第二章:JSB

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 発達障害を抱える絵理奈は、自宅近くに研究施設を構える大手企業、JSBが設立した就労支援会社「スマイル・チャレンジド」で働くことになった。学校側からの勧めも有り、高校進学は諦めた形だ。主な仕事内容は、その親会社であるJSBのオフィスやトイレなど清掃業務全般の他、社内メール便の配送、あるいは製造現場における簡単な作業なども含まれている。同じ職場で働く仲間たちは、主に13歳から18歳の、絵理奈と同じような問題を抱えている少年少女たちで、勿論、その症状は十人十色だ。ぱっと見、全く問題が見当たらなそうな子もいれば、かなり重度の問題を抱えている子もいた。精神的な問題の子もいれば、肉体的なハンディキャップを抱える子もいる。そんな中で絵理奈は比較的軽度で、充分な注意を払えば適切なコミュニケーションも可能との判断がなされ、人と触れ合わざるを得ない職場、つまり事務所の清掃作業が割り振られていた。

 学校では誰とも口を利こうとしなかった絵理奈であったが、彼ら彼女らを監督する立場の職員、森下いづみ ──彼女はJSBから出向という形で来ていた── から、親会社の人とすれ違う時は、大きな声で挨拶をするようにと指導を受けている。絵理奈はその言いつけを守り、誰とすれ違う時も「こんにちはー」と言うのを欠かさないが、例によって相手の顔を見て話すことをしない絵理奈は、同じ人とすれ違う度に、同じように挨拶を繰り返すのであった。それが、少し変なことであることなど、絵理奈は知らないのだ。

 毎日決まった時間に出社し、決まった業務をこなして、決まった時間に帰宅するという日々が続いた。彼女の両親は一生懸命に働く娘の姿を見て、無理に高校などに進学させなくて良かったと、自分たちの決断が間違いで無かったことに確証を得て胸を撫で下ろした。これなら絵理奈も自立できるのではないか。このまま普通の女性として、幸せな家庭を持つ事すら可能なのではないか。そんな期待が両親に希望を与えた。特に直己は、ナディムの存在無しに立派にやっている絵理奈を誇りに思い、この上も無く上機嫌に車を出し、娘の通勤の送迎をかって出ていた。


 そんなある日、JSBに出社した絵理奈は、会社の中が閑散としていることに気が付いた。何が目的かは知らないし、何処に行くのかも知らないが、いつもなら大勢の人たちが色んな方向に行き交う、目の回る様な会社内に殆ど人が居ないのだ。何となく不思議に思いながら、同じ事業所の一角にあるスマイル・チャレンジドの控室に入って始業チャイムが鳴るのを待っていると、監督の女性 ──絵理奈はどうしてもこの人の、森下いづみという名前を覚えられなかった── が入ってきて皆を集めた。

 「皆さん、もう気付いているかもしれませんが、今日はJSBの人たちは殆ど居ません」

 その場にいた少年少女たちは、お互いに顔を見合わせた。

 「今日はJSBの創立記念日で会社はお休みです。ですが、一部の人が会社に来てお仕事をしているので、スマイル・チャレンジドの皆さんは今日もいつもと同じようにお仕事をして下さいね。あっ、それから工場の方はいつも通り稼働していますから、あっちの方には人が沢山居ると思いますよ。宜しいですか?」

 一部の者たちから「はーい」というバラバラの返事が返ってきた。絵理奈には彼女の説明が良く判らなかったが、とにかくいつものように働けば良いらしい。始業チャイムが鳴ると、各自は自分の受け持ちのエリアに向かって、散り散りに消えて行った。


 絵理奈が受け持ちの事務所に足を踏み入れると、殆どの照明が落された薄暗い空間が姿を現した。その一部だけが、机に備え付けた電気スタンドによってボンヤリと明るく浮かび上がっている。多分、仕事熱心な誰かが一人で仕事をしているのだろう。だが、そんなことは絵理奈には関係が無い。いつも通り、ルーティン化された清掃業務を開始した。

 先ずは軽く掃き掃除を行い、目立ったゴミを回収してゆく。その後、固く絞ったモップで床を拭き上げるのが彼女に与えられた業務だ。それなりに広い事務所ではあったが、その作業に半日を費やすことが絵理奈には許されている。いつも絵理奈は一人で、時間をかけてその事務所全体を磨き上げるのだ。そうした作業の後に自分が成した仕事を振り返ると、黒ずんでいた床が幾分明るさを取り戻し、なんだか凄く綺麗になったような気がした。机の脚に引っ掛かっている埃を取り除いた時は、かつて味わったことの無い達成感が彼女を満たした。これまで掃除という行為に興味など持ったことは無かったが、就職してこの仕事をするようになり、そこで初めて清掃後の清々しさを知った。彼女にとってそれは決して楽な仕事ではなかったが、生まれて初めて仕事を面白いと感じたのだ。

 絵理奈が夢中になって床を磨いていると、先の一角だけ明るかったデスクの前まで来ていた。そこでは、このフロア全体を占める製品企画部の部長、山野井が一人でパソコンに向かって難しい顔をしていた。絵理奈は言いつけ通り、大きな声で挨拶をする。

 「こんにちはー」

 山野井は少し視線を上げ、いつもの子が清掃しているのを認めた。創立記念日で皆が休んでいるのに、スマイル・チャレンジドの子たちは仕事をしているのか。そんな風に思った。

 「あ、あぁ、こんにちは。ご苦労さんです」

 そして再びパソコンに向かい、キーボードを叩き始めた。絵理奈はモップで床を擦りながら、山野井の机の前を通り過ぎた。


 午前中いっぱいの時間をかけ、絵理奈は事務所の端から端までを磨き上げた。入り口から反対側の壁まで到達した彼女は、額に滲む汗と筋肉痛を訴える腕、それから心地よい疲労感を感じながらスタート地点、つまり事務所入り口へと向かった。自分が磨いた床は、照明の落された薄暗い事務所にあっても窓から差し込む光をピカピカと反射して、絵理奈の心を弾ませた。やっぱり掃除は楽しいと彼女は思った。その時、先ほどの山野井のデスク前を通り過ぎる際に、今はその席が空席になっていることに気が付いた。いつの間にか何処かへ行ってしまったのだろう。電気スタンドが点けっ放しなので、少し早めの昼食に出ているだけかもしれない。だが、元々周りのことなど気にしない絵理奈であるから、彼がそこに居ようが居まいが関係は無いのだが。

 その時、背後でカタリという音が聞こえ、絵理奈は振り返った。そして彼女が、その音の発生源を特定する暇も与えず、それはいきなり圧し掛かってきた。思わず後ずさりしたが、絵理奈はそのまま自分が磨いたフロアに押し倒されてしまう。その時になってやっと、それが先ほどの山野井であることを知った。

 絵理奈はどうしたらいいのか判らなかった。あの監督の女性からは「JSBの社員さんには丁寧に対応しなさい」と教え込まれている。かと言って、自分の上にのしかかるこの男性をそのままにしておくことは、自分の本能が嫌がっている。絵理奈の心の中で危険信号が点滅し、警報がけたたましく鳴り響いた。そうやって彼女が声にならない悲鳴を上げていると、遂に山野井は絵理奈の服に手を掛けた。もう我慢が出来なかった。「嫌だ! やめて!」絵理奈が声を上げた。

 だがその声も、山野井の暴走した欲望にブレーキをかけることは出来なかった。いやむしろ、その声が彼の蛮行をエスカレートさせているようだ。山野井は絵理奈の着る作業服の前を強引に押し開き、下に着ていたTシャツをたくし上げる。するとベージュ色の大人しいブラジャーが現れ、山野井はそれも乱暴に引き上げた。年齢的には既に高校生となった絵理奈の無垢な乳房が露出した。「嫌っ! 嫌だっ! やめてっ!」山野井は両手でその乳房を鷲掴みにすると、そこに顔を埋めて桜色の乳首を吸った。益々激しく絵理奈は叫ぶ。

 「嫌っ! 嫌っ!」

 絵理奈の抵抗もむなしく、山野井の手は既に絵理奈の下半身へと延びていた。身体は絵理奈の上に圧し掛かったままでその動きを制し、左腕は彼女の首の後ろに回されている。それは山野井が学生時代に精を出しインカレにまで出場した経歴を持つ、柔道の縦四方固めだ。彼はこの閉め技で何度となく窮地を乗り切り、所属する柔道部を大会上位にまで導いている。絵理奈が山野井の肩を押し返し、その醜悪な獣を自身から引き剥がそうとするが、その試みも状況を変えることは出来なかった。残った山野井の右手が彼女の腰の布製ベルトに届いたかと思うと、器用にそれを緩めて作業ズボンを一気にずり降ろす。「嫌ーーーっ! 嫌ーーーーーっ!」絵里奈の両足が、釣り上げられた魚のようにフロア上でバタついた。その音は僅かな残響を残して、薄暗い事務所に吸い込まれていく。彼女の小さな下着が露になると、山野井の右手は容赦なくその中へと侵入した。

 その柔らかな部分を乱暴に弄ばれた絵理奈の瞳から涙が溢れ出た。自分が何をされているのかは、彼女自身には良く判らなかったが、それでも嫌なことをされていることは判る。それがどんなことであれ、自分は嫌なのだ。この山野井と言う男と、そういうことをしたくはないのだ。絵理奈の声は、次第に涙交じりのか弱いものへと変わっていった。「嫌・・・ 嫌・・・」

 遂に絵理奈の下着をむしり取った山野井は、彼女の両脚の間に身体を割り込ませた。その時点で既に絵理奈は抵抗する気力を失い、なされるがままだ。右手の甲を口元に持って行き、止めどなく溢れる嗚咽を堪えていると、自分の身体の中に何かが進入してくるのを感じた。何かが自分の中に入り込もうとしている。絵理奈は目をカッと開いた。その、考えたことも無かった事態に再び声を上げた。

 「やめてっ! お願い! やめてーーっ!」


 それが終わった後の山野井は優しかった。そっと絵理奈の身体を抱き起すと、下着やら作業服を手渡してくれた。でも絵理奈は、あんなことをした山野井が嫌いだ。それでも、嫌いな人にどういう態度をとっていいのかも判らない。山野井が差しだす自分の下着を乱暴に奪い取ると、それを抱きかかえるようにして身体を隠した。彼女の顔は山野井から背けられたままだ。そして絵理奈はおずおずと服を着始め、山野井は黙ってそれを見詰めた。

 「君・・・ このことは誰にも言っちゃダメだよ」

 絵理奈は山野井の顔は見なかった。しかし、床を見詰め視界の隅に相手を捉えるその姿勢は、絵理奈が相手の言葉に耳を傾けている時の仕草だ。

 「もし、このことを人に喋ったら、君はこの仕事が出来なくなるんだ。もうJSBには来られなくなるんだよ。いいね?」

 絵理奈は思った。仕事を失うことは彼女にとってどうでも良かったが、大好きな掃除が出来なくなることは凄く嫌だった。このままここで掃除を続けたい。このことを誰にも言わずに黙っていれば、これからも掃除ができるのか。

 絵理奈は山野井から顔を背けたままで、コクリと頷いた。



 その日の就業時間が終わり、絵理奈がJSBの正門から出てきた。同じくスマイル・チャレンジドで働く子供たちと一緒だ。いつものように会社の駐車場に停めた車中で、娘の退社を待つ直己がその姿を見ていた。仲間たちとの別れ際、「バイバーイ」という声に手を振って応えている絵理奈の姿を見た直己は、彼女が徐々にではあるが社会に馴染み始めていることを実感していた。

 助手席に乗り込んだ絵理奈は、いつも通り無言で、直己の問い掛けにも反応は示さない。だが直己の心は喜ばしい気持ちで溢れ返っていた。車を走らせながら考える。そうだ。そうなのだ。発達障害を抱える絵里奈だって、訓練さえ積めば社会に溶け込めるようになるのだ。絵理奈に必要なことはその機会を与えてやることであって、決してあの黒んぼの小僧ではないのだ。彼はいつにも増して上機嫌だった。

 すると突然、絵理奈が声を上げた。

 「止めて」

 驚いた直己がアクセルを緩め、助手席の方を振り向く。絵理奈はジッと前方を見詰めたままだ。そしてもう一度言った。

 「止めて」

 「どうしたんだ、絵理奈。家はもう少し先・・・」

 なおも止まろうとしない直己に対しイラつくような素振りを見せた絵理奈が、若干ヒステリックに叫んだ。

 「止めてっ!」

 急ブレーキを踏む直己。そこはナディムの家の前だった。その状況を理解した直己は優し気に声をかける。

 「絵理奈・・・ お父さんはね、お前に必要なものは・・・」

 だが彼女は父の言葉を最後まで聞くことも無く、ドアを開けて飛び出して行った。後に残された直己はその後ろ姿を見送ってから、苦々しい思いを胸に発車した。


 ナディムの家の玄関に立つ絵理奈は、いつもよりも神経質に呼び鈴を鳴らした。何度も何度も、待ちきれないように。ナディムはまだ中学三年生だ。ひょっとしたらまだ帰宅していないかもしれない。それでも絵理奈は呼び鈴を押すことを止めることが出来なかった。そしてドアを開けてナディムが顔を出す。彼は絵理奈を認めるとニコリと笑い、玄関ドアを大きく開いた。

 「やぁ、絵理奈。お入りよ」

 だが彼女はナディムの顔を見るや否や、両手を広げて抱き付いた。そしてうわ言の様に繰り返す。

 「耳を噛んで、耳を噛んで・・・ ナディム、耳を噛んで・・・」

 ナディムは絵理奈の願いを受け入れて彼女の身体を抱き寄せ、そしてその耳を優しく噛んだ。絵理奈はうっとりした表情で、少しずつ落ち着きを取り戻す。頃合いを見計らってナディムが問いかけた。

 「何か嫌なことでも有ったのかい?」

 絵理奈は彼に抱き付いたまま、黙って首を振った。

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