2-3
そんな騒ぎが有ったことも知らず、翌朝の絵里奈はご機嫌に家を出た。自分の出社がてら、彼女を車で送る直己の額には大袈裟とも思える絆創膏が張り付けられている。あれ以降、夫婦の間に会話は無い。さらに言えば今後、直己と千夏の関係がどうなってしまうのか、それすら彼には確信が持てないのであった。つまり、伊藤家のパワーバランスが変わってしまったのだ。これまで直己がその頂点に立ち、家庭内のあらゆる問題に対する決定権が自分に委ねられていると信じていた直己は、それが何の根拠も裏付けも無い独善であったことに気付かされた格好だ。ある一線 ──直己はそんなものが存在することすら考えた事も無かったのだが── を越えた時、従順だった千夏が烈火の如く憤慨し、自分に対して牙を剥くという事実を目の当たりにした今、どうやって彼女と向き合えば良いのだろう? 当面の課題である絵理奈の妊娠に関し、二人が意見交換する場は今後も持たれるのだろうか? いや、むしろそのような場が設けられたとして、いったい自分はどう主張すれば良いのだろうか? ひょっとしたら千夏は、既に自分の意見など求めてはおらず、昨夜のあの電気ポットが最後通告だったのかも知れない。ただ、今朝の千夏の様子からは、直己に対する怒りのようなものは一切感じられなかったわけだが、果たしてそれが良い兆候なのかそうでないのか、それすら直己には計り知れないのであった。
そんなことをボンヤリと考えていた直己は、いつの間にか車を降りた絵理奈が、JSBの正門に向かって歩き去ったことにすら気付かなかった程だった。
いつも通りの清掃作業が始まった。絵里奈は担当の事務所に足を踏み入れた。そこには、忙しそうなJSBの社員たちが、ある者は歩き、ある者は机でパソコンを睨みつけ、またある者は電話に向かって大声を上げていた。その奥の、皆とは少し離れた場所にデスクを構える山野井もまた、他と同じように書類に目を通すのに忙しそうだ。あの一件以来、彼は絵里奈と目を合せようとはしない。それでも絵理奈は平気だった。山野井との約束通り、
モップで床を拭きながら山野井のデスクの前まで来た時、絵理奈は元気よく挨拶をした。女監督に指示された通りにだ。
「こんにちはー」
山野井は一瞬だけ動きを止めたが、その声で相手が誰であるか判ったようだ。顔を上げる事も無しに「あぁ、こんにちは」と返した。しかしその時、既に絵理奈は彼のデスク前を通り過ぎてその奥の床磨きに集中していた。そこは山野井が絵里奈を押し倒し、下着を脱がせ、性器をまさぐり、そして犯した場所だった。それでも絵理奈は、何事も無かったかのようにそこを磨き続けた。床に残る何かの染みを拭い去ろうと力を込めて。絵里奈にとっては、何も変わらない日々が続いていたのだ。
昼休み、スマイル・チャレンジドの子供たちは休憩室に集まって昼食を採ることになっており、絵里奈はいつも通り、千夏が作ったお弁当を広げていた。監督のいづみもその輪に混ざり、楽し気な会話に華が咲いている。彼女はこうやって皆の様子を観察し、様々な障害を持つ子供たちが上手くやって行けているか、何か仕事上の問題を抱えていないか、注意深く観察するのが仕事の一部となっている。
絵里奈に関しては、スマイル・チャレンジドにやって来た頃とは異なり、徐々にだが皆と打ち解け、口数も増えてきている様だ。彼女の発する言葉にも、少しずつだがバリエーションが付き始め、絵里奈が着実に社会に適用しようとしていることを感じ、いづみはそれを嬉しく思った。
その時、絵里奈を取り巻く二、三人の女の子から楽しそうな笑い声が上がった。いづみは、そちらに笑いかけた。
「楽しそうね? 何か面白いことでもあった?」
その中の一人が言う。
「赤ちゃんが産まれるの」
ビックリしたいづみが聞き返す。
「本当に? 誰のお家に赤ちゃんがやって来るのかな?」
二人ほどが絵里奈を指差した。
「あら、そう! 絵里奈ちゃんのお家に赤ちゃんが産まれるの?」
絵里奈は恥ずかしそうに頷いた。
「じゃぁ、絵里奈ちゃんはお姉ちゃんになるのね?」
しかし絵里奈はポカンとした表情だ。そしてモジモジと言葉を繋いだ。
「ううん・・・ 絵里奈がママになるの」
「えっ?」
「絵里奈のお腹の中に、赤ちゃんがいるの」
いづみは狼狽えた。
「ちょ、ちょっと絵里奈ちゃん・・・ あなた何言ってるの?」
その頃、千夏はサビーナの元を訪れていた。千夏を迎え入れたサビーナは、カルダモンの効いたミルクティーを彼女の前に置かれたティーカップに注いだ。だが何も喋らなかった。そうである。ここで口火を切るべきは千夏の方だ。千夏は一口、そのお茶を口に含むと思い切って話し出した。
「絵里奈が妊娠したの」
「ニンシン?」サビーナの知らない単語だった。千夏が言い直す。
「Pregnantよ」
サビーナが手を口に当て、大きく目を見張った。
「うちの主人が・・・ 直己はナディムがベイビーのパパだと思ってるの」
「ノー、ノー、ノー・・・」サビーナが首を振る。「ナディム、そんなことしない」
「判ってる。私だってそう思ってる・・・ でも・・・ 直己は・・・」
そこで千夏は両手を膝の間に揃え、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。直己がナディムにあんなことして・・・ 本当にごめんなさい」
首を垂れる徹子の肩に、サビーナが左手を添えた。
「ベイビーの本当のパパ、誰?」
千夏は俯いたまま首を振った。その声は涙声だ。
「判らないの・・・ 誰が絵里奈にそんなことを・・・」
今度は両手を添えた。
「ママさん、どうする? ベイビー、どうする?」
「判らない・・・」
それでも顔を上げない千夏に、サビーナが言った。
「もし、ベイビーのパパがナディムなら、ワタシそだてるよ。うちのパパ、きっとOK言う」
「ありがとう・・・ ありがとう、サビーナさん・・・」千夏は両手で顔を覆って、涙ながらに言った。
その時、千夏のスマホがチャイムを鳴らした。直己からメッセージが入った時の音だ。千夏は洟をすすって涙を拭うと、気丈な表情を取り戻しながら「ちょっと、ごめんなさい」と言ってスマホを取り上げた。そしてメッセージアプリを開いた途端、その表情が凍り付いた。会社帰りにJSBに寄って、絵里奈を拾って帰る途中の直己からだ。
” 帰りの車中で絵里奈がお腹が痛いと言い出した。今から興生会病院に向かう ”
「ひっ・・・」
千夏の悲鳴にならない声を聞いたサビーナが心配そうに問いかける。
「どうしたの、ママさん?」
「絵里奈が・・・」
河島家を飛び出した千夏は自宅に走って帰り、自分の軽自動車を急発進させた。そして大急ぎで病院に向かう道すがら、自転車で帰宅途中のナディムとすれ違ったが、彼女はそれに全く気付かなかった。ナディムは猛スピードで走り去る千夏の軽自動車を不思議な面持ちで見送った。
そして自分の家の玄関を開け中に入るや否や、すぐに飛び出してきた。玄関横に立てかけてあった自転車に再び飛び乗ると、玄関に向かって声を上げた。
「お母さん! どこの病院!? どこのHospital!?」
「ゴメンね、ワカラナイ・・・」
「くそっ!」
ナディムはとにかく走り出した。直己に殴られた傷も癒えないままで、大きく体を動かすと、顎や顔のあちこちが痛んだ。それでもナディムは立ち漕ぎの姿勢で、賢明にペダルを蹴った。
それは、ある程度の確率で発生すると言われている初期流産だった。染色体の異常などが原因で、受精時点で結末を提示された、たかだか数週間の人生。運が悪かったとしか言えない。誰のせいでもない。絵理奈の中に芽生えた命は、その道半ばにして消え去る道を選んだだけなのだ。あるいは予め与えられていた細やかな一生を全うしたと考えるべきか。いずれにせよ、誰がその誕生を待ちわびていたとしても、誰がその存在を消し去ろうとしていたとしても、そんなものにはお構いなしに、その命の成長は停止していた。
この事実に最も打ちのめされたのは絵里奈だった。彼女自身、妊娠の意味を理解していたかと問われれば、それは曖昧だ。子供を育てるということが、いったいどういうことか理解していたかと言えば、その答えも「否」であろう。彼女はただ、クリスマスプレゼントに買って貰えると約束された、お人形か何かを待つみたいに思っていたのかもしれない。でも彼女は、確かにその命を待ち望んでいた。その灯を愛おしく思っていた。その暖かさをを待ちわびる心を持っていた。
望まれずに生まれる命も有れば、望まれても生まれない命が有る。さらに言えば、折角生まれたのに、その後に疎まれる命も有る。その運命の振り子がどちらに傾くか、いったい誰が決めているのだろう? そのあまりにも過酷な分岐が、気まぐれな神の采配に依存しているとしたら、それらの命は何にすがれば良いというのか? 誰に恨みつらみを吐露すれば良いのだろう?
泣き叫ぶ絵里奈の声が病室に充満していた。その悲痛な叫びは、それを聞く者の心をえぐり、容赦無くそれをズタズタにした。その声の全てが悲しみに染まり、血を吐くような絶叫が止めどなく続いていた。直己も千夏も、なんとか落ち着けようと声をかけたり抱き締めたり、あるいはナディムを真似て耳を噛んだりしても、何も絵理奈の心には届かない。それどころか、益々ヒステリックに泣き叫ぶ絵理奈に、二人はもう手が付けられなかった。
最後の手段として、担当医が鎮静剤の投与を進言する。この際、他に手段は無い。医師や看護師、それから直己も加わって暴れる絵理奈をうつ伏せにして抑え込み、袖をまくり上げて二の腕を露にした。すると絵理奈の声が悲鳴に変わった。
「いやーーーっ! やめてーーーーーっ!」
バタつく足を、千夏が身体を乗せて押さえつける。
「やめてーーーっ! やめてーーーーーっ! いやーーーっ!」
絵理奈の背中に身体を預けるように体重を乗せ、医師がシリンジを手に取った。茶褐色のアンプルから鎮静剤を移し取り、中の空気を抜く。そして絵理奈の腕にメタノールを浸み込ませた脱脂綿をなおざりに擦り付け、形ばかりの消毒を済ませると、その冷たく光る針先を絵理奈の腕に添えた。
その時、病室のドアが大きな音を立てて開いた。絵里奈以外の全員が動きを止める。そこに立っていたのはナディムだ。当たりを付けて駆け付けた病院には絵理奈が居ないことを知った彼は、直ぐさま別の病院へと自転車を走らせ、二つ目の病院でここに行き当たったのだ。全力で漕ぎ続けた自転車により、彼の息は上がっている。大きく肩で息をしながら、無慈悲な大人たちに取り押さえられて今まさに鎮静剤を投与されつつある絵里奈をナディムは認めた。
しかし、彼が病室に足を踏み入れようとするよりも早く反応したのは直己であった。直己は体重をかけていた絵理奈から体を起こし、若い二人の間に立ちはだかった。
「何しに来たっ!? お前なんか・・・」
彼が最後まで言い切る前に、直己の身体は病室の隅に転がった。力強く踏み出したナディムに、いとも簡単に弾き飛ばされたのだ。床に転がる直己は目を丸くした。そして同時に理解した。この少年の前では、自分などひ弱な老人に過ぎないのだということを。少年の逞しく活力に満ち溢れた体の前では、取るに足らない存在なのだということを。自分がナディムに圧し掛かり、その顔面を殴り付けることが出来たのは、ナディムがそれをされてくれたからだということを。
涙で滲んだ絵里奈の視界に、ナディムの影が映り込んだ。それを見た絵理奈が、両腕を掲げて泣き叫ぶ。丁度、抱っこをせがむ子供のようだ。そんな時、いつだって絵理奈はナディムの姿を求めて泣きわめき、そしていつだって彼が駆け付けてくれた。いつもナディムが絵里奈の傍に居た。それは二人が共に育ったあの頃の風景だ。これまで、何度となく繰り返されてきた二人だけの世界だ。何人たりとも、その領域に入ることは許されない。
ナディムは絵理奈の身体をそっと抱き寄せた。
「大丈夫だよ、絵理奈。辛いことが有ったんだね? でも、もう大丈夫」
そして彼女の耳を優しく噛んだ。絵里奈は彼の左肩に顎を乗せながら目を瞑った。「ひっく、ひっく」と泣きじゃくりながらも、絵理奈は一つ長い息を吐いた。張りつめていた心の糸が、フッと緩んだかのようだ。その繊細な心の糸がプツリと音を立てて切れてしまう前に、ナディムの癒しが彼女の心に沁み込んだのだ。
「んん・・・ んんー・・・」
甘えるような、溜息のような声を上げて絵理奈はナディムの首筋に、自分の顔を埋めた。
「では、このフロアの誰かがおたくの従業員を強姦したと?」
青白い顔をしてそう聞き返す山野井に、いづみは一瞬たじろいだ。その物静かな口調の裏側に、ドロドロと渦巻くような憤怒の脈動を感じたからだ。
「いえ、決してそういう意味では・・・」
「それでは、どういう意味でしょうか?」
なおも沈痛な口調で聴き返す山野井は、ジロリと上目遣いでいづみを見据えた。山野井がこの話に不快感を示すことは判っていた。判ってはいたが、ちゃんと筋道を立てて説明すれば、いづみが絵里奈の身に起こったことを明らかにしたいと思っているだけであることは判って貰えるはずだ。決してJSBの社員を疑っているわけでは無いということを理解してくれるはずだ。
「ただ、彼女が一人作業を行うのは、午前中のこのフロアだけです。午後は複数でMB棟のトイレ掃除に割り当てておりますので」
「だから?」
「ですから、このフロアのどなたかが彼女の様子に・・・ おそらく数か月前だと思いますが、その頃に何か変わったところが無かったか、記憶にある方がいらっしゃるのではないかと・・・」
いづみの話の途中で山野井がテーブルを激しく叩き、いきなり声を荒げた。
「それは、我がJSBの社員に、その強姦犯が居るという前提じゃないのかっ!? 会社の外で、そういう目に遭ったのかもしないじゃないかっ!」
いづみはつい腰を浮かしそうになりながら、必死で答えた。
「あ、あくまでも可能性という意味で・・・」
だが山野井の怒りは治まることを知らなかった。
「いい加減にしたまえっ! 君たちはJSBの特例会社として設立された子会社なんだぞ! そこの社員が親会社の人間に強姦容疑をかけるという意味が判っているのかっ!? 君を海外工場に飛ばすくらい、私にだって出来るんだ!」
山野井は人差し指をいづみの顔に突き付けた。その指がワナワナと震えているのは、抑えきれない怒りのせいだろういづみは思った。それが捨て身の芝居を打つ、崖っぷちに追い詰められた小悪党の身に襲い掛かる恐怖によるものであることを、いづみは見抜くことが出来なかったのだ。これ位の大企業になれば、部長など掃いて捨てるほどいる。たかだか部長ごときにそれだけの人事権など有るはずも無く、トップと一般社員の間を取り持つ
あの
「私としては、貴方の今回の問題行動を騒ぎ立てるつもりは有りません。その妊娠された女性を、これ以上傷付けることになるかもしれないからです。お判り頂けますよね?」
「は、はい・・・」いづみは渋々答えた。
「これ以上、不幸な人を増やさないためにも貴方がしなければならない事、してはならない事・・・ よく考えてみて下さい」
「判りました。出過ぎたことをしてしまい、申し訳ありませんでした」
いづみは深々と頭を下げて席を立ったが、その心中では何も納得はしていなかった。ただ、自分にも生活が有る。それを捨ててまで踏み込むべき案件ではない。いづみはそう自分に言い聞かせた。そしてもう一度、一礼して会議室から退出する彼女の後姿を、山野井は黙って見送った。
今の女監督によれば、あの
いづみの顔を面と向かって指差し、力強く断罪したはずの山野井の右手は、まだ微かに震えていた。その震える手を、あたかも誰か別人の手であるかのように一瞥すると、誰も居ない会議室で「ちっ、下らない」と吐き捨てた。山野井は、いづみが出て行ったドアを開けて自分も退室した。
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