第三章:サンライズ・ミュージック
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中学時代の学ランとは異なり、ブレザーにネクタイという出で立ちはナディムに不思議な気持ちを想起させた。そういった服装に慣れていないことも有り、詰襟よりもむしろ堅苦しさを感じさせる。とは言うものの、同級生の男子生徒の多くは ──特に二、三年生の先輩たちは── 適度に着崩して、いかにも私立高校という雰囲気が、学校全体のカラーを緩いものにしていた。女子生徒もそのスカートは短めで、制服の可愛さで学校選ぶ女子が多いという話は本当のようだ。
偏差値レベル的には中の上、ないしは上の下。決して県下有数の進学校とは言えないが、学級崩壊が起こっているような問題校でもない。毎年、そこそこの大学にそこそこの人数が進学している。父、英一郎がこの地へと転勤となったのを機に、福岡のとある私立高校にナディムは進学いていた。
しかしナディムには、この転勤の裏に父の
しかし・・・ とナディムは思う。自分が悪者としてあの地を去れば、幾分なりとも絵理奈の負った傷に対する世間の目も穏やかになるのではないのだろうか。何処の誰かも判らない男に犯されたとされるよりは、幼馴染の男子との
元来、学業成績は優秀なナディムである。その独特な外見と相まって、彼は直ぐにクラスの中心的存在となっていった。見た目とは異なる中身は完全な日本人で、その不思議なギャップも彼が人気者となる要素の一因であろう。クラスメイトたちは彼の人柄を知るにつれ、どんどんナディムの周りに集まるようになり、彼はいつでもクラスの笑いの渦の中心にいた。
クラブ活動は、中学校時代の延長で軽音楽部に入部していた。痩せ型で長身のナディムがギターを弾く姿は一種浮世離れした雰囲気を漂わせ ──技術的にはもう少し経験が必要だったが── 女子生徒の中には、彼にほのかな恋心を抱く者も少なくなかった。直己に殴られたせいで前歯が一本抜け落ちたホッケー選手のような顔も、彼女たちの恋心を冷めさせる程の欠点とはならなかったのだ。時には勇気を振り絞って告白する女生徒も現れたが、そういった時は決まって「他に大好きな女の子がいるから」と断り、その
そんなクラスメイトたちがナディムをリーダーへと担ぎ上げる切っ掛けは、直ぐに訪れた。一学期の期末テストである。この高校に入学して最初の大きな試験である。一学期に習った内容の総まとめに加え、中学時代の基礎学力の確認という意味合も含まれたテストは、一夜漬けなどでは乗り切れるものではない。どんなに要領の良い生徒でも、或いはたまたま山勘が当たった生徒でも、思ったほどの高得点は望めないのだ。そこでナディムは学年順位2位という好成績を納め、クラスメイトたちから尊敬の眼差しを集めることとなった。お互いの学力や素性が判らない一年の一学期には、付属中学から上がってきた
ただ、この学校に関連する全ての人間が、そういったナディムを無条件に受け入れてくれるわけではなかった。その冷酷な事実に直面する時が、ヒタヒタと足音を忍ばせて彼の後ろから近付いて来ているのを、ナディム自身は感じることが出来なかった。
ナディムが高校生活初めての夏休みを満喫中、JSBの社員向けグラウンドでは、毎年恒例の納涼祭が催されていた。普段は社内有志のサッカーチームや、近隣の少年サッカーチーム、少年野球チームが練習を行うグラウンドも、この時だけは華やかな夏祭りの雰囲気だ。リンゴ飴やかき氷、たこ焼きや焼きそばなどの屋台が立ち並び、急ごしらえの特設ステージでは各部署からの趣向を凝らした出し物などが演じられている。モノマネする部署有り、カラオケする部署有り。大声でヤジを飛ばしたり、真剣に声援を送ったり。それは社員同士の親睦を深め、様々なシーンでのチームワークや一体感を醸成する為の、大規模で和やかな年中行事である。毎年、納涼祭実行委員会は目玉として芸能人を呼んだりしていて、先ほどまでは最近ブレイクした女性お笑い芸人のコンビが壇上に上がり、観客席を笑わせていたところだ。そのお笑いコンビに続き、10分ほどの休憩を挟んだ次のコーナーでは、関連会社の社員たちによる出し物となった。それには子会社だけでなく、関係の深い出入り業者や、或いは食堂や売店に入っている業者なども含まれている。そんな中に、絵理奈の勤めるスマイル・チャレンジドも含まれていた。
スマイル・チャレンジドの森下いづみは子供たちに楽器を持たせ、簡単な演奏会を指揮していた。楽器と言っても、その多くはタンバリンやカスタネット、トライアングルといったシンプルな楽器が多く、ごく少数のピアノ経験者らがピアニカなどを使って文部省唱歌を奏でた。勿論、集団行動の取れない子供たちが多いので大した演奏は出来ない。それでもいづみはバラバラになりそうなメンバーを必死で引っ張り、なんとかして中断させることなく最後まで演奏を終わらせることに成功したのだ。その一生懸命な子供たちの姿を目にした観客からも、暖かな声援が投げかけられた。
そして最後に、絵理奈がステージの中央に立った。スマイル・チャレンジド内でも「絵理奈は歌が上手だ」という評判が上がり、特別に締めの一曲として彼女の独唱が用意されたのだ。昨年の妊娠、流産騒ぎ以降、塞ぎがちな絵里奈が、以前のおおらかさを少しでも取り戻してくれたらいいという、いづみの心遣いでもあったし、事を公にせずもみ消した形になってしまったことへの、罪滅ぼしの気持ちも多分に含まれていた。
いづみがそのアイデアを絵理奈に伝えた時、彼女は喜ぶ風でもなく、嫌がる素振りも見せず、ただ無表情に「はい」と答えただけだった。そして、どの曲を歌うのかと尋ねると、絵理奈はいづみの前で突然、その曲を歌い始めたのだ。会社の会議室という無機質な空間であっても、絵理奈と向かい合わせで聴く歌声は美しかった。その歌詞の向こう側に広がる風景が、ありありと瞼に浮かんだ。その透明な響きが心に染み込み、いづみは時を忘れて聴き惚れてしまったほどだ。ひょっとしたら絵里奈は、曲のタイトルは知らないのかもしれない。いづみもまた、その曲名までは知らなかったが、何度か聴いたことが有る昔の曲だ。かなり昔の曲だったはずだ。後からカラオケを探し出すため、いづみは歌い出し部分の台詞を自分のノートに書き留めた。
曲名は直ぐに判明した。帰宅後、ネット検索で歌詞の冒頭部分を入力すると、直ぐさまその答えが見つかった。スキータ・デイヴィスの "The end of the world" だ。検索エンジンのリンクをクリックするとYouTubeに飛ぶ。アプリが立ち上がって曲が始まるのを待つその間も、いづみの心の中では絵理奈の切なくなるような歌声がリフレインしている。暫くすると物悲し気なアルペジオとストリングスの前奏が始まり、会議室で絵理奈が歌ったものと同じ曲が流れ始めた。ディスプレイに現れたスキータ・デイヴィスの姿と絵理奈が重なる。どうして彼女たちの歌声は、こんなにも人の心を揺さぶるのだろう。武装する心の鎧の隙間にそっと手を差し入れて、抗う暇も与えずに丸裸にされてしまう。そんな無防備な心は、母親の腕に抱かれる赤子の様になされるがままだ。3分足らずの短い曲だった。それでも聴き終えたいづみの心は、冷水を湛えた山上湖の底に沈む石のように、時の流れに静かに同期し、深い沈黙の影をその身に映し込んでいた。
心地よい余韻にいつまでも浸っていたいという、甘い誘惑に負けそうな自分に鞭を打って我に返ったいづみは、自分が直面する難題に気が付いた。問題は、そのカラオケだ。1962年に発売された曲のカラオケなど見つかるはずも無いではないか。かと言ってスマイル・チャレンジドの皆に伴奏させるなど不可能だ。いっそのことアカペラで歌ってもらおうか。
いづみが頭を抱えていると、JSB本社に勤める夫、昌夫 ──いづみがまだJSB本体で働いていた頃の同僚で、8年前に社内結婚していた── が帰宅した。そして、難しい顔をする妻の前に有るタブレットを覗き込む。
「スキータ・デイヴィス? 随分と古いの聴いてるね?」
「うん、この曲のカラオケ音源を探してるんだけど、見つからなくて」
「俺が生まれる前だもんなぁ・・・ あっ、そうだ!」
「何?」
「その曲だったらカーペンターズがリメイクしてるから、ひょっとしたら、そっちの方で検索すればヒットするかも」
「カーペンターズ!?」
グラウンドにパイプ椅子を並べた観客席は、八割方埋め尽くされていた。家族連れや仲の良い同僚たちが、アメリカンドッグなどを頬張りながら談笑しつつ、ステージを見上げている。会場の両脇に軒を連ねる屋台の前には、何を買おうか迷いながら行き交う何重もの人波が途絶えることは無く、店主らの活きの良い声が響いていた。あちこちで発電機のエンジンが唸りを上げ、グラウンド脇を通る道路では、通り過ぎる車が時折クラクションを鳴らした。この納涼祭は社員のためだけでなく、近隣の住人にも門戸を開いている。従い、近所の中学生、高校生にとっては、子供の頃から繰り返されてきた
それぞれの想いでざわつく会場に、静かにイントロが流れ始めた。センターに立つ絵理奈の後ろには、スマイル・チャレンジドの仲間たちが黙って控えている。子供たちの脇に立ついづみは、祈る様な気持ちで絵里奈の後姿を見ていた。
絵理奈の歌声は会場の喧騒に覆いつくされ、殆どの観客は注意を払ってはいない。だが、息を飲むような静けさが、徐々に会場に広がり始めた。スマイル・チャレンジドの子が披露する歌など誰も期待はしていなかったのに、観客は次第に彼女の声に引き込まれ、壇上の絵理奈をジッと見つめた。それでも歌などには興味の無い者は居るものだ。ビールで酔っぱらった誰かの大声が静まり返った会場に木霊し、かえってその静けさを強調した。それぞれてんでの方向を向いて屋台の前を歩いていた者たちは、多くがその足を止めステージを振り返る。そこにはマイクに向かって無心で歌い続ける絵理奈の姿が有った。
絵里奈が歌い終わった時、浴衣を着た女子は、大好きな男子の手を握りしめていた。赤ん坊を抱いた母親は、我が子の柔らかな頭に頬ずりしながら、その柔らかな匂いを嗅いでいた。仕事で上手くいっていない男は、もう一度立ち上がり前を向く勇気を獲得していた。大きな決断を迫られていた者は、決意の籠った脚でグラウンドに生える雑草を蹴飛ばしていた。そしてその誰もが、目に一杯の涙を湛え、或いは頬を伝う涙を拭い、またある者は堪え切れない嗚咽に肩を震わせ、絵理奈から受け取った何かを大事そうに抱き締めていた。
そして会場が喝采に包まれると、またしても絵理奈はどうして良いのか判らなくなった。中学の時の学園祭と同じだ。あの時はナディムが優しく肩を叩いてくれたっけ。そして今は・・・
「絵理奈ちゃん、素敵だったわよ」
潤んだ目で拍手をしながら、絵理奈の背後からいづみが近付いた。彼女の方を振り向いた絵理奈はニコリと笑った。
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