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学校は賑やかな雰囲気ではち切れそうであった。年に一度の学園祭である。はしゃぐなと言う方が無理というものだ。およそ一年間を費やして準備してきたイベントに、誰もかれもが浮足立っていると言っていい。あちこちのクラスでは趣向を凝らした出し物が催されており、インスタントコーヒーの喫茶店やらお化け屋敷、あるいは演劇の類も上演されている。そんな浮かれた校舎内をフラフラと絵理奈は歩いていた。特に目的も無いし、学園祭の何たるかも良く判っていない。なんだかいつもと違う学校の雰囲気に当てられ、小川を流される木の葉のようにあっちに引っ掛かり、こっちに引っ掛かり。クラス会議で決定された、英語劇の準備に携わることも無く、いつものように自分の世界に浸って自由に泳ぎ回るだけだ。
そんな時、生徒たちの中に一つの大きな流れが発生した。廊下で話し込んでいた者や教室から出て来た者たちが、足早に一方向に向かって移動を開始した。その流れに巻き込まれた絵理奈は、身を任せるように一緒に歩いて行く。そして気が付くと、彼女は体育館の入り口に立っていた。茫然と立ち尽くす絵理奈を追い越し、皆はゾロゾロとその中へと入っていった。それはアマチュアバンドによる生演奏の開演に間に合わせようと殺到する、生徒たちの流れだったのだ。体育館のあちこちに仲の良い者同士のグループが出来上がり、それぞれが体育座りをして小さなコロニーが形成されていた。絵理奈は最後尾の彼ら彼女らから少し離れた所に陣取って、そこにチョコンと一人で座り込んだ。
放送部の男女二人組がマイクを持って登壇し、高らかに『泉中等部学際コンサート』の幕開けを告げた。放送部だけあって人前で喋ることに何の躊躇も無く、その活舌の良い会話の応酬は堂に入ったものだ。そんなやり取りをボンヤリと眺めながら絵理奈は、それがテレビでよく見る風景のように思えるのであった。
最初はアコースティックギターを抱えた二人組による演奏だ。新旧織り交ぜたフォークソングを熱唱し、音楽における言葉の魔法を重要視する年代の彼らは大いに盛り上がる。かつては社会風刺などのメッセージ性を含んだ曲が、その表現手段としてのフォークソングとなって歌われたものだが、今ではその対象を恋愛へと変化させ、ジメジメした湿度を取り去った爽やかな曲調で占められている。絵里奈には、そのアコースティックギターの音色に乗って語られる言葉の真意は計りかねたが、どの曲にも美しいメロディが採用されていて、いつものように目を瞑り、ゆっくりと身体を揺らしてそれを満喫していた。
次に現れたのは、ボーカル、ギター、ベース、ドラムの四人組で、稚拙な演奏ながら一生懸命にロックを奏でた。小さなギータ―アンプとベースアンプ、それからドラムの生音。体育館の粗末なスピーカーに接続されているのはボーカルのマイクだけだ。それは音響的に言っても、この広い体育館という空間を想定した機材とは言えず、スカスカの音が壁に当たっては砕けていった。無論、中学生のバンドなどその程度であろう。プロのロックミュージシャンのような迫力の演奏は期待できないし、誰も期待してはいない。当然だが、テクニックだって伴わない。ただ、青春の風景の一コマとして、この
だが、その演奏を聴いている絵理奈の表情が変わった。あの、ゆっくりと身体を揺らす特徴的な動きは止まり、その顔からは恍惚の表情が消えた。何故ならば、ギターを弾いているのがナディムだったからだ。どんなことにも感情を動かさない筈の絵理奈の顔に表情が現れ、四人が演奏する音楽に吸い込まれるような真剣な眼差しを向けた。少し心拍も早くなっているのだろうか、絵理奈の頬は紅潮し、若干ながら興奮しているようにも見受けられた。ただ、彼女のそんな変化に気付く者は一人としておらず、みんながステージに向かって勝手な声援を送ったり、指笛を鳴らして囃し立てている。
そんな観衆が息を飲んだ。その静寂は、草原を渡る風が収まるように、ステージに向かって右前から始まり、徐々に左後ろへと向かって押し寄せていった。そして全体が静まり返った時、ステージ右端の前にポツンと立ち尽くす絵理奈の姿が残された。徐々にひそひそ話が広がった。
「何あれ? 3組の絵理奈じゃない?」
「誰? あの不思議ちゃんか?」
「何やってんの、あそこで?」
声を落としたヒソヒソ話も、これだけの大勢が始めればそれなりの大音量となる。いつの間にか体育館内はザワザワとした喧騒に包まれたが、絵理奈はその刺すような視線にも動じることも無く、ゆっくりと壇上へと続く階段を登った。そしてボーカル担当の男子生徒の元まで来ると、彼が握るマイクに手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと。なんだよコイツ・・・」
その声は当然ながらマイクに拾われ、体育館中に響き渡った。生徒全員が事の成り行きを見守っている。そのやり取りを見ていたナディムが、声を潜めてボーカルに言う。
「カズキ。歌わせてあげて」
ナディムの声を聴いたカズキは振り向いて、チョッと不服そうにステージのセンターを譲る。そしてナディムのいる下手に移動して、同様に潜めた声で言う。
「どうすんだよ、アイツ。大丈夫かよ?」
そんなカズキにナディムは拝むような姿勢で両手を合わせた。
「ごめん・・・ ちょっとだけ許してあげて」
二人のやり取りは、絵理奈には聞こえていない。マイクを握りしめたまま、ステージ中央でボンヤリと立ち尽くすだけだ。そのまま暫く時間が過ぎ、体育館は再びざわめき始めた。ふざけ好きな男子生徒の誰かが、ステージに向かって「エリナちゃーん!」と声をかけると、みんながドッと笑った。そしてその笑いが収まるのを待たずして、絵理奈のアカペラの声が体育館を満たし始めた。
Why does the sun go on shinning?
会場中が息を飲んだ。
Why does the sea rush to shore?
誰もが言葉を失い、そしてステージ上で淡々と歌い続ける絵理奈を凝視した。
Don't they know it's the end of the world
Cause you don't love me any more
もう誰も、絵理奈のことを馬鹿にしてなどいなかった。その物悲し気で切ない声が、聴く者すべての心で共鳴した。
Why do the birds go on singing?
Why do the stars glow above?
Don't they know it's the end of the world
It ended when I lost your love
その澄んだ歌声は砂に溢した水のごとく浸み込んで、皆の心のひだにスッと入り込んだ。予期せぬ内側からの語り掛けに心がが無防備な姿を曝け出した時、そのギザギザした形のものすら、ひたすら柔らかく丸い本来の姿を取り戻し始めた。その内側からの包容力という抗いようのない愛撫の前には、どんなに意地悪な気持ちも、どんなに荒んだ感情も、あるいはどんなに醜い渇望も、ただただ力無くひれ伏した。
I wake up in the morning and I wonder
Why everything's the same as it was
I can't understand, No, I can't understand
How life goes on the way it does
絵理奈の歌声に突き動かされた様々なものは、各自が心の中に隠し持つ何かであった。その存在が認識されているものも有れば、本人が存在自体に気付いてもいないものも有るのだろう。それら人によって異なるそれぞれの何かが心の中で跳ねまわり、優し気な残像となってその姿を浮かび上がらせる。その本当の姿に気付いた者は恐れおののき、ある者は涙を流し、またある者は優しい気持ちになれた。今まで支えとなっていた強固な甲殻にはいとも簡単に剥がれ落ち、彼女の歌声に乗って流し去られてしまった。後に残ったのは柔らかくて傷付きやすい、透明な
Why does my heart go on beating
Why do those eyes of mine cry
Don't they know it's the end of the world
It ended when you said goodbye
肩を抱き合いながら、声を震わせて泣く女子生徒たちがいた。グッと唇を噛む男子生徒もいた。俯きながらくしゃくしゃの顔で涙を流し、拳を握り締める女の子もいた。どうしても堪え切れず、声を上げて泣き出す者もいた。絵里奈の歌声はそんな彼ら彼女らの頬を優しく撫で、そして柔らかな微笑みを残して去って行った。
しんと静まり返った体育館には、鼻をすする音があちこちから聞こえていた。そして疎らな拍手が始まり、徐々に大きな喝采へと変わっていった。絵理奈はその声援にどう応えていいのか判らず、ポカンとした表情で相変わらずマイクを握りしめたまま立ち尽くしている。その時、誰かが絵理奈の右肩に手を置いた。絵里奈が振り返ると、そこにはナディムがいた。
「素敵だったよ、絵理奈」
その言葉を聞いた絵理奈が笑った。
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