前篇 (春子視点)



 気がついた時には、日が暮れていた。


 カーテンの隙間から射す緋色の光は、慰めるように私を照らす。


「ぐす……」


 自室のベットの上で、泣き腫らした顔を隠すように、濡れた枕に顔を埋めていた。


「どうして……」


 後悔のあまり、思わず口から漏れだしていた。どうしてあんな事をしてしまったのだろう。そう思い始めると、両の眼から涙が溢れ始めてしまった。顔を埋めた枕が、さらに冷たくなっていく。


「春子ー。そろそろ時間だから、降りて来なさーい」

「っ……分かったー! すぐ行くー!」


 扉の向こうから、私を呼ぶ母の声がした。急いで声を整えて、いつもの様に返事をする。

 今からこの街での夕食を、外で華やかに行うことになっている。いわゆる最後の晩餐だ。



 ──私は明日、この街を去る。



 ベッドから跳ね起きて、クローゼットに手をかける。両開きの扉を開け放ち、着たままだった制服のブレザーに手をかける。


 衣擦れの音が部屋に落ちる。記憶を脱ぎ捨てるように、真っ白なブラウスに手をかける。だけどボタンを外す度に、数時間前の出来事が頭の中に映り出す。




 ✱✱✱



「ねぇねぇ春子」


 賑わう教室の中、私の肩が叩かれた。振り返れば、怪しい笑みを浮かべたクラスメイトの顔があった。その顔が耳元まで近づいてくる。


「春子は書かないの? 黒板」

「え……なんで?」


 声が上ずらないように、平静を装いながら聞き返す。


「なんでって……好きなんでしょ? 夏男のこと」

「えーと……」


 この学校には伝統がある。卒業式当日。在校生は卒業生に祝いの言葉を黒板に書き、卒業生がその上から次の三年生へとエールを送る。そしてもう一つ生徒の間で密かに広まっている。

 黒板に互いの名前を書き記す。もしくは相手への愛を綴る。そうすれば、既に実った愛は永遠となり、募らせた恋は成就するという。どこにでもあるおまじないだ。


「そういうのじゃ、ないから……」


 悟られないように、淡々と彼女の問いに嘘をついた。


 クラスメイトはつまらなそうな表情を浮かべて黒板の方へと向かっていた。その後ろ姿を見送って行き場なくさ迷う手で髪を梳きながら、窓際から教室を見渡した。その視線は、男友達と写真を撮る一人の男子生徒を捉えていた。


 教室を埋めつくしていた賑わいは、時計の針が頂上を通り過ぎる頃には別棟でのランチビュッフェへと移っていった。


 緊張のあまりに食事が喉を通りそうになかった私は、早々に会場を抜け出して教室に戻っていた。ポケットからスマホを取り出してメッセージアプリに送られたメッセージを確認する。人気ひとけの無くなった教室にとある男子生徒に呼び出された。私はスマホを仕舞い、高鳴る鼓動を落ち着かせる為に、自分の机に腰掛けて真っ青な空を眺めていた。


 背後から音が聞こえてきた。足早に近付いてくるその靴音は、いつも聞き慣れた彼のものだ。それが教室の出入口付近で立ち止まる。


「お、ようやく来たな──」


 最後にゆっくりと息を整えて、振り返りながら席を立つ。穏やかに吹く春風が、私の髪を優しく撫でる。


「話って……何?」


 声が震えないように気を付けながら、いつもの様に彼を見る。


 これまで何度も目にしてきた彼の姿に、整えた心が再び跳ねる。


 吹き抜ける風に揺れる僅かに癖のついた前髪。新緑のように煌めく瞳。健やかに焼けた小麦の艶肌。


 その姿は常に晴れやかに、常に伸びやかに、爽やかに香る夏の光、私を悩ませる夏の太陽大罪人。そんな彼に──




 気がつけば私は、恋をしていた──



「あー、えっと……その……だな──」



 いつからだろう──彼の視線が気になるようになったのは──



「それより、いつまで廊下で立ってるつもり? そろそろ入れば?」

「あ、ああ──」


 出入口で立ち尽くしていたままの彼の姿が可笑しくて、自然と頬が緩み、胸の真ん中が温かくなる。慌てたままの彼へ声をかけると、平静を装いながら、教室の敷居を跨ぐ。




 いつからだろう──彼の背中を追いかけ始めたのは──




 一歩、また一歩と歩を進め、教室の対岸から夏色の彼が歩み寄ってくる。教壇に上がり、黒板を横切る。教卓を越えて、私の側へ。




 ──いつからだろう──彼を想うようになったのは──


 私たちの出会いは、決して劇的なものではなかった。命を救われたわけでも、曲がり角でぶつかった訳でも無い。単なる偶然の積み重ね、不運な事故の連続だ。そんな不運な偶然は、いつからか運命へと姿を変えて、私の世界を彩った。


「あー、えっと……待ったか?」

「うん。待った──」


 いつもは淀みなく喋る彼が、端切れの悪い言葉を口にしていた。それがなんだが可笑しくて、どうしようもなく愛しくて、思わず意地の悪い言葉を返してしまった。


 その言葉に彼は口を噤んで、視線を泳がせ始めていた。その落ち着きのない姿に、私の心は揺れ始めた。


「……」

「……」


 生温い風が、私を現実に引き戻す。手を後ろに回して力を込めて視線を落とす。彼の声にならない声が聞こえた。


 次に出る言葉は分かっている。こんな場面で飛び出す言葉は一つしかない。いつもの軽口すら口に出ない事が、その言葉の重さを証明していた。


 落とした視線の先に、拳を握る彼の手が見えた。


 彼があの言葉を口にするのは時間の問題だった。次に彼が息を吐けば、その後は流れるように言葉が出てくるだろう。


 私は覚悟を決めてより一層、後ろで組んだ手に力を込めた。


「私ね──」


 彼の言葉を遮るように、強めの語気で牽制する。


「私ね……この街を出るの──」


 そう彼に告げた瞬間。凍てついた刃が、私の心に突き刺さった。痛みに耐えて、滲み出る涙を抑えながら、彼の足元へ視線を落とす。まるで時間でも止まってしまったのかと思うくらいに、微動だにしなかった。


「え……」


 彼の気の抜けた弱々しいその声音に、胸の奥が締めつけられる。次第に身体が小さく震え始めた。


 誰にも言わないまま、人知れず街を出るつもりだった。そうすれば、誰も苦しむことは無い。そう思っていたから。


「だったら会いに行けばいい。何処にだって会いに行くさ」

「無理だよ……だって遠いもの」


 慌てたように食い下がる彼の言葉を、震える声で遠ざけようとするが、彼の足が一歩前に進み出してくる。


「そりゃあ難しいかもしれない。でもバイトすれば、新幹線でも飛行機でも、国内だったらどこへだっ、て……」


 勢いのあった彼の言葉は、みるみるとその力を失っていく。恐らく彼は気が付いたのだ。私が旅立つその行き先が、容易に会いに行ける場所ではないことに。

 私はゆっくりと顔を上げる。目の前には同様に揺れる彼の瞳。その震える目を見た途端、私の瞳の奥底から、声にならないな感情が涙となって込み上げてくる。


「嘘……だよな……?」


 彼の空いた口から、聞いたことのない声が漏れ聞こえた。陰り始めるその表情が、私の心を締め付ける。


「……ごめん──」


 振り絞るように繰り出した言葉は、彼の身体から力を奪った。輝いていた瞳は曇り、肩がだらりと垂れ下がる。


「……帰って、来るんだよな?」

「……」


 弱々しい彼の姿をこれ以上見れなくなって顔を逸らす。出来ることならそうしたかった。だがそれを叶える事すら不可能だった。


「こんなのって、アリかよ……」


 横目で彼の様子を伺う。膝に片手をついてふらつく身体を支えながら、反対の手で顔を覆う。手の隙間から見える唇が苦しみの色に歪んでいく。


 きっと、彼は考えている。この状況を打開できる策を、必死になって考えている。

 だが無理だ。そんな事は不可能なのだ。いったい私がどれほどの時間を費やして、解決しようとしたことか、その度にどれだけ絶望し、眠れない夜を過ごしたことか。私が諦めたこの問題を、この短時間で解決出来るわけが無い。


 これ以上彼を見ていては、せっかく固めた私の覚悟が揺らいでしまう。

 私は静かに、吹き抜ける風に乗るように歩き始める。


「お前が何処に行ったって関係ない、俺はそれでも──」


 彼の横をすり抜けようとした時だった。振り絞るように声を出して、今にも潰れそうな身体を持ち上げて顔を上げた。


「もう……無理だよ──」


 そう言い残して、足速に彼の隣をすり抜けた。


 最後に遮った彼の言葉が、私の心を突き刺してくる。拒んだ最後の一言が、鋭く深く抉っていく。胸の鼓動が鳴る度に、涙が溢れて止まらなかった。

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