後篇
『そう……。無事ならそれでいいの。じゃあ、帰ってくる時は電話してね?』
「あぁ、分かった。それじゃあ──」
そう言い残して通話を切り、腰掛けている元自席の机の上へ、ゆっくりと置いた。
律儀な母からの電話は、朝家を出たきり帰らない息子への説教ではなく。ただひたすらに俺の心配をするものだった。俺の声を聞いた瞬間に安堵の息を漏らし、俺の沈んだ声音を聞き分けてひたすらに耳を傾けてくれた。
「はぁ……。結構疲れるもんだな……」
歩き疲れたのか、それとも喋り疲れたのか、静寂の潜む教室に、ため息混じりの声が喰われていく。
あれから、ひたすらに街を歩き回っていた。ままならぬ想いを抱きかかえ、居場所を求めて彷徨った。
通学路にある古い文具屋、桜舞い踊る小さな公園、川沿いにある駅のホーム。
街中を歩き回ったが、俺の居場所は見つからなかった。その代わり街中の至る所に、彼女の
「ホント……勘弁してくれよ──」
この街で産まれ、この街で育った。住み慣れたこの街が、僅か数時間の間に住みにくい街に変貌していた。そう思うだけで、乾いた笑いが飛び出してくる。もういっそ全部投げ捨てて、別の場所に行こうかとも、疲れた頭が考え始める。
俯いていた顔を上げ、暗がりに沈んだ部屋を見渡す。期せずして思い出巡りの旅路となってしまったが、ここが最後の終着点だ。
寝静まる校舎、最期の
忍び込むのは簡単だった。なにせこれが初めてではない。過去に使った手段を用いてするりと敷地の境をまたぐ。
静寂の満ちた教室を彷徨っていた俺の視線は、鮮やかに彩られた黒板に吸い寄せられる。
昼間、仲間達が落書きをしていた黒板だ。その無規則な芸術品は、次にこの教室を使う生徒達が来るまで遺される。それがこの学校の伝統だ。
卒業式当日。在校生達からの祝いの言葉で飾られた黒板は、卒業生の手によりその色彩を増し、次の三年生へと贈られる。
その黒板に、自然と足が向いていた。机の群れをかき分けて、触れられる距離まで足を伸ばす。
大きな黒板の上に所狭しと描かれた、何かも分からない絵の隙間を縫うように、小さく文字が刻まれていた。あるものは男女の名前が傘の中に、あるものは意中の相手への愛の言葉。幾つか刻まれたその言葉達は、自然と芸術の中に溶け込んでいた。この学校の伝統と共に、代々伝わるジンクスだ。
本来ならば、書いた本人を茶化しながら、勇気とともに背中を押して、人知れずエールを贈るもの。祝福するべき言葉達だ。だが今は、その言葉達は不自然に浮き上がり、嘲笑うように俺を見る。
その光景が、俺の心に闇を生んだ──
「っ──」
生まれたその闇は瞬く間に膨れ上がり、黒い感情となって俺の身体を支配していった。
「っ!!──」
チョークの腹で黒板を殴るように腕を振るう。絡まる感情を斬り裂くように、褪せる想いを塗り潰すように、ただひたすらに腕を振るう。
「はぁ──はぁ……はぁ──」
我に帰る頃には、息が上がっていた。恐る恐る黒板に焦点を合わせる。そこには黒板の中央に堂々と、ある文字が描かれていた。
たった三文字。俺の想いのありったけが、あの時言えなかった言葉が、仲間達の想いの上に鎮座していた。
「なにしてんだよ……俺はっ──」
冷静になるに従って、怒りと恥ずかしさでおかしな声が飛び出した。
どうしてこんな事をしてしまったのだろう。自分だけ実らなかった事への哀しみなのか、この言葉たちへの妬みなのか、それとも今更このジンクスにあやかりたかっただけかもしれない。
だが、もう手遅れだ。二度と元には戻らない。
俺の想いも、彼等の
「くっ──」
俺は飛び出した。目の前の現実から目を逸らすために、逃げるように教室から飛び出した。脇目も振らず廊下を走り、階段を駆け下り、振り返ることなく真夜中の校舎を後にした。
そこから先は走り続けた。息の続く限り、足が棒になるまで、ただひたすらに走り続けた。そして気がついた時には、家の前に立っていた。
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