5-2
昼の休憩が終わり、午後の仕事が始まっていた。エアーツールが「シューッ」と音を立て何かを動かしている。誰かがハンマーで、何かの金属を叩く鋭角的な音も聞こえてくる。タイヤを車に取り付けるインパクトレンチの音も景気良く響いている。この小さな自動車整備工場の社長 ──皆からは親方と呼ばれている── 以下、四名が其々の受け持ち業務を黙々とこなしていた。埃を被ったラジオからは、相変わらずFM局が垂れ流しだ。そこに、不似合いな聞き慣れない声が響いた。
「すみません・・・」
プレッシャーゲージでタイヤの空気圧を調整していた親方が顔を上げた。保険の勧誘かと思ったが、作業場入り口に立つ女性は予想よりも若く、どう見てもセールスレディーの服装ではなかった。彼は「よいしょ」と言いながら立ち上がると、首に巻いたタオルで手を拭きながら入口に向かった。
「はい? どちらさんでしょ?」
「あ、あの・・・ ナディム・・・ いますか?」
見知らぬ男性に、これだけ長いセンテンスを話すことは、彼女にとってチャレンジ以外の何物でもなかった。心臓が口から飛び出しそうな緊張に足が震えていたが、親方は彼女のそんな様子には気付かなかったようだ。タオルで額の汗を拭きながら後ろを振り返ると、大声で叫んだ。
「おぉーーぃ、ナディム! お客さんばい! エライ、ベッピンさんばいっ!」
その声を聞いたナディムの同僚たちが、興味本位に顔を覗かせた。確かにベッピンさんだ。皆が、何処かで見た事が有るような不思議な気がしたが、誰もそれが伊藤絵里奈であるとは気付かないのだった。だって、ヤフオクドームを満杯にするような有名人が、こんな薄汚れた工場に来るはずなど無いのだから。
壁に仕切られた奥のスペースで、灯油を使ってオイルエレメントを洗っていたナディムが顔を出した。
「はーーぃ、今行きまーす!」
油で汚れた手をツナギの太腿辺りに擦り付けながら、ナディムが出てきた。そして表に立つ客人の姿を認めたと同時に、周りの風景をボンヤリと眺めていた彼女が振り向いた。その目がナディムを捉えた瞬間、彼女の顔は花が咲いたように輝いた。
ナディムの脳はそれが誰なのか直ぐに理解したが、その状況そのもを飲み込むことができない。彼は目を丸くしたまま息を飲んだ。それでも彼の脚は、一歩、また一歩と、絵里奈に近付いて行く。彼女のはち切れそうな笑顔に吸い寄せられるように。
彼女の50センチメートル手前で彼の足は止まった。あんなにも遠くて手の届かなかった絵理奈が、今は腕を伸ばせば直ぐに手が届く距離にいた。目の前に絵里奈がいる。あの小さくて、可愛くて、優しくて、人懐っこくて、泣き虫で、笑い上戸で、愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて、愛おしい絵里奈がそこにいる。夢にまで見た絵理奈だ。いつも一緒にいた絵理奈だ。学校でも、公園でも、何処にいても自分の傍にいた、あの絵里奈だ。
ナディムはあの頃の様に、その小さな身体を抱き締めたかった。でも我慢した。何故なら、自分の汚れたツナギのせいで、彼女の服までも汚してしまうからだ。だが絵里奈は、そんなことには御構い無しである。彼女は「ドン」と、ナディムの胸に飛び込んだ。
絵里奈の匂いがした。あの頃と変わらない、甘くて優しい匂いだ。彼女はあの頃のままだった。ナディムは堪らず、グィと絵里奈の華奢な身体を抱き締めた。暫く逢わない間に、絵里奈の背は高くなっていたようだ。だがそれを上回るスピードでナディムの身長が伸びていたので、彼女の頭は以前よりも低い所に有った。それでも彼女は、何も変わってはいなかった。何もかもがあの頃のままだった。絵里奈の後頭部に優しく手を添え、それを宝物のように抱き寄せた。
ナディムの瞼から涙が零れ始めた。肩が揺れた。我慢しても我慢しても、次から次へと彼の感情が嗚咽となって込み上げてきた。様子がおかしいナディムに気付いた絵理奈が、彼に抱き締められながらも身体を反らして顔を上げた。目の前には泣き続けるナディムがいる。とても悲しそうなナディムがいる。絵理奈はグッと背伸びをすると、背の高いナディムの左肩に顎を乗せた。そして彼の左耳を優しく噛んだ。驚いたナディムが息を飲む。左耳を絵里奈の口に預けながら、彼は見開いた眼で彼女の後ろの地面を見た。あまりの出来事に、一瞬、ナディムの涙が止まった。それを感じ取った絵理奈は彼の耳を口から放して背伸びをやめ、そしてまた見つめ合った。
ナディムの目からは、またしても涙が溢れ出した。さっきよりももっと勢いよく。だが今度は泣き笑いだ。なんだか可笑しくて、彼は小さな声を上げて笑った。それでも涙は止まらない。絵里奈は心配そうに、そんなナディムの顔を両手で挟み込むと、グショグショになった頬を伝う涙をそっと拭った。泣き止まない子供を慰めるかの様に、何度も何度もその掌で彼の涙を拭い上げてやった。そして遂に、後を引く涙も笑い声に負けて、主役の座を笑顔に譲ったのだった。絵里奈は安心したかのように微笑んだ。
「ナディムが笑った」
「うん、笑った」
ナディムの微笑みに、絵里奈も笑顔を返した。二人して声を上げて笑った。しっかりと抱き合いながら、見つめ合ったまま笑った。それはあの頃と同じだ。慣れ親しんだ、あの感触だ。ナディムのいびつな形の心が彼女のそれとピタリと符合し、在るべきものが在るべき所に収まったような、どんな外圧にも耐え得る完全な球体が完成したような、そんな感覚だ。絵里奈もそんな風に思っているのかは判らなかったが、少なくともナディムは、不完全な自分を補完してくれる唯一の存在を今、この腕に抱き締めていることを強く認識していた。
「ねぇ、いいこと考えた」
絵理奈が飛び切りのアイデアを思い付いたようだ。キラキラした笑顔のまま言う。お互いに、相手の瞳の中に自分の存在を感じていた。ナディムが聞き返す。
「何?」
絵理奈が満面の笑みで自身のアイデアを披露する。彼女のクリクリした眼差しが、彼の目を覗き込んでいた。
「私がナディムのお嫁さんになるの。そうすればずーっと一緒だよ」
またナディムが笑った。
「そりゃぁいいアイデアだ」
もう二度と手放してはいけない。自分にとって一番大切なもの。かけがえの無いもの。こんな簡単なことに気付くのに、僕はなんて遠回りをしたのだろう。
「でしょ?」
絵理奈も笑った。
私の耳を優しく噛んで 大谷寺 光 @H_Oyaji
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