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 何度数えても、勘定が合わなかった。今までこんなことは無かったのに。絵里奈が働き始めて一年が過ぎようとしている。彼女が中学を卒業して以降、伊藤家には微かな光が差し込み、それにすがるように生きてきた。彼女のハンディキャップがその姿を顕在化させて以来、一度たりとも訪れることの無かった安息が我が家に細やかな温もりをもたらしていた。きっと上手くいく。何もかもが良い方向に進んでいる。そんな希望に満ちた、小さな幸せを数えながら過ごしてきた一年であったのに、その光の筋に今、得体の知れない暗雲が立ちはだかろうとしている。千夏はギリギリと奥歯を噛み締めながら、もう何度か目の確認作業を再び始めた。

 「やっぱり数が合わない・・・」

 床に座り込む千夏の前に散らかっているのは生理用品であった。千夏と絵理奈は同じ製品をシェアして使っている。従ってその減り方も定期的で、二人の女性の生理周期に併せて消費されてゆくはずだった。だが、その周期性に破綻が生じていることに気付いたのは、そろそろ追加を購入しようと残量を確認した今朝のことである。千夏は考えた。自分の生理周期に乱れは無い。それなのに、これだけ多くの生理用品が残っているということは・・・


 絵理奈に生理が来ていない。


 無駄だと判っていながら千夏はもう一度、前回の購入日と購入個数、そして前々回からの繰り越し数も大まかに見積もって、二人の消費ペースを勘案した上で正常ならば残っているであろう生理用品の数を算出した。テーブルに広げられたメモ用紙には、乱雑に書きなぐられた数字が並んでいる。数字とはなんと無慈悲な物だろうか。そんな当たり前のことが判らないのか? そう千夏に冷淡な視線を返すかのように、無言で真理を主張していた。そして彼女は倒れ込むようにソファに突っ伏した。その状態で顔だけを窓に向けると、外はもう春の日差しが降り注いでいる。だがその光はこの家の中にだけは差し込まず、ただ寒々しい想いを千夏に抱かせた。何かとんでもない事態が訪れようとしているのだ。


 翌日、千夏は絵理奈に休みを取らせた。だが医者の診断が出るまでは、直己には黙っておこう。無用に事を荒立てたくはないからだ。それに、自分の早とちりだという可能性だって有るではないか。いつの日か、勝手な勇み足でアタフタした自分が笑い話になる日が来ればいいのだ。「陽性」を意味する印の浮き上がった妊娠検査セットを握りしめながらも、なおも千夏はそんな可能性の薄い未来を思い描こうとしていた。現実を直視せず、根拠の無い希望的観測を信じて待つ。それが千夏の生き様なのだ。

 直己が出社した後、ゆっくりと支度をしながら千夏はそれとなく絵理奈に聞いてみたが、彼女から帰って来る答えはどれも的を得ない物ばかりだ。そりゃぁそうだろう。絵理奈は女性が妊娠に至るプロセスに関しては、何の知識も持ってはいないのだから。その行為が彼女の身に起こったかどうかを聞き出すためには、先ずその行為を説明せねばならないが、何と説明すれば良いのだ? 男性の勃起したペニスが、お前のヴァギナに挿入されたことが有るかと聞けば良いとでも言うのか? そんなこと、自分には出来っこない。


 医師の宣告は千夏の心を凍り付かせた。何事も自分の思い通りに進まないのは何故なのだろう? 私がこんな罰を受けるようなことをしたのだろうか? そんなことをボンヤリと考えながら、千夏は医師の説明を聞いていた。医師の方も「おめでとうございます」とは言えない状況であることを理解しているのか、沈痛な面持ちである。

 「あの・・・ もう一度言って頂けますか?」

 それを聞いて理解することを拒む脳は、静かな拒絶反応で千夏自身に抵抗していた。それでも彼女は、その事実を受け止めねばならないのだ。

 「お嬢さんは妊娠四ヶ月です」

 医師は職業がら、なんの感情も含めずに話す訓練でもしているのであろうか。自分と娘に降りかかったこの苦境を知りながら、どうしてそんなに冷静でいられるのか? 千夏は医師に詰め寄った。

 「何かの間違いではありませんか? もう一度、検査しては頂けませんか?」

 すがる様な千夏の顔から視線を逸らした医師は、もう一度言った。

 「お母さん・・・ 間違いは有りません。お嬢さんは妊娠しています」

 千夏がヒステリックに叫ぶ。

 「じゃぁ誰が父親だって言うんですっ!? こんな娘を妊娠させたのは、誰だと言うんですかっ!?」

 「それは・・・ 私の口からは何とも・・・」

 千夏は泣き崩れるように言った。

 「どうすれば良いんですか? これから先、娘はどうやって生きて行けば良いんですか・・・?」

 医師は黙りこくった。倫理的に「中絶しますか?」などと聞くわけにはいかないし、勧めることも出来ない。そういったデリケートな部分は、全てが当事者の手に委ねられているのだ。合法だとか違法だとか、あるいは倫理を持ち出しても、人間の感情は左右されるものではない。千夏は涙をぬぐうよりもむしろ、ハンカチを口に当てながら恨み言を言い続けている。メソメソする彼女がいつまでも席を立とうとしないので、医師はなるべく冷淡な響きが混じらないように気を付けて言った。

 「ご家族の方とよく相談してみて下さい」

 そうして千夏の肩に優しく手を添えると、ピクリと身体を震わせた彼女は、それが引き金となったかのようにノソリと立ち上がった。そして医師に向かって無言で一礼すると、振り向いてドアに向かった。その時、千夏の後ろにいた絵理奈の心は、診察室の壁に所狭しと貼られている医療用ポスターに奪われているようだった。

 「絵理奈ちゃん・・・ 行くよ・・・」

 「あれ」

 絵理奈は返事をする代わりに壁を指差した。

 「あれはお腹の中で育つ赤ちゃんよ。あなたのお腹の中にも居るの」

 「赤ちゃん?」

 「そう。これから私たちは、強くならなきゃダメなの」

 絵理奈は名残惜しそうにポスターに見入りながら、千夏に促されて診察室を渋々後にした。



 伊藤家からは、表を歩く人にも聞こえる程の大声が響いてきた。

 「産ませるとはどういうことだっ!」

 「どういうもこうも無いわ! 文字通りの意味よ! 絵理奈は子供を産みます!」

 「ふ、ふざけるなっ! そもそも誰が父親なんだ!?」

 「それは・・・ 判りません・・・」

 突然、直己は凶悪な顔つきになった。

 「俺は知ってるぞ。アイツだ。あの黒んぼに決まってる」

 「そんな、まだ判らないじゃないの」

 「他に誰が居ると言うんだっ!? そもそもそんな子を産んでどうやって育てるんだ? 絵理奈が親に成れると本気で思ってるのか?」

 「私が産んだことにします。絵里奈の兄弟として、私が責任を持って育てます」

 「黒い赤ん坊をかっ!? 本気で言ってんのか? そんな汚らわしいもの・・の父親になれと、俺に言ってるのか?」

 千夏は黙って直己を睨みつけた。

 「冗談じゃないっ! 俺はごめんだね、黒い赤ん坊なんて! そんなもの・・、とっとと堕ろせば良いんだ! その方が絵里奈の為だってことが判らんのかっ!」

 吐いて捨てるように言う直己に、千夏が毅然と立ち向かう。

 「中絶させる意味を軽く見ないで! 女にとってそれがどういう意味か、真剣に考えた事が有るの!? あなたが仕事で仕入れている野菜とは違うのよっ! 気に入らないからって、戸棚に戻せるものじゃないのよ!」

 直己の顔が真っ赤になった。これまでの従順で直己の言いなりだった千夏は、もうそこには居なかった。会社では上司や横柄な客に対し、米突きバッタの様に低姿勢を通し続けている、いや通さざるを得ない人生の反動として家庭では自分が威張り散らしていることが千夏にバレてしまったのだろうか? そんな細やかな・・・・代償行動すら、もう許されないと言うのか?

 「誰もそんなことは言っとらん! とにかく俺は絶対に認めんからなっ!」

 そう言い残し、直己は乱暴に玄関ドアを開けて家から飛び出した。これもそれも、全てがアイツのせいだ。アイツが全ての元凶なんだ。アイツさえ居なければ、何もかもが上手くゆくはずなんだ。そんなことを呟きながら直己は、夕暮れ迫る町内を肩を怒らせながらズンズンと進んだ。

 河島家の玄関先に立った直己は、力任せに呼び鈴を押した。だが彼の荒ぶる感情をあざ笑うかのように、呼び鈴はいつものように呑気な音を奏でる。呼び鈴までもが俺をバカにするのか! 頭にきた直己が更に強くそれを押し込もうとしたところ、ガチャガチャとドアのロックを外す音が聞こえ、彼の動きが止まった。中からサビーナが顔を出した。

 「エリナちゃんパパ、いらっしゃい・・・」

 そこまで言いかけたサビーナであったが、直己の只ならぬ雰囲気を感じ取って口をつぐむ。そして身の危険を感じたサビーナがドアを閉めようとした瞬間、直己が力任せに玄関ドアを引いた。サビーナが握るドアノブは容易く彼女の手から引き千切られ、代わって大きな音を立てて全開となった。

 直己がサビーナを突き倒すように退けると、彼女は上がり口に置いてあったスリッパ立てなどと一緒に、ガラガラとその場で尻餅をついた。直己はそんなことなど気に留める様子も無く、そのままズカズカとリビングに足を踏み入れる。そこでは、ソファに座ってテレビを見ていたナディムが、玄関から聞こえる大きな音を不審に思い、丁度振り向いたところだった。

 「お母さん、どうしたの・・・」

 ナディムの目が直己の姿を捉えた。同時に直己も、自分たちの人生を台無しにする男の所在を確認した。

 直己はナディムに飛びかかると胸ぐらを掴んでソファから立たせ、そして床に投げつける。何が起こっているのか理解できないナディムは、床で大きく目を剥いた。間髪入れずにその上に馬乗りになると、直己はナディムの顔を殴り付けた。右の拳、左の拳と交互に、直己はナディムの顔を打ち付けた。

 「お前のせいだ! お前のせいだ! お前が悪いっ! 全部、お前だっ!」

 ナディムの前歯が一本欠け落ちて飛び出し、リビングの床に転がった。直己に殴り付けられる度にナディムの顔は右へ左へと振り回されたが、それでも彼の眼だけは直己をジッと見据えたままだ。ナディムは思う。直己が自分を殴り付けている理由は判らない。だがそれは、間違いなく絵理奈に関することだ。直己が自分を疎ましく思っていることは知っているし、苦々しい目で見ていることも、嫌というほど判っている。結局、何を否定しても、何を肯定しても、絵里奈を傷付けることになるに違いないのだ。いや、きっと彼女は既に傷ついているはずだ。

 その時、玄関から走り込んできたサビーナが直己の腕にすがり付いた。

 「ダンナさん! やめて! ダンナさん!」

 しかし直己は、またしてもサビーナを突き飛ばす。そして一瞬だけ彼女に視線をくれると、直ぐさまナディムに向き直ってその暴行を再開した。自分が築き上げてきたこの小さな楼閣が今、音を立てて瓦解しようとしている。全てコイツのせいで。

 「この野郎。この野郎。お前なんか。お前なんか」

 ナディムはこれ以上彼女が傷つく事の無いよう、ただ黙って直己の拳を受け続けた。今の彼が絵里奈にして上げられることは、それしか無いのだ。彼女の為ならば、直己の理不尽な怒りのはけ口に身を晒すこともい躊躇はしない。

 今度は自宅から駆け付けた千夏が姿を現した。飛び出していった直己を見て嫌な予感がした彼女は、急いでその後を追ったのだ。直己の右腕を掴んだ千夏が絶叫する。

 「あなたっ! やめてっ!」

 直己はその手を振り払うが、荒くなった息は絶え絶えだ。力を失いつつある拳で、その動きを続けようとする。しかし、満身の力を込めて殴り続けるには、直己は歳をとり過ぎていた。

 「くそっ・・・ くそっ・・・ くそっ・・・」

 そして直己がくたびれた右腕を振り上げて、最後の一撃を加えようとした瞬間、側頭部に強烈な衝撃を感じて身体が横に吹き飛んだ。訳が判らず顔を上げた直己が見たものは、白い電気ポットを掴んで仁王立ちする千夏の姿であった。

 千夏はゆっくりとそのポットを振りかざすと、再び直己の頭めがけて振り下ろす。

 「や、やめろーーーっ!」

 自分を庇う為に掲げられた直己の手はポットの重量に弾き飛ばされた。グシャリという嫌な音を残してポットが直己の頭を直撃すると、それは大きく変形しつつ蓋が開いて中のお湯が直己に降り注いだ。運良く、それは熱湯ではなかったものの、頭から被ったお湯で全身はびしょ濡れとなり、顔を滴るそれは鉄の味がした。きっと頭部の何処かを切ったのだろう。直己自身には判らなかったが、自分の顔は出血により赤く染まっているに違いない。視界の隅には、口に手を当てて驚愕の表情を張り付けたサビーナが見える。だがそれよりも、妻から暴力を受けたことの方がショックで直己は呆然としていた。ひしゃげた電気ポットを握り締め、自分の前に立ちはだかる千夏に恐怖すら覚えた。

 「な、なんてことをするんだ・・・」

 千夏はその手に持つ、かつては電化製品であったガラクタを直己に向かって思い切り投げ付けた。直己は顔を背け、腕を伸ばして自分の顔を庇った。ガラクタは彼の腕に当たって、ガシャリと床に落ちた。

 「人を傷付けてる奴が、誰かに傷付けられたからって文句を言うなっ!」

 「千夏・・・」

 「あんたがやってることは、全部自分の為だっ! 自分のことしか考えてないじゃないかっ!」

 サビーナは両手で顔を覆いながら、その場にしゃがみ込んで泣いている。ナディムは口から流れ出る血を手の甲で拭いつつ、ノソノソと身体を起こす。千夏は両手の拳を握り締めながら、ワナワナと震えて直己を睨み付けている。直己は濡れ鼠のように、片手を突いて座り込んでいる。暫くは立てそうにも無かった。

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