は顔を歪め、涙を流しながら懇願していた。気が付くとナディムは知子の胸ぐらを掴み上げ、固く握り込んだ右拳を彼女の顔面に、今まさに打ち込もうとする寸前だ。しかし、知子の涙に濡れた声が彼の耳に忍び込み、我を忘れたナディムの心を僅かに揺り動かした。その結果、辛うじて知子を傷つける寸前で止まることが出来たのは、小さな奇跡だったのかもしれない。
知子は皺くちゃな泣き顔で大きく目を見開き、そこに恐怖と驚愕と絶望のないまぜとなった表情を張り付かせていた。掴まれた胸ぐらに震える両手を添え、それを解き放してくれることを心の底から願っているようだ。ナディムは強く歯を噛み締め、怒りと憎悪に満ちた表情で知子を睨みつけている。もし視線に相手を突き刺す物理的な力が有ったとしたら、きっと知子の顔は既にずたぼろになっているはずだ。右の握り拳は今もなお振り上げられたままで、今すぐにでも目の前の少女の顎を砕くことが可能だ。ただそれはブルブルと震え、そうすることへの躊躇がそこに宿っていた。そのままの姿勢でナディムは知子の歪んだ顔を睨み続け、大きく肩で息をした。そこに知子の嗚咽が重なる。
どれくらいの時間、その態勢であったろうか。振り上げた右拳を降ろすのに、途轍もない努力が必要だった。左拳を開くのも同様であった。だがナディムはその困難極まりない課題を乗り越え、思いのたけの全てを拳に込めて打ち下ろしたいという甘い誘惑に打ち勝ち、遂には右腕を降ろすと同時に知子の襟首を掴んでいた左手を開いた。体重を支えていた支柱を失い、知子はペタンと尻餅をついて動かなくなった。そして涙でグシャグシャになった顔でナディムを見上げ、「許して下さい」と囁くような声でもう一度言った。
ナディムは立ち尽くしたまま、その場で項垂れた。もう怒りも憎悪も、何処かへ消し飛んでいた。有るのは無尽蔵に思える脱力感であった。薄暗い街角に、ナディムの姿が更に暗い影となって沈んでいた。世界中の負の要素が、彼に向かって集約しつつあるかのようだ。
「もう・・・ いいよ・・・」
ナディムはそれだけ言い残すと、いつの間にかひっくり返っていた自転車を起こして跨った。そして、座り込む知子のことを見ることも無しに、勢いよく走り出した。
彼は力一杯ペダルを蹴った。ハンドルを握りしめ、有らん限りの力でペダルを蹴った。ひんやりとした夜の空気を切り裂くように、彼は走り続けた。街灯が前方から近付く度にナディムの顔を照らし出し、そして背後へと回り込むと彼の顔はまた直ぐに暗く沈んだ。走り続けることで何かを振り払い、それを彼の背後に置き去りに出来ると信じているかのように、彼はひたすた自転車を走らせた。
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