1-5
学園祭も終わり、教室はいつもの姿に戻りつつあった。祭りの後とは、こういった寂寥感が漂うものなのか。むしろそれは、いつもより静かな印象を与えた。こうして日常を取り戻しつつある生徒たちであったが、絵理奈の周りにはほんの少しだけ変化が訪れていた。これまで気味悪がって近付こうとすらしなかった者の中に、あの体育館での歌声に感動して彼女との距離を詰めることを躊躇しない者が現れたのだ。「歌、上手いんだね?」とか「すっごく感動したよ」といった言葉を投げかける女子徒たちだ。そんな時でも絵理奈は聞いているんだかいないんだか判らない表情で目を逸らし、投げかけられた言葉に何の反応も示さない。それでも絵理奈の新たな
絵理奈を見る目が変わったのは女子生徒だけではなった。男子生徒の間でも、あの日の出来事は話題に上り通しだ。女子生徒と同様、絵理奈に対して侮蔑的な態度を取ってきた者たちは、これまでの自分の彼女に対する評価を見直さねばならない必要性を感じていた。中には、「自分は絵理奈のファンである」と公言して憚らない者も現れた。
「絵理奈って、よく見たらメッチャ可愛いじゃん! 俺、決めた。アイツに告るぜ!」
三年生の藤代守だった。守はこの泉中学に有る、タチの悪いいくつかのグループの一つでリーダー格を務める男子生徒で、噂によればヤクザの下働きみたいなことにも手を出していると言われている。中学生の頃からそんな
「マジっすか、先輩? あの女、頭おかしいんじゃないっすか?」
昼休みのこの時間、この武道場の裏手でタバコを吸うのが守たちの日課になっていた。いつも守の腰巾着としてくっ付いて歩いている二年生の井坂隆康がそう言うと、守は気分を害されたように言った。
「頭なんか関係無ぇんだよ! 俺ぁ、顔と身体だけ良けりゃそれでいいんだっつーの!」そう言って隆康の頭を引っぱたくと、側溝にタバコを投げ捨てた。
「あの声で『あぁ~ん』なんて言われた日にゃぁ、もうコレもんだぜ!」
守は右手の拳を握って作った男根を嫌らしく上下させた。頭をはたかれた隆康は痛そうに後頭部を押さえながら進言する。
「でもウチのクラスに、絵理奈と滅法仲が良い奴がいるんすよねぇ」
「何だと! 誰だそりゃ!?」
「あの黒い奴ですよ」
「あぁ、アイツかぁ・・・ アイツら、もう
「知りませんよ、そんなこと」
「黒人だから、アイツのチンポはでけぇのかっ!?」
「だから知りませんって、んなこと!」
放課後、いつものように玄関で靴を履き替えて、絵理奈は表に出た。曇り空は今にも雨粒を落としそうな様子だったが、それによって彼女が自身の行動を変化させることは無い。雨が降れば傘はさすが、濡れてもさほど気にする様子も無い。雨が降り出す前に帰ろうと、急ぎ足で過ぎ去る生徒達に追い越されながら、絵理奈はいつも通りにゆっくりと歩き始めた。
その時、誰かが絵理奈の腕を掴んだ。ゆっくり振り返ると、そこには守ると隆康が居た。守はニタニタした笑みをその顔面に張り付けながら、絵理奈の全身を下から上へとその目で嘗め回した。近くで見たら、なかなかいい身体をしてるじゃないか。細く引き締まった腰も具合が良さそうだ。だが絵理奈自身は守の顔など見てはおらず、その下卑た視線にも気付かない。例によって顔を背け、地面を見詰めるようにしながら、二人の男子生徒が居る事を視界の隅に感じていた。
「ちょっと付き合えよ、絵理奈」
絵理奈は何の反応も返さなかった。守の左手は、まだ絵理奈の右腕を掴んだままだ。
「あっ、俺、2組の藤代。知ってるだろ?」
絵理奈は黙って首を振った。守が「ちっ」と舌打ちすると、後ろに控えていた隆康が可笑しそうに笑いを堪えた。それに気づいた守が振り返り、凶暴な視線を隆康に送ると、彼は怯えた犬のように小さくなった。
「話が有るから付き合えよ」
そう言って絵理奈の腕を引こうとした瞬間、彼女は腕を振ってそれを振り解いた。
「行かない」
絵理奈の口から出た言葉はそれだけだった。これまで
「いいから来いよっ!」
熱くなった守が再び絵理奈の右腕を掴むと、それを振り解こうと身体をのけ反らせた絵理奈が大声を出した。
「嫌だっ! 行かないっ!」
「うるせぇっ! 黙って付いて来いっ!」
もう守も大声を出していた。隆康はそのやり取りをハラハラしながら見守った。
「先輩、ヤバイっすよ。センコーに見つかりますって」
「テメェは黙ってろっ! くそっ、言うこと聞け、このバカ女っ!」
その時、三階の廊下を歩いていたナディムは、校門辺りから聞こえてくる緊迫した声を聞きつけた。そちらに目をやると、絵理奈が不良共に絡まれているではないか。ギターと学生鞄がくくり付けられた車輪の付いたキャリアを引いていたナディムは、それを放り出すと走って校門へと向かった。
「やだっ! 放してっ! 行かないっ!」
絵理奈の声は悲鳴に近かった。守が何を言っても、何をしても、その三つの言葉を繰り返し叫び続けた。業を煮やした守は両腕を使って絵理奈を抑え、何とかして言いなりにさせようと必死だ。
その時、ナディムが上履きのまま玄関から駆け出してきた。
「やめろーーーっ!」
しかしナディムの身体は、絵理奈の元に辿り着く前に崩れ落ちた。守の後ろに控えていた隆康が、駆け寄るナディムの腹に強烈な拳をめり込ませたのだ。あまりの激痛に這いつくばるナディム。その哀れな姿を一瞥した守は、もうあまり時間が無い事を感じた。校舎の一階の窓からは、何人かの教員たちがこちらを見て、何かを叫んでいるからだ。守は絵理奈の身体に腕を回し、抱きかかえるようにしてその場を立ち去ろうとした。
その瞬間、絵理奈が絶叫した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ・・・・」
その、あまりにも壮絶で悲痛な叫び声に守がたじろいだ。信じられないといった面持ちで守は固まる。いったい何が起きているのだ? 絵理奈の異常な反応の意味が判らなかった。守の幼稚な頭では、今の状況を正確に把握することが出来ないのだ。彼の腕から力が抜け、絵理奈はその場に座り込む。泣きながら顔を覆い、そこから動かなくなった。
そんな彼女の元にナディムがにじり寄った。あたかも足を負傷した兵士の様に、腕の力だけで這い進むようにして。そして、ようやく絵理奈の前まで来ると、なんとかして体を起こし彼女の肩に腕を回す。絵理奈は目を見開いて顔を上げ、涙をぬぐうこともせずに濡れた顔のまま、酸素を求める魚のように絶え絶えの呼吸で身体を大きく震わせた。
「ひぃぃぃ・・・ ひぃぃぃ・・・ ひぃぃぃ・・・」
ナディムは優しく、そして強く絵理奈の身体を抱き締めた。絵里奈の顔は彼の左肩に乗せられていたが、それでも悲壮な呼吸は止まらない。
「ひぃぃぃ・・・ ひぃぃぃ・・・」
ナディムは絵理奈の左耳に向かって優しく話しかけた。
「大丈夫だよ、絵理奈。ナディムだよ。もう大丈夫だよ」
焦点を失った絵理奈の眼に変化が訪れた。それは恐怖から悲しみへの移行を示すものだった。自分を抱き締めてくれているのは、あの優しいナディムだ。その事に気付いた途端、再び彼女の瞳から涙が溢れ出した。ナディムはなおも話しかけ続ける。
「大丈夫。大丈夫だよ、絵里奈」
そして絵理奈は、ナディムに抱き付きながら微かな声を漏らした。
「耳を噛んで・・・ 私の耳を噛んで、ナディム・・・」
「もちろんだよ、絵理奈」
ナディムは絵理奈の左耳を優しく噛んだ。その途端、絵理奈の表情に有った緊張が解きほぐれ、代わって安堵の色が浮かび上がる。荒かった呼吸は徐々に平静さを取り戻し、絵理奈は安心したように体の力を抜いた。ナディムが噛む耳の感触を受け入れると、彼女の表情はむしろ幸せに包まれた恍惚としたものとなった。
騒ぎを起こした当人である守や隆康、更には駆け付けた教員や下校途中の生徒たちが作り出す輪に囲まれて、絵理奈とナディムはいつまでもお互いを抱き寄せ合った。
それは、二人がまだ小さな子供の頃からそうだった。その頃から、既に絵理奈は発達障害の症状を呈していて、時折パニックに陥るように我を失うことが有った。公園の砂場で、意地悪な男の子に砂を掛けられた時。保育園でオモチャの取り合いに負けた時。徒競走で転んで最下位になってしまった時。そんな時は決まって、その症状が現れた。そうなった時の絵里奈は手が付けられず、誰が何と慰めようとも、彼女の破綻した精神状態を修復することは叶わない。だが唯一、ナディムの声だけはそんな状態の絵理奈の心にも届き、彼に耳を優しく噛まれることによって、逆巻く感情の奔流が落ち着きを取り戻すのだ。それがどうしてなのかは誰にも判らない。ナディムにも絵理奈にも同様だ。そしてまた、その
それを知る両親もナディムには全幅の信頼を置いているわけだが、父親の直己はナディムの肌の色にこだわり、素直に感謝の意を表すことを拒み続けていた。
「ナディムが居れば絵里奈は大丈夫」
そう繰り返す千夏の言葉を、直己はいつも聞こえない振りをした。
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