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 その日、テレビの前に据えられたカウチの右側にナディムは座っていた。彼が見ているLEDディスプレイにはインターネット配信による映画が映し出され、アメリカの二枚目俳優が娘を守りながら宇宙人と戦うコテコテのストーリーが展開されていた。そんな子供じみた設定ながら、莫大な制作費を投じて撮影されたハリウッド映画は、やはりそれなりに楽しめる。ナディムは口に残るポテトチップスの塩気と油をコーラで流し込みながら、一心不乱に見入っていた。

 カウチの左側には絵理奈が居た。彼女はゴロンと横になってナディムの太腿に頭を乗せ、膝枕の状態で一緒になってポテチを口に運んでいる。時折、映画の中に出てくる色々な物に関して、「あれ何?」とか「なんで?」などとナディムに話しかけ、彼はそれに対して面倒臭がったりせず、都度丁寧な説明を返していた。集中しながら見ている映画であっても、絵理奈が相手であれば、それを中断させられても腹が立たないのが不思議だ。

 発達障害を持つ絵理奈は、基本的に誰とも心を通わそうとはしない。唯一、例外的に通じ合える相手がナディムだったのだ。学年で言えばナディムの方が一学年下に当たるが、二人は家が近所ということも有り、幼いころから一緒にいることが多かった幼馴染である。彼が居れば絵理奈は心を開き、自然に振舞うことが出来た。嫌なことを嫌と言えたし、欲しいものを欲しいと言うことが出来た。学校から戻った絵理奈は、家に誰も居ないことが判ると直ぐにナディムの家の玄関の前に立ち呼び鈴を押した。ドアを開けて顔を出したサビーナは、絵理奈を迎え入れるとリビングへと通し、二階で音楽を聴いているナディムに声をかけたのだ。そしてサビーナはそのまま台所仕事に戻り、ナディムと絵理奈の二人がリビングで映画を観ていたという流れであった。

 ナディムが聞いた。

 「お母さんは?」

 絵理奈は膝枕に頭を乗せたまま、更に一枚ポテチを摘まみ、映画に視線を固定したままで答えた。

 「いなかった。誰もいなかった」

 「そっか。買い物にでも行ってるのかな」

 「うん」

 そして映画では、最後に例の二枚目俳優が侵略してきた宇宙人の撃退に貢献した上で家族と再会し、ハッピーなエンディングを迎えた。それを見た絵理奈が、膝の上からナディムの顔を見上げた。

 「いいこと考えた」

 ナディムは優し気に聞く。

 「何?」

 「ナディムと私が一緒に住むの。そしたらずっと一緒にいられる」

 絵理奈の目はキラキラと輝いて見えた。その目を覗き込みながらナディムも言った。

 「そりゃぁいいね」

 ナディムが笑うと、絵理奈も笑った。

 その時、再び玄関の呼び鈴が鳴った。サビーナがタオルで手を拭きながら玄関ドアを開けると、絵理奈の両親が立っていた。学校での面談が予想以上に伸びて、当初の目論見であった絵理奈より先に帰宅する作戦が成功しなかったのだ。自宅の玄関を開けると直ぐそこに絵理奈の鞄が放り投げてあったので、ナディムの家に行ったに違いないと踏んでやって来たのだ。

 「申し訳ありません、奥さん。うちの絵理奈がお邪魔してはおりませんでしょうか?」

 そのような丁寧な言い回しは、バングラデシュ出身のサビーナにはかえって難しいのだが、状況からして娘を迎えに来たことは判る。更に、普段から比較的仲の良い二人なので、彼女にとって千夏の日本語は比較的判りやすい方なのだ。サビーナは片言の日本語で答えた。

 「エリナちゃん、きてます。ちょとまてください」

 そう言われるまでも無く、玄関に彼女の靴が脱ぎ捨ててあるのを確認した千夏は、彼女が居ることは判っていた。その後ろに控える直己もそのことには気付いていたようだ。直己は不機嫌な顔で、明後日の方を向いていた。

 そもそも直己は、絵理奈がこの家に入り浸ることを快く思ってはいない。その理由はいたって簡単で、色の黒い人間がいるからなのだ。その肌の色が、彼に意固地なまでの態度を取らせ続ける理由は誰にも判らなかったが、おそらく直己自身にも判ってなどいないのだろう。それは論理的で明確な法則性で解釈できる感情ではなく、とにかく嫌いだという風にしか説明できない類のもので、毛嫌いという言葉のみが当てはまる。だが、ナディムの前で見せる絵理奈の素直な態度には、そんな直己でも目を見張らざるを得ないし、それが彼女にとって大きな救いになっていることは理解している。ただ、実の両親ですら触れることが出来ない娘の心に、あの黒んぼの小僧は易々と手を添えることが出来るのだ。それが腹立たしくて仕方がない。むしろそれは、絵理奈の方から心を開け広げ、それをアイツの前に曝け出しているような素振りではないか。自分は絵理奈に対しては優しく、そして不合理な態度にも我慢して接してきたはずだ。それなのに絵理奈が選んだのは自分ではなく、あの黒んぼだ! アイツに有って俺に無いものとはいったい何だ! あの黒んぼより俺が劣っているとでも言うのか!? ナディムと居る時の絵理奈の笑顔の美しさを、直己は感じられてはいなかった。彼に対する怒りと嫉妬、絵理奈に対する絶望と諦め、それらが直己の目を鈍らせた結果だった。

 リビングへと続くドアから絵理奈が出てきた。彼女は部屋の中を振り返りながら「バイバイ」と笑って手を振る。部屋の中からは、姿は見えないがナディムのものであると思われる「じゃぁーねー」という声が聞こえた。そして絵理奈が玄関の方を振り返った時には既に、彼女の顔から笑顔は消えていた。

 「絵理奈ちゃん、ごめんなさいね。お父さんとチョッと出かけてたの」

 玄関まで出て来た絵理奈は、少し頭を傾けて千夏の言葉を聞いた。でもその顔は千夏の足元辺りに向けられていて、目はそこに散らばる靴を眺めているようだ。千夏に腕を取られると、なされるがままに上がり口を降り自分の靴を履く。その間、千夏の後ろに控える直己の存在には、気付いているのかどうかすらも怪しい。

 「それじゃ、サビーナさん。お邪魔しました」

 千夏が何度も頭を下げながら河島家を辞する際に、サビーナは玄関先まで送りに出てきて手を振った。

 「エリナちゃん、またきてね」

 しかし絵理奈はそれに応えることも無く、千夏に付き添われて1ブロック先の自宅に向かって歩いて行った。直己はその後ろを黙って付いて行った。

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