2-4

 英一郎が絵里奈の妊娠騒ぎを聞いたのは、九州への出張から帰ってきて直ぐのことであった。そして、その赤ん坊も既に絵里奈の体内には居ないことも。事の次第をサビーナから聞いても埒が明かない。英一郎は直ぐにナディムの部屋のドアをノックした。

 「入るぞ、ナディム」

 中から返事は無かった。英一郎はそっとノブを回して息子の部屋に入る。部屋の中は薄暗く、ナディムのいる一角だけが電気スタンドによって明るく浮き上がっている。彼は部屋の入り口に背中を向け、その人工的な灯りの下で勉強していた。いや、勉強する振りをしていただけかもしれない。

 「絵里奈ちゃんの件は聞いた・・・」

 「・・・・・・」

 ナディムは机に向かったまま、しきりにシャープペンを走らせている。ただし、背中で話を聞いていることは伝わってきた。何と尋ねれば良いのだろうか? 英一郎は言葉を探した。何と答えればよいのだろうか? ナディムも言葉を探していた。二人の間に横たわる問題を、どう扱えば良いのか判らない。ここでそれ・・について話し合ったところで、解決策や次善策を導き出せるわけでもない。かと言って、それ・・に触れずにいることは許されない。それ・・が問題であるということを明確に認識し、そしてその全体像を掴む。きっとそれしか出来ないだろう。

 「絵里奈ちゃんを妊娠させたのはお前か?」

 沈黙が部屋を満たした。ナディムの走らせるペンの音だけが、薄暗い空間を埋め尽くしていた。その音は消えることも無く、空気中を漂う霧の様に部屋に充満していた。

 「絵里奈ちゃんを妊娠させたのはお前なのか、ナディム?」

 一方で英一郎には確信が有った。絵里奈の子供の父親は、決してナディムではないと。彼がそんなことをするはずは無いと。それでも反応を示さないナディムの背後に進み寄った英一郎は、彼の左肩辺りのシャツを鷲掴みにして、無理やり振り向かせた。

 「何とか言えっ、ナディム!」

 自分の肩越しに英一郎の顔を見上げたナディムの顔は醜く腫れ上がり、見るも無残な姿を晒していた。あちこちに絆創膏が貼られ、パックリと口を開けた傷口も見受けられる。だが英一郎の視線が捉えたのはそんな傷ではなかった。その奥に湛えられた静かな沼のような瞳に、彼の心は奪われたのだ。そこに満たされているのは、怒りでもなく絶望でもなく、ましてや弁明や釈明などでもなく、深く透明な悲しみだけだった。

 その悲観の深淵を覗き込む度、英一郎の心には慣れ親しんだあの感情が浮かび上がって来る。日本とバングラデシュの混血として生を受けてしまった彼が、その生い立ちによって辛い目に遭ってしまうのは、半分は・・・ いや、その全ては自分のせいである。ナディムが英一郎の前で泣きごとを言うことは無いが、きっと様々な辛苦を舐めさせられてきたに違いない。そんな時、彼はいつも哀惜の籠った視線を英一郎に投げかけるのだ。

 「どうして僕はこんななの?」

 「僕はこれからどうしたらいいの?」

 そう問いかけられているような気がして、英一郎はいつも言葉を失った。息子には強くなって貰いたい。だが「困難に立ち向かえ」とは言えない。だってその元凶は自分なのだから。ナディム自身には、そのような苦痛を甘んじて受けねばならない責任などは一切無いのだから。いっそのこと、責めて欲しかった。「お父さんのせいで僕はこんな目に遭うんだ」そう言って彼の心に鬱積する感情をぶつけてくれたら、きっと楽になれるのに。ある種の後悔の念に苛まれた英一郎は、贖罪を求めて首を垂れた。自分の悔恨こそがナディムに対する凌辱であることを、自分の弱さこそがナディムという命に対する冒涜であることは判っているのに。

 今のナディムは、その時の・・・・目をしている。彼の身だけでなく、おそらくは絵理奈の身にも痛みを伴う何かが起こったのだろう。だが絵里奈を襲ったであろう何か・・は、ある意味明白ではないのか。もし、その子の父親がナディムではないのだとしたら・・・ ナディムはそれを一人で抱え込むつもりなのだ。彼がそう決心をした時、何者もそれを変えることは出来ない事を英一郎は知っている。かける言葉すら失った父親は弱弱しく首を振りながら、息子の服を掴む手を離した。

 「いつかは話してくれよな」

 英一郎は今まで自分が掴んでいたナディムの肩をポンポンと叩くと、そのまま部屋から出て行った。


 直己の口は軽かった。いつになく上機嫌で口数が多い。それもそのはず、絵理奈が流産したのだから。あの忌々しくも不快な少年の子供が流れたのだ。その子を産ませるとまで言い切った妻の、理解し難い思考回路の根底にあった前提条件が崩れたのだ。全ては彼にとって良い・・方向に流れていた。

 その嬉々とした直己の顔を苦々しい想いで、千夏は見つめた。

 「あなた、自分のやっていることが判ってるの?」

 「何の話だ?」

 直己には、千夏が何の話をしているのか、本当に判らなかった。自分は何も間違ったことはしていないし、自分が持つ権利の範疇を逸脱したことは何もしていないつもりだ。

 「あなた、ナディムのことを色々と触れ回ってるそうね? 学校にも匿名で・・・」

 「犯罪者を断罪して何が悪い? 被害者家族として当然の心情なんじゃないのか?」

 平気な顔をして詭弁を垂れる夫を見て、千夏は深いため息をついた。

 「だったら何故、警察に届けないの? 被害者なら当然の事でしょ?」

 「馬鹿。そんなことをしたら絵理奈が傷付くじゃないか。女のくせに、そんなことも判らないのか?」

 その善人面を見ていると、心の中に沸々と怒りが込みあがって来るのを感じた。自分がどの程度の人間か、周りに気付かれていないと信じ切っていいるその姿が、滑稽でもあり哀れでもあった。

 「違うわ。あなたがしたいのはナディムを陥れること。絵里奈の事なんか考えてなくて、彼を痛めつけることが目的なんでしょ?」

 「そんなわけ、有るはず無いじゃないかっ!」

 まだ言うのか? ひょっとしてこの男は、自分がどの程度・・・・の人間なのか、本当に判っていないのか? だとしたらもう救いようが無いではないか。何故こんな男と長年連れ添ってしまったのだ。千夏は、自分の愚かさを突き付けられているような気がして、自然と口調が尖っていった。

 「警察に届けて、もしナディム以外の犯人が検挙されたら、彼を攻撃することが出来なくなる。だからあなたは被害届を出さないのよ! 違う!?」

 「違うと言っているだろっ! 俺は自分が正しいと思うことをやっているだけだ。あんな奴は・・・ いや、あんな家族はこの街にいて欲しくないと、皆が思っているんだ。俺の知り合いは、皆そう言っている!」

 こんな幼稚な人間を相手に、何と言えばいいのか判らなくなった。絵里奈という特殊な子供・・・・・しか育てた経験の無い千夏には、幼い子供に噛んで含ませるような対処は身に付いていないのだ。

 「誰よ、その『みんな』って? あなたが嘘を吹き込んだ人たちのこと?」

 「そんな子供じみた反論をするんじゃない。バカバカしい」

 直己は憤慨して顔を背けた。彼は理詰めで持論が論破されることに慣れてはいなかった。だが千夏は、直己の考え方が間違っているということを、彼に判らせるという行為に何の生産性も感じてはいなかった。もう、どうでも良かった。

 「正しいかどうかなんて、誰にも判らない。たとえ全ての人類が信じていたとしても、それが正しいことかどうかなんて誰が判断できると言うの? でもね、ただ一つ明らかな事が有るわ。それは、正しいとか正しくないとかという問題じゃない」

 直己は不機嫌そうに千夏を見た。千夏は無表情な視線を返した。

 「自分が正しいと思うことなら、誰かを傷付けても許されるってわけじゃないってことよ」

 「・・・・・・」

 「これ以上、彼女を傷付けないで。絵里奈を守れるのはあなたじゃないの」

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