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「昨日送ったリンク、見てくれました?」
道代は直属の上司である石坂弘之のデスク前に立っていた。石坂は申し訳なさそうに道代の顔を見上げ、両手を合わせる。
「悪い、昨日は部長と呑んでてさ」
まっ、おそらくそんなことだろうと思っていた道代は形ばかりの怒りを表明し、上司に引け目を感じさせることで会話の主導権を握った。
「あぁーーっ、ひどーぃ。部下が夜遅くまで調査してたってのにぃーっ」
「悪かったよ、すまん。で、下坂が見つけたダイヤモンドってのは・・・」
「この子です! 見て下さい!」
そう言って道代は自分のスマホを石坂に差し出した。彼女が見せたかった動画は、既に再生準備が完了している。石坂は「どれどれ」という風に、それを受け取った。
それはTwitterにアップされた動画であった。手ブレしている上に画質も良くなさそうだ。見たところ、どこかで開かれたイベント会場らしく、一人の女の子がポツンとステージ上に立っている。石坂は動画再生の三角マークをタップした。
当然ながら音も酷いものだった。周りの観衆の話声の方が、ステージの音よりも大きく捉えられている。聴くに堪えないと言っても良い。だが、前奏に続いて歌い始めた女の子の声が聞こえた瞬間、石坂の動きが停止した。彼の意識の全てが、その小さなディスプレイに集約されている。動画に魅入られる石坂を、道代はニヤニヤしながら見守った。
再生が終わって石坂が体中の力を抜くと、すかさず道代が声を掛けた。
「どうでした? 凄いと思いません?」
石坂は半ばボンヤリとした視線を道代に返しながら、ただ「あぁ」としか言わない。道代は畳みかけた。彼女にしてみれば、この人の良い上司を思い通りに操ることなど朝飯前なのだ。
「この子を抑えましょう! 絶対モノになると思います! 許可して頂けますか?」
石坂は再び「あぁ」と言った。
調べは直ぐに付いた。道代が見つけた動画はJSBという企業の納涼祭の模様を伝えたもので、そこで披露されたのど自慢大会だか何だかを、会場にいた誰かが録画し投稿した物だった。直ぐにJSBにコンタクトを取った道代であったが、彼女の想像を絶する大会社であるそれは、動画を添付してもそれがどの事業所で行われたイベントなのか判らないという。それもそのはず、道代が接触したのは丸の内に有る本社内のお客様相談窓口だ。だが、それ以外にも日本中、いや世界中の各地に生産拠点やら研究開発拠点を持つJSBでは、各事業所が独自に様々なイベントを運営しており、本社がその全てを把握しているわけではない。的を得ないJSBの対応に業を煮やした道代がツィートの投稿者にダイレクトメールを送った結果、あの動画が撮られたのは、三鷹に有る東京工場と中央研究所が併設された事業所であることが判明したのだった。
そこからは比較的スムースに事が進んだ。JSB東京工場に問い合わせたところ、動画に映る女の子がスマイル・チャレンジドなる関連会社の社員であることが直ぐに判り、併せてその会社の連絡先を入手した。早速、道代は電話をかけ、そこで子供たちを管理監督している女性職員との面会をとりつけたのだった。
「私、こういう者です」
道代が差し出す名刺には、いづみには馴染みの無い文字が躍っていた。
「えぇっと・・・ サンライズ・ミュージックの下坂さん・・・ ですか?」
「はい」
途方もない大企業であるJSBのロビーは、道代の知る音楽業界とは異なる威厳を携え、外部の者に威圧的な感じを与えた。こんな世界が有るのか? この事業所だけでも、一つの街を形成するほどの規模ではないか。道代はその巨大さを初めて肌で感じ、素直に怖気づくような気分に襲われていた。正確に言えば、今、相対している森下という女性はJSBの社員ではなく、その関連会社の社員のようだが、それでもJSBという看板を背負った人間は、道代にとって雲上の存在のように感じられるのであった。
だが実際に気圧されていたのはいづみの方であった。音楽事務所という華やかな世界の人間が面会を求めてくるという事態が、どうしても理解できなかったのだ。本体であるJSB東京工場の総務課からいきなりメールが入り、下坂という人物から面会を求められているので、よろしく対応するようにとの指示を受け取ったのは昨日のことだ。言ってみれば
「それで・・・ いったい、どういったご用件でしょうか?」
おっかなびっくり聞くいづみに、道代はスマホを手渡した。そこには石坂に見せたものと同じTwitter動画が映し出されている。それを受け取ったいづみは動画を再生するまでも無く、全てを理解したような気がした。そういうことか。
「あっ、この子はうちの・・・」
「はい。宜しければ彼女の連絡先などを教えて頂けないかと思いまして」
本当にこういうことって有るのだな、といづみは素直に驚いた。スカウトとかって、話では聞くが実際に自分の周りで起こったことなど無い。おそらく、殆どの人はそういったことを目にすることも無く、一生を終えるに違いない。今、自分の目の前でその希少な事案が進行中だと思うと、いづみはなんだかくすぐったい様な感じがした。
いづみは少し考えてから口を開いた。
「一応、社員の個人情報を開示することは禁止されておりますので、この場でそれをお教えすることは出来ませんが・・・」
しかしいづみは、道代の申し出に希望のようなものを感じていた。むしろ、こういったことが絵里奈の身に起こることを予期していたのではなかったか。心も身体も傷付けられた彼女が大きな一歩を踏み出す切っ掛けが、自分の配慮 ──納涼祭での独唱の機会を与えた事── によって生じたのであれば、それは彼女にとっても大きな喜びだ。
「彼女とそのご両親には、私の方からお伝えいたします。その上で下坂さんにお会いしても構わないということであれば、連絡を入れて頂く・・・ ということで構わないでしょうか?」
道代の顔がパッと明るくなった。
「はい! それで構いません! よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる道代に、いづみが問うた。
「その前に、いくつかお聞きしても構いませんでしょうか?」
「はい! 何なりと!」
いづみはしばらく考えるような素振りを見せた。順序良く質問する為に、聞きたいことを整理しているようだ。
「まず今回のお話は、彼女を歌手としてスカウトしたい、という趣旨と理解して宜しいですか?」
「はい。仰る通りです。SNSで彼女の歌声を聞いた時、これは絶対にイケる・・・ すいません、言葉が悪いですね。つまり、彼女の才能に驚いたということです」
途端に道代は饒舌になった。自分が見つけ出した
「森下さんもご存知ですよね? 彼女の歌声がいかに素晴らしいか。私、あんなに人の心に染み渡る声は聴いたことが有りません! 絶対に成功すると、私は信じています!」
いづみは我が子を絶賛されているような、幸せな気分になった。だが、この下坂という女性は、絵理奈のことを何も知らないのだ。彼女の本当の姿を知ってもなお、スカウトしたいと言うのだろうか?
「有難うございます。下坂さんにそんな風に思って頂けて、本当に嬉しいです。ただ・・・」
「ただ?」
「それには一つ、問題が有りまして・・・」
「問題ですか?」
道代は唾を飲み込んだ。問題とはいったい何だろう? 既に他の音楽事務所が、あの子にコンタクトしているのか? それとも身内に犯罪歴の有る者がいるとか?
「はい。それは下坂さん側が、それを受け入れられるかどうか、という問題なのですが・・・」
「はい・・・」
「彼女は発達障害を抱えています」
六本木にあるサンライズ・ミュージックの事務所に、石坂の素っ頓狂な声が響いた。デスクに就いて仕事をしている他の者たちが不思議そうな顔で石坂の方を見ると、彼の前には道代が立っていた。
「何だそりゃ?」
「はい・・・ 私もあの後、家に帰って調べてみたんですが・・・
『一口に発達障害と言っても、その容態には様々なものが報告されている。一般に広汎性発達障害と呼ばれているのが、他人とのコミュニケーションに関わる障害で、自閉症、アスペルガー症候群などが挙げられる。
自閉症に特有の症状としては、言語能力の発達遅れやコミュニケーション能力の欠如、或いはパターン化した行動や特定のモノへの強いこだわりなどが特徴である。一方、アスペルガー症候群は自閉症の一種と捉えられていて、言語、運動、知能に関する遅れが見られないため、社会人として一般社会に出てから気付く場合も多いとされる。
また、注意欠陥多動性障害と診断される症例は、物事に集中できず、じっとしていられない、或いは衝動的に行動するという特徴を持ち、学習障害との総称で呼ばれる発達障害は、知的発達に遅れが見られないにもかかわらず、特定の作業が出来ないといった症状を示す。具体例としては、読み書き、会話、計算などの作業がそれに当たる』
・・・ということで、彼女の場合も、他人とのコミュニケーションに問題を抱えているそうなんです」
道代も沈痛な面持ちだ。
「おいおい、そんな子をスカウトするなんて冗談じゃないぞ。無理に決まってるじゃないか」
石坂は想像もしなかった道代の報告を聞いて驚きを隠せない様子だが、それは道代だって同じである。折角見つけた金の卵に得体の知れない影が映り込んで、それにどう対処していいのか判らない。二人は場面の膠着した将棋盤に向かい合う棋士のように、腕組みをして考え込んだ。
「とにかく相手方のご両親からは、まだ連絡が有りません。もしこの子に遇うことが出来たら・・・ 本人を見てから判断したいと思ってるんですが・・・」
「うぅ~ん・・・ でもなぁ・・・ そんな子じゃぁ、仕事が出来んだろ?」
石坂の言う通りだ。たとえ歌唱力が抜きんでていたとしても、人と触れ合うことが出来ない子がシンガーとしてこの業界でやってゆくことなど不可能ではないか。だが、だからと言って諦めるという選択肢は、今の道代には無かった。それは、動画で見た彼女の姿が瞼に焼き付いて離れないからだ。
「はい・・・ ですが、あの子の歌声、覚えてますよね? あんな歌を歌える人間は、そうザラには居ませんよ。それは課長も判ってますよね?」
「んん~・・・ 確かに捨て難いなぁ、あの声は・・・」
「私、考えたんですけど、いっそのこと発達障害を抱えるシンガーとして売り出したらどうでしょうか?」
「それ、本気で言ってるのか? そういうのを
「えぇ、第一印象はそうかもしれません。でも一度でも彼女の歌を聴けば、あの透き通った歌声を一度でも聴けば、彼女がゲテモノなんかじゃないってことが伝わると思うんです。その証拠に、彼女が発達障害だと知ってもなお、あの歌声が忘れられないじゃないですか、私たち」
「うぅーーん・・・ んんーーーん・・・」
石坂は眉間に皺を寄せ、目を瞑って腕組みをした。道代の言う可能性を頭の中でしきりに検証しているのだ。
「今の社会って、多様性を認めるというか、様々な人間を受け入れようって風潮じゃないですか? その時世に乗るシンガーってのもアリですよね? むしろ打って出るなら今しか無いんじゃないかと」
「ムムムムム・・・」
更に顔を歪ませて考え込む石坂。このままだと、彼は妙な置物になってしまいそうな勢いだ。
「いずれにせよ、あちらがやる気にならないと話になりませんから、今は連絡待ちということで。勿論、連絡が無かったとしても、私の方から再プッシュするつもりでは・・・」
その時、道代の履くジーンズの腰で、スマホが着信音を奏でた。急いでそれを取り出すと、それは仕事で使っているアカウントへのメール着信であった。メールを開封した彼女の顔にパッと明かりが差す。道代は石坂に向かって、親指を立てた拳をグィと突き出した。
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