終篇


 小鳥のさえずりを乗せた風が、寝起きの肌をするりと撫でた。僅かに寒さを残したそれは、俺の身体を震わせた。


「……最悪だ」


 澄んだ陽射しを浴びながら、春色の坂を登っていく。


 スマホを学校に忘れた。その事に気がついた時には既に、身も心も疲れ切っていた俺は抗うことも無く睡魔に負けた。目が覚めた時には、窓の向こうは明るかった。母に事情を伝えて家を出て今に至る。


 卒業したにも関わらず、こうして学校への道を歩くのはなんとも言えない気分だが、その足取りは思いの外軽かった。想いの丈を吐き出したことで多少は余裕が出てきたのかもしれない。


「……そうだ」


 軽くなった頭で思いつく、ついでに黒板の後始末もしておくべきだ。仲間達と在校生達には申し訳ないが、あんなもの、遺しておいても意味が無い。どう考えても、頭のおかしいラブレターにしか見えない駄作だ。知られる前に始末しよう。

 我が校の伝統を台無しにした罪は重いが、仕方がない。ここは素直に大人の力に頼ることにしよう。美術教師の腕の見せ所だ。


「さっさと行くか……」


 覚悟を決めて、歩く速度を一つ上げた。今度は堂々と正門から侵入する。すれ違うのは、朝練に勤しむ生徒ばかり、教師は恐らく職員室でお茶会だろう。


 卒業式以降、生徒は勿論教師達も、三年の教室に立ち寄るものは極めて少ない。盗まれるようなものも残っていなければ見回る必要も無くなるわけだ。おまけに今は早朝だ。見られている確率はかなり低い。

 校舎に乗り込み階段を上がる。静かに廊下を突き進み、教室後方の扉に手を掛けた。

 俺の席は廊下側の最後尾。扉を開けばすぐ目の前だ。


「……これで最後だ」


 自分に言い聞かせるように呟いて、扉を一気に開け放つ。そしてすぐさま視線を落として一番近くの机を見る。昨夜はそこにスマホを置いた。だが、その机の上には俺のスマホの姿は無かった。


「あぁ……マジかよ」


 別の机に置いたのだろうか、それとも既に誰かが見回りに来たのだろうか、一抹の不安を抱きながら、恐る恐る視線を上げる。そして一番に視界に入ったのは。新品のような輝きを放つまっさらな黒板の姿だった。


「……最悪だ」


 最も避けたかった展開が、今目の前に広がっていた。

 殊勝な教師が既に見回りをした後だったらしい。であれば俺のスマホもその教師の手中に落ちていることだろう。そうなれば、事情聴取は免れない。


「はぁぁ……っ!」


 重たいため息を吐いた瞬間、一番近くの机が震え始めた。その振動は規則正しく、聞き慣れたリズムで机を鳴らしていた。まさかと思い、机の中を覗き込む。空っぽになった空間の奥に、画面の輝くスマホがあった。恐る恐る手を伸ばして取り出してみる。


「……なんで、こんな所に」


 母と表示された着信画面を映したそれは、紛れもなく俺の忘れたスマホだった。何故机の中にあったのかは皆目見当もつかないが、ひとまず電話に出るのが先だろう。画面を操作して耳に当てる。


「もしもし……?」

『あぁ、良かった。ちゃんと見つかったみたいね』


 母の安堵した声が、機械越しにでも伝わってくる。その声音は、俺の心も穏やかにしてくれた。スマホを耳に当てながら、窓際へと進み締め切っていた窓を開ける。


「ありがとう。おかげで見つかったよ」

『どういたしまして。じゃあ、お母さん仕事行ってくるから家の事は頼むわね。お昼も一応用意したから、必要なら食べてね』

「分かった。じゃあ、気を付けて」


 そう伝えてから電話を切る。昔から感の良い人だったが、今回は本当に助かった。感謝の言葉も見つからない。だがそれ以上に、このスマホを一体誰が机の中に入れたのか、そして誰が黒板を消したのか、解けない謎が頭の中を駆け巡る。


 その時だった。再びスマホが震え出す。


 母が何か伝え忘れたのだろうか。そう思いながら画面を確認する。


「……え」


 画面に写し出されたその名前を見た途端、心臓が跳ねて身体が熱を帯だした。着信者は、春の名前を持つ彼女。その名に視線が釘付けになる。

 いったい今更、何の用件があるというのだろう。少し疑問に思ったが、見方によれば、これはむしろ好都合だ。


 最後に友人として、別れの言葉の一つでも言ってやらないと締まらない。俺だけでも暖かく送ってやらなければ。そう決心してスマホを耳にかざす。


『お、起きてた』


 少し驚くような声がスマホから響く。昨日ぶりに聞くその声は軽やかで、心地よく耳に響いてくる。


「そっちこそ、まだ日本にいるのか? 飛行機は?」

『うーん。もうすぐ……かな?』

「かな、って……」


 そのあっけらかんとした答えに、少し可笑しくなってしまった。昨日の事など嘘のように、いつも通りの彼女だった。それが少し嬉しくて、少しだけ寂しくて、切なさに胸がちくりと痛む。


『ねぇ、夏男。あなた今どこに居るの?』

「ん? 学校だけど……何でそんなこと聞くんだよ」


 そう聞き返すと、電話の向こう側で春子が小さく笑う声が聞こえた。そしてその笑い声は徐々に遠くなっていく。不自然に思い、注意深くスマホに耳を傾ける。


「ちょっと聞きたい事があったから」


 その声に心臓が跳ね上がる。その声は俺の背後、教室の出入口から聞こえてきた。弾かれるように振り返る。視線の先、教室の出入口には学校の制服に身を包んだ、春子の姿があった。


「な……」

「あはは、いい顔してる。作戦大成功かな」


 空いた口が塞がらない俺を余所に、高らかに、目に涙を浮かべながら笑う春子が、春風を纏いながら、俺の前まで歩み寄ってくる。


「……なんで。お前、飛行機は……?」

「ん? あぁ、向こうに行くの、辞めちゃった」

「はぁ!?」

「ちょっと! 大きい声出さないでよ! びっくりするじゃない」

「あ……悪い」


 動揺する心をなだめるように一つ咳払いをして、驚き身を竦めていた彼女に改めて向き直る。


「なんで、行くの辞めたんだ?」


 単刀直入にそう聞くと、春子は盛大にため息を吐き捨てる。そして憐れむような眼差しを向けてくる。


「なんでって、夏男。あなたの所為なんだからね」


 そう言いながら春子はスマホを取り出して、画面を俺に突きつけてくる。その画面には、見覚えのあるものが写っていた。昨日の夜、俺が塗り潰した黒板だ。だがその黒板には俺の知らない文字が書き加えられていた。


「え……これ、なんで……」

「はぁ……。ちゃんと責任取ってよね。じゃないと許さないわよ?」


 未だ理解の追いつかない俺を余所に、目の前の彼女は頬を桜色に染めながら、揺れる瞳で俺を見上げる。


「ねぇ、夏男。昨日の言葉の続き、聞かせてくれる?」


 少し不安げな声で囁く春子のその言葉で全てを理解した俺は、姿勢を正して真っ直ぐに春子を見詰める。今から贈るこの言葉が、より一層彼女の心に響くように。


「春子……好きだ」


 俺のその言葉に、春子は頬を緩ませながら涙を流す。抱えた想いを流すように、ただ穏やかに頬を濡らしながら、澄んだ瞳を向けてくる。


「私も……大好き」


 時に激しく、時に穏やかにその表情を変える春風を、俺は優しく抱き締める。もう二度と、すり抜けることの無いように、包み込む様に、しっかりと。


 その時、空から轟音が響いてきた。空を舞う銀翼の鳥の羽ばたきだ。その音が聞こえなくなるまで、俺は春風を包み続けた。

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吹き荒れるその風の名は【旧題:明日の黒板】 毛糸 @t_keito_k

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