3-5
千夏は馴染みの無い地下鉄を乗り継ぎ、六本木に来ていた。彼女が住む三鷹とはまるで空気が違う。これが同じ東京とは思えない程だ。都下と都内の違いと言えばそれまでだが、若くして結婚した彼女は、こういった華やかな街で遊ぶことも知らずに老いてしまった。まさか自分が、この歳になって六本木にやって来るなど想像もしなかった千夏であった。
彼女はスマホの地図アプリと睨めっこしながら歩いていたが、角を曲がる度にクルクルと回ってしまう地図を相手に悪戦苦闘中だ。回転した地図を元に戻そうとスマホを回すと、何故だか地図は千夏に意地悪するかのように変な方向を向いてしまう。こんな使えないアプリを開発した責任者の顔が見たいものである。こうなったら、後ろ向きに歩く必要すら有りそうだ。千夏は、殆ど
いくつかの交差点を過ぎ、地下鉄の出口から数ブロック歩いたところで、運良くメールに記載されていた目的地に到達できたようだ。使えないアプリがそう言っている。千夏は腹立たしい気持ちをスマホと一緒にバッグに押し込むと、そのビルのエントランスに入って行った。ロビーに掲示されている会社名リストから「株式会社サンライズ・ミュージック」のフロアを探し当てると、千夏はエレベーターのボタンを押した。
「わざわざお越し頂き、恐縮です」
千夏の前に座る二人組の、石坂という男性の方が最初に口を開いた。差し出された名刺によると管理職のようだ。その横に座る女性の名刺には下坂と記載されており、最近、メールを交わしていた相手がこの人なのだろう。つまり石坂が、下坂の上司ということか。
「いいえ、とんでもございません。絵里奈にお声を掛けて頂き、光栄に思っております」
「私どもは偶然にもお嬢様の歌をお聞きいたしまして・・・」
偶然などではない。私が見つけたのだ、と道代は言いたかったが、上司の顔を立てて黙っておくことにした。
「・・・是非とも、サンライズ・ミュージックでお世話させて頂けないかと考えておる次第なのです」
「はい。非常に有り難いお申し出だとは感じているのですが・・・」
言い淀む千夏に先んじて、道代が発言した。
「絵理奈さんの抱える問題については、十分に承知しております。それを押しても、彼女の歌声は世に出す価値が有ると私どもは考えているのです」
その時、微かなノックの音と共に、まだ若そうな女性がトレーにコーヒーを乗せて入ってきた。彼女が全員のコーヒーを給仕し終わるまで間、三人は口をつぐんだ。
給仕係が退出するのを待って千夏が口を開いた。
「しかし・・・ そもそも、絵理奈のような娘が歌手としてやってゆくことなど可能なのでしょうか?」
「それに関してはご安心下さい。この下坂が責任を持ってお嬢様のお世話をさせて頂く所存です」
そう言って石坂は、道代の方に視線を向けた。前もって打ち合わせたわけでもない。それは、石坂の口をついた
「でも・・・」
まだ千夏は不安が拭い切れない。
「絵理奈の様な障害を持つ人間を、世間の人が受け入れてくれるとは思えないのですが」
勢い込んでいた石坂がトーンを落とし、ソファに深く身体を沈めた。やはりこれは、ある種の懸案事項になっているようだ。しかし道代は、それを態度に表すことをしなかった。その代わりこう言った。
「確かにその部分は、私どもにも予測の付かない不確定要素です。不安要素と言ってもいいかもしれません。ですが、もし絵理奈さんがデビューしても、私どもは彼女の抱える障害を隠すつもりは有りません」
道代は姿勢を正して、千夏に向き合った。
「ダイバーシティが叫ばれる昨今、絵理奈さんのようなハンデを抱えるミュージシャンが登場することに大きな意義は無いでしょうか? 彼女のような存在が世に出て認められることこそ、そういった方々の希望になるのではないでしょうか? 彼女こそが今、時代に求められているのではないでしょうか?」
ちょっと大袈裟な言い振りだが、道代にとって今の言葉は何の脚色もされていない本心であった。千夏は何かを思ってか、ただジッと目の前のテーブルを見つめている。
「それよりも何よりも、絵理奈さんのあの歌声です。初めてあの歌声を聞いた時の感動を、世の中の人々にも味わって貰いたいのです」
それでも千夏は動かなかった。道代も石坂も押し黙り、千夏の反応を待った。その時、千夏は三人の真ん中に、絵理奈の歌声が舞い降りて来ているような気がした。自分の娘の透き通った歌声が心の中に浸み込んでくる。いつだってそうだ。千夏は絵理奈の歌を思い起こす度に、静かで平和な気持ちになれるのだ。心の中のモヤモヤが沈殿し、清廉な上澄みの底に沈む本当の
「娘をよろしくお願いいたします」
千夏が深々と頭を下げると、道代も石坂も頭を下げた。
「有難うございます。ご安心して、お任せ下さい」
スマイル・チャレンジドを退職した絵理奈は、毎日六本木に通い、歌手デビューの準備を進めた。当初、難色を示した直己であったが、辛い思いをした娘が羽ばたいてくれるのであれば、それを止める理由は無いであろう。毎朝、通勤途中の道代が絵里奈宅に寄り、六本木まで同伴するという条件で彼女の転身を承諾したのだった。無論、帰りも道代が家まで送り届けることになる。
デビューに向けた準備では、歌のレッスンなどに時間を費やすことになるが、歌唱力に関しては何の問題も無い。強いて言えば、歌える楽曲のバリエーションを増やすために、色々な歌い方をマスターするだとか、発声法を使い分けられるようにするなどの、レッスン項目としては最終段階に近い所から始まっていた。
人との接触に関してはあえて無理強いせず、絵理奈の素のままで行くことで、サンライズ・ミュージック内のコンセンサスは得ている。むしろ在りのままの絵理奈を晒すことで、『発達障害を抱えるシンガー』という
ただ、デビュー曲を何にするかでは、若干の意見の相違が見られた。彼女の為に既に新曲も用意されていて、そのレコーディングも始まっている。作詞は阿久沢悠、作曲は戸倉川俊一というゴールデンコンビだ。新人がこの二人による楽曲を提供されるなど、ある意味、前代未聞と言え、それだけサンライズ・ミュージックが絵里奈に力を入れている様子がうかがえる一方で、道代はどうしても、スキータ・デイヴィスを歌わせたかった。確かに商業的には阿久沢、戸倉川コンビの方が成功する確率は高いと思う。それでも、あの曲の透明感を絵理奈に表現させたいという想いが強いのは、全てはあの動画を見た時の衝撃が忘れられないからだった。サンライズ・ミュージック内で例の動画を見た他の者からも、道代の意見を推す声は上がったが、結局、今後のことも考え大御所である阿久沢、戸倉川両氏との良好な関係を維持すべきという
歌のレッスン、レコーディングに加え、アルバムジャケット、宣材、雑誌などの撮影に追われる多忙な日々が続いた。これまでの清掃員としての生活から一変したわけだが、絵理奈は特に不平を漏らすわけでもなく、かといって嬉々として取り組むわけでもなく、むしろ何故自分がこんなことをやらされているのだろう、という疑問の方が大きいようであった。と言っても今の状況を嫌がっている素振りは無く、大好きな歌が歌えることが、彼女にとっての大きなモチベーションになっているようだ。
一方で、歌を歌うだけで良いわけではないことは絵理奈にも判っている。大好きなことをする際には、それに付随する気の進まないこともやらねばならないのだ。世の中はきっと、そういうものなのだろうと彼女は理解していた。清掃員をやっている時もそうだ。あの好きになれない部長さんに鍵を掛けた備品室に呼び出されては、体を触られたり、部長さんの変な所を口で咥えさせられたりした。時には、その汚らしいものを身体の中に押し込まれたりもしたのだ。それを入れたり出したりしているうちに部長さんの煙草臭い息遣いが次第に荒くなり、同じ空気を吸っていることすら不快だったことを覚えている。自分の唇に重ねられた彼の唇の感触は薄気味悪いものだったし、無理やり差し込まれた舌は、絵里奈の口の中でヌメヌメと動き回り、思い出しただけでも
撮影に関しては、素敵な衣装に着替えたところで絵理奈がニコリとするわけでもなく、無表情なスナップばかりが蓄積していった。当然ながら、通常の
周りに影響されない筈の絵理奈の行動に、微妙な変化の兆しが見え始めたのは、この頃であった。それに最初に気付いたのは、彼女のマネージャー業務に多忙を極めていた道代である。それまでは人と接する時、絵理奈は必ずと言っていいほど視線を逸らし、明確な反応を示さなかった。それなのに最近は、少しずつではあるが、会話らしきものを交わせるようになってきたのだ。当初、道代は絵理奈が周りの環境に馴染んできたことによる変化だと捉えていたが、その理解が間違いであることに気付き始めていた。絵里奈が変わってきた理由。それは歌である。
元々絵理奈は、他人とのコミュニケーションが極端に苦手で、その糸口を見つけることすら出来ない
この変化は、勿論、好意的に受け取られ ──それでも発達障害というハンデを克服したと言える様なレベルからは程遠かったが── 特に伊藤家においては、娘の劇的な変化に驚愕したものだ。一度、千夏に連れられて吉祥寺に買い物に出た時、スマイル・チャレンジド時代の上司であるいづみとバッタリ出くわしたことが有る。その時に彼女はいづみに対し、なんと自分から「こんにちは」と挨拶をしたのだった。日々の微妙な変化を絶えず見ている千夏と違って、久し振りに会ういづみにとって絵理奈の変化は、それこそ別人のようであったに違いない。それを見たいづみは嬉しさのあまり目に涙を浮かべ、千夏と手を取り合って喜びを分かち合ったものだ。ただ絵理奈だけは、何故二人が泣き笑いで騒いでいるのかが判らないのだった。
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