3-2
「伝統ある我らが峰稜館高校において、トップの生徒が混血児ですか? そのような事態は学校の歴史上、一度だって有りませんでしたよ、小島先生」
小島は理事長の遠慮の無い、それでいて有無を言わせぬ威圧的な口調に姿勢を正した。峰稜館高校理事長である前川尋美は、年齢的には小島よりも随分年下だが、先代理事長の一人娘ということで、生まれながらにして人の上に立つ立場で生きてきた。従って年長の小島に対しても臆することなく、堂々と渡り合う風格が備わっている。
「勿論、そのような事にならないよう、試験結果や成績表は他クラスの担任たちと協議の上、
年下の女性に横柄な態度を取られようとも、小島のように矮小な人間はそれに従うしかない。いやむしろ小島は嬉々として尋美に
「当然です。私が理事を務めている間に、肌の黒い生徒が一番にのさばる様なことは許しません。もしそのような汚点を残してしまったら、私は諸先輩方にどうして顔向けができるでしょう?」
教育者という神職めいた仮面を被った選民主義の巣窟が、この峰稜館高校の真の姿であった。それは創立者の偏見に満ちた思想を色濃く受け継ぐ一族による学校経営という、単一の価値観のみに禍々しく彩られた醜悪な伏魔殿で、およそ教育の道から外れた所にその本意が存在していた。
「ごもっともです、理事長。ですがどうぞご安心下さい。私、小島将兵は自分が成すべきことは重々承知いたしております故、理事長のご期待に必ずや沿えるものと確信致しております。本年度はより一層厳しく、規律を正してゆく所存でございます」
当然ながら、そういった組織内で
「よろしくお願いしますよ、小島先生。あなたには期待しているのですから」
「はっ。お任せ下さい」
理事長室を辞した小島は15分遅れのホームルームを始めるため、2年4組に向かって足を速めた。理事長に言われずとも、そんなことは判っている。自身が担任を受け持つクラスで、あの汚らしい生徒にデカい顔などさせるものか。クラスのトップ・・・ いや学年トップが黒んぼだと? そんな恥ずかしいことを誰が許すものか。小島は教室のドアを開けた。友人たちとの久しぶりの再会に浮ついていた教室が、一瞬にして沈黙する。
「起立・・・ 礼・・・ 着席」
学習用のパイプ椅子がガタガタいう音が収まるのを待って、小島は話し始めた。
「1年に引き続きこの2年も、私がこのクラスを担当いたします。また1年間、よろしくお願いします」
生徒たちは少しザワついたが、直ぐにまた静かになった。
「それでは、我が峰稜館高校の伝統である年間成績の発表を行う。ただし、上位3名のみの発表とする」
「おぉーーーーっ!」と生徒たちが拍手と共に歓声を上げた。この高校では、昨年1年間の試験結果を基に年間成績なるものが策定され、特に上位3名に関しては、翌年度の最初に実名で発表されるという伝統が息づいていた。殆どの生徒には関係の無い世界なのだが、やはり皆、この一大イベントを楽しみにして新学期に登校してくる。ワクワクが止まらないといった空気が教室に充満し、今にもはち切れそうだ。ふざけ好きの男子生徒の誰かが、「ドロロロロロ・・・」とドラムロールの音を口真似した。皆がゲラゲラと笑った。
「第3位・・・ 5組、牛尾文江」
「うぉぉぉーーーっ!」
「スゲーーーっ!」
「アイツ、マジかっ!?」
他のクラスでは、既に上位三名の公表は終わっているだろう。小島が理事長に呼ばれたせいで、この4組だけが少し遅れた発表となっていた。その証拠に、担任が教室に現れるのを待っている間、他のクラスからの歓声がこの教室にも届いていたほどだ。4組の生徒たちは、担任が現れるのを今か今かと待っていたのだった。
遅ればせながらの歓声が収まるのを待って、小島が再び手元の資料に目を落とす。
「第2位・・・ 4組・・・」
「ううううぅぅぅぅぉぉぉぉーーーーーーっ!」
自分たちのクラスが呼ばれて、4組のボルテージは最高潮に達した。椅子の上に立ち上がる者もいた。おおよそ自分とは関係無いであろう者も、両手を上げてガッツポーズを決めた。「お前じゃねーよ!」という声が飛んだ。女子たちからも黄色い歓声が上がる。小島が続ける。
「・・・河島ナディム」
「うぅぉぉぉぉーーーっ!」
「わぁぁぁーーーー!」
「きゃぁぁぁっ!」
皆が立ち上がり、ワーワー騒ぎ立てた。机をバンバン叩き、足を踏み鳴らした。何処かから紙飛行機が飛んで来た。この学校でこれほど盛り上がるのは、体育祭の色別総合得点の発表の時くらいである。ナディムの席の周りには人だかりができて、訳も無く彼の肩を叩いたりして祝福した。ナディムも照れ臭そうに、その声に応えていた。
そんな浮かれた雰囲気に水を差そうと、小島が声を上げた。
「第1位・・・ 2組、矢代良蔵」
だが、もう第1位など誰でも良かった。自分たちのクラスメートが第2位なのだ。そちらの方が彼らにとっては一大事だ。誰も小島の声など聞いてはおらず、今にもナディムを胴上げしそうな勢いである。小島は忌々しい気持ちに襲われながら、大騒ぎする生徒たちを不機嫌な視線で睨め付けた。
皆が口々に勝手なことを喋り合っていたその時、教室の喧騒に突き刺さる鋭い声が響いた。このクラスでナディムに次いで成績の良い小野悦子の声だ。おそらく彼女は、上位3位には入らないであろうが、間違いなく10位以内はキープしているであろう。ひょっとしたら5位以内か。
「先生! 河島君が2位ってのが腑に落ちません!」
教室が静まり返った。小島は不愉快そうな顔を彼女に向けた。席を立っていた者たちは、そのままの姿勢で悦子を見た。彼女は一瞬だけナディムの方を見て、そして再び小島に向き直った。
「どうして河島君が1位じゃないんでしょうか? 彼が2組の矢代君より下だと言う根拠が判りません」
そう言ってもう一度ナディムの方を見ると、今度は二人が見つめ合うような形になった。悦子は少し恥ずかしそうに目を背けた。ナディムはそんな悦子の様子をジッと見つめた。
悦子の発言を聞いた者たちから、賛同の声が漏れ始めた。
「そう言や、そうだな・・・」
「確かに、河島の方が上だよな・・・」
「何かおかしくね?」
苦々しい顔をしていた小島は、突然、薄笑いを浮かべた様な冷淡な表情になった。誰かを侮蔑する喜びが滲み出る、尊大で卑劣な顔だった。
「君の
「我々の日本では単純な得点順だけでなく、日頃の生活態度や学校行事に取り組む姿勢なども考慮して総合的に判断するのです」
その発言を聞いた悦子が声を荒げる。
「河島君は日本人です!」
しかし小島は、そんな悦子を完全無視する。
「君の
ナディムは何も言わなかったが、周りの生徒たちが口を開く。
「何、あの言い方」
「小島、チョームカつくんだけど」
「自分が担任の生徒に、なんであんな事言うのかね・・・」
ナディムは無表情に小島の顔を見た。小島は勝ち誇ったようにナディムを見下ろした。「何か文句が有るなら言ってみろ」そういう顔だった。そして他の誰よりも悔しそうに、熾烈な憎悪を湛えた目で、悦子が小島を睨みつけていた。
2年に進級して最初の一日が終わった。今日はバンドの練習も予定されてはいない。ナディムは川沿いの歩道で自転車を漕ぎながら、道端の雑草に混じって葉を広げつつあるタンポポの数を数えていた。ここ九州では、桜前線が過ぎ去るのも早いんだなぁのどと当たり前のことに感心しつつ、頭上に色濃く葉を茂らせ始めた桜並木を見上げた時、後ろから投げかけられた自分を呼ぶ声を聞いた。
「河島君、一緒に帰ろう!」
悦子であった。立ち漕ぎの姿勢で追いついて来た彼女は、少しだけ息を切らしながら紅潮した頬で微笑んだ。ナディムは曖昧に笑うと、彼女のスピードに合わせて自転車の速度を落とした。
「ねぇ、小島の奴、頭に来ない? 絶対おかしいよ、河島君が2位なんて。そう思わない?」
いきなりまくし立てる悦子に気後れしたナディムは、「う、うん・・・」とだけ応えておいた。どうして彼女が、自分の肩を持ってくれるのか判らなかったが、少なくとも好意的に思ってくれていることだけは感じた。そんなナディムの口数の少なさは、予め織り込み済みだとでも言わんばかりに、気にする様子も無く悦子は続けた。
「って言うかさ、チョッとウチに寄って行かない? 私んち、喫茶店やってるんだ」
別に断る理由も無い。ナディムは再び「うん」と応えた。
その『
照明によって浮かび上がった店内はアンティークな家具で揃えられ、「機能的」とか「衛生的」という言葉よりもむしろ、「シック」で「落ち着いた」雰囲気を漂わせている。壁に掛けられたメニュー表には軽食の類は記載されておらず、全てがコーヒー種で埋め尽くされているあたり、かなりのこだわりを感じさせた。きっと、片仮名のコーヒーではなく、漢字の珈琲の方がしっくり来るだろう。椅子やテーブルは統一感のあるマスプロ製品ではなく、どこかの骨董市で買い込んできたようにバラバラで、二人掛け、三人掛けほどのソファも含まれていた。勿論、カウンター奥の棚に並ぶ珈琲カップにも統一感は微塵も無く、店主が気に入った物を少しずつ買い集めているといった印象だ。
「ここが小野さんの家?」
ナディムは心に浮かんだ疑問をそのまま言葉にした。自宅が喫茶店と聞いていたナディムは、一階が店舗で、居住スペースは二階といった形態を思い描いていたが、どう考えても生活感の無い店の佇まいに不思議な印象を抱いていいた。その店は雑居ビルの一階の一角を間借りしている風で、人が住んでいる気配は無い。
「悦子」
カウンターに入った悦子はそう言った。
「えっ?」
「悦子って呼んで。私はあなたのこと、ナディムって呼ぶから。良い?」
「う、うん・・・ 構わないよ」
悦子はニコッと笑った。
「ここはお店だけ。私んちは霧ケ丘の方に有るんだ」
そう言ってカウンターの向こう側で蛇口をひねり、流しに残されていた洗い物を片付け始めた。テキパキと片付けてゆく彼女の姿は、ものすごく手慣れた感じがした。きっと、いつもやっている事なのだろう。
「この店をやってるのはお母さん。儲けなんか度外視で、好きな事だけやってるって感じなんだ。だからお父さんは、店の経営には全くタッチしてないの」
「ふぅ~ん・・・ そうなんだ・・・」
ナディムは物珍しそうに辺りをキョロキョロしながら、三人掛けの古びたソファに腰かけた。その弾みに油の切れたスプリングがキシキシと鳴った。
「確かにこのソファなんて、コーヒーを飲むのに適してるとは言えなさそうだね」
そう言って座面をポンポン叩くと、ダンピングの利かないスプリングが家具を労わらない客に不満でも漏らすかのように、ボヨンボヨンと頼りなく跳ねた。
「でしょーっ! 私もそう言ってるのに、お母さんって全く人の意見は聞かないんだから」
そう言いながらも、特に怒った様子は見られない。
「で、今日はお店、休みなの?」
「ううん、営業日だよ。でも、別に儲けようとか思ってないから、夕方5時にはお店閉めちゃうんだ、お母さん。んで家に帰って、晩御飯の支度とかするの」
「へぇ・・・」
「で、入れ代わりに学校帰りの私がお店に来て、後片付けを仰せ付かってるってわけ。そのバイト代として、毎月のお小遣いが支払われるっていうシステムなのよ、ウチは」
「な~るほど、そういう訳か。全てがクリアになったよ」
「うふふ。じゃぁ、そこに座って待ってて。後片付けしながらコーヒー煎れて上げるから。私特製の『悦子スペシャルブレンド』だからね。他では飲めないよ」
「そりゃ、楽しみだ」
「あっ、ウチの店、マンガとかは置いてないから、スマホでも弄ってて」
洗い物の合間に悦子が棚のCDプレイヤーを立ち上げていくつかのボタンを操作すると、緩やかなピアノが聞こえ始めた。少しボリュームは控え目だ。それは、ナディムの聴かないタイプの音楽だったが、ピアニストが奏でる儚げな旋律はそれを聴く人の心にじんわりと浸み込むようで、何とも言えず心地良かった。ナディムは懐から取り出したスマホの操作を中断し、カウンター奥で立ち回る悦子に声を掛けた。
「この曲、なんて曲? 誰が弾いてるの?」
悦子は両手を忙しく動かしながら、視線だけをナディムに返して微笑んだ。
「ビル・エヴァンスのMy Foolish Heart」
「ジャズ、聴くんだ・・・ え、悦子は・・・?」
いきなり女の子の名前を呼び捨てにするのは照れ臭かった。でも、そう呼んでくれと言われているのだから、仕方が無いではないか。ナディムは自分の顔が、少し熱くなるのを感じていた。自分がこれまで、呼び捨てにした女の子と言えば・・・ そこまで考えたところで、悦子が彼の思考を断ち切った。
「うん、ピアノトリオが好きなんだ。お母さんはクラッシック派だけどね」
「そっか・・・ 僕もジャズ、聴いてみようかな」
悦子の目が輝いた。
「聴いてみなよ、CD貸してあげるから。ナディムはギター弾いててロックが好きみたいだけど、色んな音楽を聴くのは良いことだと思うよ」
「そうだね」
そんな会話をしながらナディムがまたスマホを弄り始めると、悦子が煎れるコーヒーの香りが漂い始めた。店の外は既に日が落ちて、通りを行き交う車の音が閉められたカーテン越しのガラス窓を通して漏れ伝わって来る。ナディムはこの店が、物凄く気に入った。落ち着いた空間。それはきっと、そこに悦子がいるということも大きな要素なのだろう。ナディムはソファの上で「うん」と伸びをした。
その時、後片付けを終えた悦子が、カップに注いだ『悦子スペシャルブレンド』を手に近付いてきた。ナディムが「ありがとう」と言ってそれを受取ろうと手を伸ばすと、そのカップは彼の前を素通りし、向かいのテーブルの上にそっと置かれた。ナディムが「えっ?」と言って悦子の顔を見上げた途端、彼女はナディムの両肩に手を置いてグィと体重を乗せた。思わずナディムの身体は押し倒され、三人掛けソファの上で仰向けになる。悦子はその腹の上に馬乗りになり、そして彼の顔を見下ろした。
暫く二人は見つめ合っていた。二人を包み込むように、ビル・エヴァンスが満ちている。悦子は両手でナディムの顔を挟み込むように抑えると、ゆっくりと顔を近付けた。そして彼に覆い被さるようにして唇を重ねた。ナディムは何の抵抗もせず、その唇を受け止める。耳にかけた悦子の髪がパサリと滑り落ち、ナディムの頬を撫でた。その時、ほのかなシャンプーの香りがしたと彼は思った。
彼の上に跨ったまま悦子は身体を起こす。またしても二人の顔の間には距離が開き、見下ろす者と見上げる者の関係になった。悦子は制服の首に巻かれたリボンタイをスルリと解きほぐし、それを抜き取った。
「知ってた? 女の子にだって性欲は有るんだよ」
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