後篇(春子視点)



「お母さん。友達と少し会ってきてもいい?」


 この街での最後の外食が終わり、家路についていた道の半ばで、前を歩いていた母に声をかけた。振り返る母は怪訝な眼差しで私を刺して、重たい口を開き始めた。


「……こんな時間から? 明日は早いんだから、あまり遅くならないでよね?」

「……うん。分かった」


 そう言って家族の群れから離脱して、歩いた道を引き返す。その私の背中に母の視線を感じることは無く、賑わう市内へと歩いていく。


 私の母は厳かだった。常に先を見据え、未来の為に今を生きていた。例えそれが辛くとも、輝く未来の為なのだと、私に常に言い聞かせていた。


「はぁ……。どうしよう……」


 友達と会うというのは嘘だ。私の友好関係なんて、ほとんど上辺だけだったから。付き合いは良くとも、突っ込んだ話はあまりしない。広く浅く、付かず離れずの距離感で私はこれまで生きてきた。そしてこれから先も変わりはない。


 それから、わけもなく街を歩き回った。持て余す想いを抱きかかえ、捨て場所を求めて彷徨った。



 人が群がる大通り、交差点に架かる歩道橋、川沿いにある駅のホーム、人気ひとけの薄い錆びた踏切、派手な車の並ぶ倉庫、学校につづく登り坂。


 ひたすらに歩き回ったが、捨てられる場所は見つからず、その代わり街中の至る所に、彼の背中思い出が映っていた。抱えた荷物が、心無しか最初より重い。


「もう……勘弁してよね──」


 中学を卒業してからこの街に来た。縁もゆかりも無いこの街で過ごした三年間。たった三年の間に、こんなにも離れ難い街に変貌しているなんて、誰が予想できただろう。そう考えるだけで、呆れた声が口から漏れる。どうすれば全て投げ捨てられるのか、そんなことばかり考えていた。


 俯いていた顔を上げ、夜闇を纏う坂道を登る。期せずして思い出巡りの旅路となってしまったが、ここがもうじき最後の終着点だ。




 寝静まる校舎、揺れる夜桜。



 そしてその先に、最後の思い出の眠る場所がある。


 敷地の外周をぐるりと周り、裏山を目指して歩き出す。その先に、忍び込める場所がある。仲間と共に過去に使った事がある。その場所に辿り着き、するりと敷居を飛び越える。


 暗闇の満ちる校内を恐る恐る忍び歩く。見つかればタダでは済まないが、私の足は自然と校舎へと進んでいった。


 校舎の中には人の気配は無かった。見回りの時間外なのか、それともやる気がないのか、校舎の鍵も開けられており、不用心にも程があるが今回ばかりは好都合だった。抜き足差し足で忍び込み、教室への階段を登る。


 どうしてこんな所にまで足を運んでいるのだろう。そう考えながら階段を登る。


 手に抱きかかえた荷物は既に、かなりの重さになっている。もしこれを抱えることが出来なくなれば、自然と気持ちも落ち着くかもしれない。そう考えて休まず階段を登り続けて、三年の廊下へとたどり着いた。


「ふぅ……。ん?」


 到達して一息ついていると、廊下の奥から何かを叩きつけるような音が聞こえてきた。その音は荒々しく、そしてどこか寂しさの感じさせるものだった。

 その音に吸い寄せられるように歩を進めた。音の源は、私の教室から聞こえていた。


「なにしてんだよ……俺はっ──」

「え……」


 その声に身体が跳ねて、口から声が漏れた。素早く口を両手で覆い、廊下の壁に張り付くように身体を寄せて、身を低くしながら中を覗く。その視線の先には彼がいた。夏色を纏う彼が立っていた。呼吸を乱して俯いていた。


「くっ──」


 何をしているのかを確認しようとした瞬間、彼の身体が動き出し、こちらに向かって走り出した。


「っ……」


 急いで身を引いて、背後にあった消化施設の後ろに身を隠す。こんなもので隠れられるはずもなかったが、幸いにも彼は反対側へと走り去っていった。


「危なかったぁ……」


 全身から不思議な汗が浮かび、奇妙な息が口から漏れた。

 人の気配が完全に消えてから再び動きだし、教室の中へと侵入した。いったい彼がこんな時間にこんな場所で何をしていたのか、自然と興味が湧いていた。


 そして真っ先にそれが目に入った。


「これって……」


 教室前方、伝統とまじないに彩られた黒板に、新たな文字が加えられていた。黒板の中央に堂々と、書き上げられた三文字の言葉。昼間彼が言えなかった一言が、私の前に広がっていた。


「……」


 私は言葉を失っていた。心の中で、自分で自分を蔑んだ。


「私は馬鹿だ……」


 全ては自分の為だった。辛い別れなんて嫌だったから、深く関わることを諦め、伝える事をしなかった。そうすれば、いずれ時間が解決してくれると、そう思っていた。だがそれが間違っていた。

 目の前に広がる光景からは、彼の悲しみと苦しみがひしひしと伝わってきた。


「……」


 私は彼を苦しめた。苦しめたくなかったはずなのに、こんなにも苦しい思いをさせてしまっていた。


 大罪人は私の方だった──


「……」


 そう思うと、涙が溢れて止まらなかった。音もなく、ただひたすらに溢れ出す温かな想いが流れて落ちる。どうやら私は、一番簡単な事を忘れてしまっていたらしい。


「ふふ……」


 目の前の文字を見て何故か笑いが漏れた。音もなく泣きながら吹っ切れた頭で考える。彼の為に、いったい何が出来るだろう。どうすれば彼を救えるだろう。そんな事ばかり考えて、気がつけば足が前に出ていた。黒板の前で立ち止まる。



 ──諦める事ができないなら、諦めなければいいだけだ──



 薄紅色のチョークを手にして、優しく撫でるように腹を当てる。躍る心を抑えるように、高鳴る鼓動を鎮めるように。穏やかに、そして激しく。『大』の一文字をその横に添える。


「……これで私も共犯だ」


 せめて、彼と同じ罪を背負おう。私のせいで彼が犯した大罪を、私が隣で支えよう。此処から永遠に、彼方まで──


 チョークを縁に置き、一度離れてスマホを構える。カメラを起動させ、素早く一枚シャッターを切る。そしてすぐさま黒板消しと入れ替えて、ゆっくりと優しく黒板を撫でる。


「ごめんね……皆──」


 腕をいっぱいに動かしながら、仲間達へと謝罪する。だがその声音は羽根のように軽かった。仲間達への申し訳ないと思う気持ちはもちろんある。だが今はそれ以上に、彼と二人だけで秘密を共有出来ることに、ささやかな喜びを感じていた。その喜びが、私に無敵の力を与えてくれた。


 罪悪感と幸福感。相反する二つの感情が私を奇妙な気持ちへと誘っていく。




 ✱✱✱




「……これで、完了っと──」


 粉まみれの手を景気良く払いながら、新品同様に輝く黒板を眺める。


「これで、最後かな?」


 見納めになるかもしれない教室をぐるりと、目に焼き付けるように見渡していく。そしてその途中、視界の中で何かが光った。目を凝らせば、そこには見慣れた物が、机の上に置かれていた。


「これ……夏男の」


 机に近づいてそれを手に取る。彼の使っているスマホだ。どうやら忘れてしまったらしい。どうしようか迷っている時にある事を閃いた私は、彼のスマホを彼の使っていた机の中に隠す。


「これで、よし。あとは……」


 息を整えて、覚悟を決める。ポケットからスマホを取り出して、母の名前を表示させる。


「……ごめんなさい。お母さん」


 通話発信ボタンを押して、静かに耳に添える。発信音がなる間、走馬灯のように、母とも思い出が呼び起こされた。辛くもあったが、全てではない。そしてその全てに、母の愛が、親の愛が込められている。


『ちょっと春子っ! アナタどこにいるの!? いったい今何時だと──』

「お母さん──」


 怒りと不安の入り乱れた、奇妙な声がスマホから響く。それを途中で遮ると、穏やかな静寂が訪れた。


「お母さん。私ね──」


 一つ間を置いて、高鳴る鼓動を落ち着ける。心の中で彼を想う。夏色の彼の、太陽のような微笑みを──



「──好きな人がいるの」



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